第39話 巧美に手が届く、その前に――
空が白み始めたばかりの早朝。寒い空気に身震いしながら、俺は彼女の自宅の呼び鈴を鳴らした。まだ寝ている時間帯だとは思ったが、早く知らせたくて居ても立っても居られなかった。
呼び鈴を鳴らして数秒待つ。起きてくる気配はない。
(……やっぱ寝てるかな)
どうしようか迷ったとき、目の奥で強烈な痛みが走った。
咄嗟に瞼の上から手で押さえる。眼孔の奥、脳に近い辺りで、ズキズキとした痛みが断続的に襲ってくる。
痛みはもうだいぶ前から発生していた。徹夜続きで疲れていはいたけれど、単純に疲労のせいとは言い切れない痛みのような気がした。
早く報告して、安心して眠りたい。その一心で、俺はもう一度呼び鈴を鳴らす。反応はない。もう一度押す。この際、迷惑をかけていることなど無視した。
やっぱり、何の反応もない。
嫌な予感がした。
ガチャリと音が鳴る。それは目の前のドアからではなく、隣のドアからだった。
振り向いた先では、ボサボサ頭にスウェット姿の男が眠気眼で玄関を開けていた。ゴミを持った男はあくびをしながら外に出てきて、隣の部屋の前に立つ俺に気づくとぺこりと会釈する。
気まずさを覚えながら会釈し返すと、男は言った。
「隣の家だったら、昨日荷物出してましたよ」
「――えっ」
呆ける俺の横を、男が通り過ぎていく。
心臓の鼓動が早くなっていく。
俺はすぐさま走った。階段を降りてアパートの敷地を飛び出し、スマホを取り出す。巧美の電話番号にかける。
走りながらコール音を聞き続ける。
(出てくれ、頼む……!)
祈りながら走る。でも、どこに? 引っ越してしまったなら、あいつはもう遠くに行ってしまった。まさか徳島にまで追いかけるのか。
そもそも引っ越しの日は十一月末の今日だったはず。一日早まったなんて俺は聞いていない。メッセージも無かった。
なんで巧美は教えてくれなかった。
待っていてくれなかったんだ。
疑心暗鬼に駆られている最中、コール音が止む。繋がった気配を感じた。
『……ユーキ?』
「巧美か!? おま、今どこに――」
――ギィーンンンンンンッ
「がぇ……!」
目の前の光景が上下左右に動く。周囲の音が消えさり、鋭い金切り音が脳内に響く。
点滅する視界にはコンクリートの地面が映る。そこでようやく、自分が転けたことに気づく。でも痛みはない。いや、脳みそを抉るような激痛のせいで、身体の方の痛みなんか気にならないだけだった。
起き上がろうとして、力が入らない。強烈な痛みで視界が歪む。声が出せない。
まるで、槍で目を貫かれているみたいだった。
『ユーキ? ねぇ、どうしたの? ユーキ!』
俺の異変に感づいたのか、巧美がにわかに声を上げる。
伝えたいのに、口がうまく動かない。浅い呼吸を繰り返すしかできない。
「た、く……」
どうして。もう少しで、あいつと一緒に居られるのに。
バンドをやっていこうと決めたのに。
こんな俺でも、夢ができたのに。
最後の最後でこうなっちまうのは、俺への天罰なのかな。
誰かが叫んでいる。その声を聞きながら、視界は闇に染まった。
***
結論から言うと、俺は路上でぶっ倒れて意識を失い、救急車で搬送された。意識を取り戻したときは既にベットの上で、点滴と繋げられた状態だった。
診断の結果は、睡眠と食事をろくに取らず動き回っていたことによる極度の疲労、つまり過労で倒れたのだと言われた。それ以外は特に異変はないようだった。
あの凄まじい頭痛が本当に徹夜のせいで起きたのか、少し疑問に思うところはある。なにせぶっ続けで魔眼を酷使したのは初めてだ。因果関係があるんじゃないかとも思った。
だけど魔眼のことなんて医者に説明できるはずもなく、納得のいく理屈を自分で出せるはずもない。真相は闇の中だ。
でも、そんなことはどうでもいいことだった。
病院で目を覚ましたとき、意識を失ってから二日が経過していた。
巧美に連絡をした日から二日も経ったことになる。
あいつはもう、この街にはいない。
引き留める唯一のチャンスだったあの日、俺は何もできなかった。
俺に芽生えた新しい兆しは、その日に失落した。
入院期間は一週間程度で終わった。身体はすっかり元気になって、普段どおりに学校に行くこともできた。
しかし俺には何の感慨もない。行ったところで別に何があるわけでもない。クラスでは浮き始めているし、かと言って話したい人間もいない。
そんな状況でも焦りや不安はない。魔眼を使えばどうとでもなる。単なる消化試合だ。
だからこそ俺は誰ともわかりあえない。一人イージーモードで暮らす俺には他人の苦労も喜びも本当の意味で味わうことはできない。
あいつが居れば違ったのだろう。
でもあいつは、もう居ない。
サボってしまおうかとも考えたが、両親にこっぴどく叱られた後ではそれも控えるしかなかった。ぶっ倒れるまで外に出歩いていた理由を、悪い友達に誘われるまま徹夜で遊んでいた、なんて言い訳にしてしまったものだから、さすがに心証も最悪になってしまった。
