玉ねぎ星人を目指して
音骨
第1話 玉ねぎが沁みる
名前は最も短い呪いだと聞いたことがある。私自身、玉ねぎを連想する名前をつけられたことで、人生の道行きが決まった。あだ名は大抵、玉ちゃんか、玉ねぎ。そんな私が玉ねぎで食中毒を起こしたのは、呪力のネガティブな側面だったのだろう。十歳の夏のこと。以来、想像だけで吐き気を催すほどの玉ねぎ嫌いになった。
うちは総菜屋だった。母は毎朝早起きして五ダースほどの玉ねぎを切っていた。十歳で母が死んでからは、私がその役目を肩代わりさせられた。とてつもない拷問だったが、ある種の試練だった。
大脳皮質ともっとも連結しているのは手と口と聞く。手先を酷使することで反復運動と快楽中枢が結託する。私はいっぱしの玉ねぎカット中毒者となった。中学に上がる時分には、包丁の切れ味による微妙な味の差を熟知するほどの手練れとなり、夢でも玉ねぎを切り、授業中もイメトレに励み、まさに玉ねぎづくしの学生時代を過ごした。
高校入学後は、近所のレンタル畑で玉ねぎ栽培を始めた。二年生の夏には調理師免許も所得した。とはいえ、玉ねぎ星人になるのは夢のまた夢と思っていた。彼らは天上界の住人であり、私ごとき一介の田舎者は憧れることさえ許されないものと早々に諦めた。
高校卒業後は、繁華街の玉ねぎ・ BARに職を求めた。
接客はおもにベテランの先輩スタッフやマスターが務め、私とシンジはウェイター、および玉ねぎカットマンを担った。シンジは往年のヤンキー漫画に登場する老け顔パンチパーマの荒くれ者で、最初は見た目でドン引きしたものだが、玉ねぎオタクとわかってからは意気投合した。
店では、一晩に三回ほど玉ねぎのみじん切りショーが行われた。私はシンジの一年後輩だったため、催涙ショーを盛り上げるマラカス係に徹した。ひたすら玉ねぎをみじん切りするだけのショーだが、中には涙する者もいた。催涙成分のせいではない。玉ねぎカットマンは切り方によって客から様々な感情を引き出す。玉ねぎ星人ともなれば、一ラウンドで映画一本分以上のドラマを引き出すことも可能だった。
私自身はまだ人前で披露したことはなかった。カット技術には自信があったが、達人はカットの種類のコンビネーションにも長けている。その組み合わせによって、人々の感情を自在にコントロールすることができるのだ。
人前で披露し、一人も泣かせられない夢をよく見た。なけなしの自信を挫かれることをつねに恐れた。一体、ベジタブル星人を目指している若者がどれだけいることか。目指すとなれば、都会で部屋を借り、バイトをしながらメンバーを探し、畑や厨房と契約をし、並み居る強豪を押しのけて大手メジャーベジ会社の狭き門をくぐらねばならない。しかも本当の勝負はそこからなのだ。その長く曲がりくねった道を想像するだけで、途方に暮れた。
大手ベジタブル会社が求めるのは、永続的な商品価値を見込める人材であり、二十代半ばを過ぎたら、諦めるのが一般的だった。玉ねぎ星人を目指すなら、十九歳はギリギリの年齢だった。
「どれだけ先読みできるか。それで、そいつの人生は決まる」
これはユウヤの名言だ。隣のビルのスイカ・BARのバーテンで、シンジの中学時代の同級生。優男風の細マッチョ。新人二年目にして彼を指名する女性客は二十人を超えていた。
三人で飲んだ夜、私は話の流れでスイカカットを披露した。包丁使いに感心されて気を良くし、初めて彼らの前で卓越した玉ねぎカットをみせつけた。カットが始まると、私自身が玉ねぎと化した。真夜中の月を逆立ちで見ているような感覚だ。その異次元世界では音の流れがパルスの波のように視覚化される。
まずは極薄カットで心の襞を撫でつける。管制塔の照明が捉えられない速度で、観客の心に火を灯す。心の至る箇所にバリケードを張り巡らされ、逃げ道を奪われた観客に、ランダムみじん切りを浴びせる。仕上げは超絶速切りだ。彼らの脳天にマシンガンを撃ち込む。すると、観客は自分でもよくわからないうちに涙をこぼすのだ。その夜はいつにも増して包丁さばきが冴え渡り、店内の半分以上がさめざめと泣いていた。中には嗚咽している者までいた。
「やべえ!」
シンジが泣きながら抱きついてきた。
「すげえよ! お…、俺は、俺は、久々に泣いたぞ!」
シンジの頭部からは、シンプロパネチアル-S-オキシドのつーんとした匂いがした。玉ねぎカットにとっては勲章のパフュームだ。
「ねえ、玉ねぎちゃん」と店のママがつかつかと歩いてきて、私に握手を求めた。「玉ねぎちゃんと呼んでいい? 私、泣いたの幼稚園以来。あなた、絶対に玉ねぎ星人になれる。それ忘れないで」
そっと目尻を拭い、彼女は席に戻った。うれしかったのと、学びがひとつあった。
『玉ねぎ道の心得その参 カットマンの涙が客の涙を誘発する』
伝説の玉ねぎ星人、
私はその時点で、玉ねぎの切りすぎで涙腺が麻痺していた。この日以来、私は常に目薬を常備している。
閉店後、私たちは夜の海岸にドライブし、そこでユニット『真玉ネギ人』を結成した。普段はクールなユウヤにまで褒めちぎられた。
「全力でお前をバックアッする。いい夢を見させてくれよな」
ハグまでされた。
それ以降、私たちは月に一度は地元のベジマーケットに出店し、路上パフォーマンスを行った。
先陣ユウヤのスイカカットで甘い誘惑の罠を仕掛け、続くシンジの玉ねぎカットでぴしゃりとドアを閉める。とどめに私のマシンガンカットで涙腺を決壊させる。客からの反応も上々で、回を重ねるごとに自信を増していった。家族や友人だけでなく、店の客やスタッフにも、玉ねぎ星人を目指していると堂々と宣言するようになった。そのことで店長に呼び出されてお咎めを受け、最後にはけつを叩かれた。
「人生は一度きりだ。後悔するのは、航海に出てからにしな!」
都会に移住した当初は、風呂なしトイレ共同のアパートで同居をした。週三回、レンタル畑で練習し、今後の活動について話し合った。月に二、三度は都内のフリマや野菜マーケットで直売パフォーマンス。しばらくしてユウヤは飲み屋のバイトで知り合ったベジ・キャバ嬢の部屋に転がり込んだ。私はシンジが日常雑貨品や練習用玉ねぎを率先して買わないことにイライラし続けたが、一人暮らしの孤独を思えばマシだった。
転機が訪れたのは、上京して一年後、大手ベジタブルユニオン主催のメジャーデビューを賭けたオーディションへの参加。月に一度開催される予選は、満場一致での一位通過。審査員からも高い評価を得た。
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