もうちょっとマシな言い訳にすれば良かったと後悔しているが、思いつかなかったのだから仕方がない。しばらくは大人しく過ごすしかないだろう。
十二月の寒い気温に身体をちぢこませながら、俺は昇降口で上履きに履き替え、とぼとぼと廊下を歩く。自分の教室の前で溜息を吐き、ドアを開ける。
当たり前だが、数藤巧美が使っていた席には誰も――
「お、やっと来た」
居ないはず、なのに。
「思ったより元気そうじゃん、ユーキ」
数藤巧美の席に座ったそいつは、俺に向けてニヤリと笑いかけてくる。
ウルフカットにした黒髪、細い眉、小さな顔、艶やかな唇、大きくて意思の強そうな瞳。
見間違えるはずがない。
「な、な、な……!」
わなわなと震えながら指を差す。教室の連中が俺とそいつを興味深げに見守っている。
そいつは、席から立ち上がって堂々と俺に近寄ってきた。
「話は昼休みね。鍵持ってるでしょ?」
そう言って俺の肩をぽんと叩き、廊下へ出て行った。
硬直していた俺は我に返り、彼女の後ろ姿を追う。上機嫌に鼻歌なんか歌いながら女子トイレへと消えていきやがった。
「ねぇ、犬飼くん」
急に呼ばれてビクリと振り返る。いつの間にか安達愛良が俺の近くに立っていた。
「なんか、数藤さんいるんだけど」
「……やっぱ、本人、だよね?」
「引っ越しするんじゃなかったの?」
「……その、はず」
怪訝そうにしながら腕を組んでいた安達は、ふぅと短く息を吐く。それからパッと表情を変えた。「まーいっか♪」
「残ってんならそれでいいや。また二人にはちょっかい出すから、よろしくね~」
にこやかに笑った安達はひらひらと手を振って、友人たちの元へと向かっていった。
切り替わりが早すぎる。それでいいのかお前。
翻弄されるばかりの俺は、頭が真っ白のまま突っ立っているしかなかった。
わからん。なんもわからん。
***
昼休み。屋上の鍵を開けてプールサイドで待っていると、そいつは現れた。
「やっぱり鍵はちゃんと見つけてたか。えらいえらい」
ドアを開けてやってきた巧美は得意げに笑っていたが、木枯らしが吹くと寒そうに両手で身体を抱く。「うーさぶっ」
「冬は別の場所で待ち合わせしたほうがいいかもね」
「……なんで居るんだよお前」
本題を直球で投げる。
巧美はすぐには答えず、飛び込み台に腰掛けた。それから胡乱げに俺を見つめてくる。
「マジであんたさ、ちゃんと事前に説明してくれないとこっちも困るんですけど。警察から連絡来て超ビビったから」
「け、警察?」
「そうだよ。ママから金を盗んだ詐欺師が自首したらしいんだけど、そいつ出頭する前にうちの口座にお金を振り込んでたらしくて。んで、ママのところに事情を聞きに来たの」
そこまで言われて理解する。警察は不自然な金の流れを怪しんで、巧美の母に接触したのだろう。かつては恋人関係にあったのだから調べる対象になるのは当然だ。
「それじゃ、戻ってきたお金は……また使えなくなった、のか?」
詐欺師が資金を隠そうとした、あるいはマネーロンダリングなどを疑われたなら、もしかすると警察が調べるために自由に使えないかもしれない。せっかく取り返したのに、それじゃ苦労が水の泡だ。
「取り調べとか身辺調査されて、うちが被害者の一人だってことと、金の振り込みに心当たりが無いってことがわかって無罪放免。戻ってきたお金も、手続きとか面倒なことはあるけど、そのまま家のものになるってさ」
俺はホッと胸を撫で下ろす。良かった。
そんな俺を巧美は真正面から見据えている。ていうか伊達眼鏡をかけていないことに今更気づいた。
「その感じだと、やっぱ魔眼で何とかしたのね」
一人納得した巧美は、俺の返事を待つこと無く大きく息を吸い込んだ。
「――そーういうことは先に言いなよね!? そしたらママを引き留めておくとか、引っ越し日をずらすとかできたじゃん! もう荷物出した後で説得すんの超苦労したんですけど!?」
「いや、だって……ってもしかして、引越し後に戻ってきたのか?」
「そうだよっ! ギリッギリだよ!」
憤懣やるかたないといった巧美は腕を組んで鼻息を吐く。
「まぁ、実際は荷物送っただけで、あたしとママはまだホテルに泊まってたけどさ。それで朝方に電話かけてきたと思ったら、かけながらぶっ倒れるし。マジでほんと、超焦って……ほんと、何ともなくて、良かった」
最後の方は尻すぼみになって消えていく。巧美は険しい表情で、ともすれば泣き出しそうなくらいだった。
俺は所在がなくなって、後頭部を掻くしかない。つまるところ十一月末に居なくなるという情報は合っていて、ただ自宅に居なかっただけで、あの日に倒れなければ割とうまくいっていたらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます