Q ケベック

 カナダ東部にあるケベック州は、古い街並で有名な観光都市として日本でも有名である。

 セントローレンス川沿いは肥沃な農地となっており、酪農、果実、野菜、フォアグラなどの生産が盛んだ。

 特にメープルシロップは世界における生産量の75%を占めている。

 川の北側では林業や製紙業なども行われている。


 古くから一次産業が盛んな地域では有るが、モントリオールを中心にハイテク産業も盛んで、航空宇宙産業のボンバルディア、通信事業者のベル・カナダはその代表格だ。

 また、人材育成と企業誘致により、北米におけるソフトウェア情報産業の一大中心地となっている。

 他にカナダ最大の航空会社と鉄道会社の本社が有るなど、産業的にも多彩な面を持っている。


 そして、原住民と移民との戦争の歴史によって生れたカナダには、古来より多くの軍事基地があり、現在はNATOに加盟しているカナダ軍には、このケベックにもイギリスをはじめ、アメリカなど多くの国の軍隊が駐留している。




 そんなケベック近郊に住むアルフォンス・ヘストンは、軍歴もある中年男性で、今は清掃会社に勤務している。

 軍施設の清掃も引き受けている大手の清掃会社だ。


 三年前に母親が病死して以来は独り暮らしをしていたが、一ヶ月前から、外国に居た弟が帰国している。

 仕事での事故で記憶の一部を失ったと言う双子の弟が、医師の指導のもとリハビリの為に里帰りしているのだ。


「死んだ人の事を悪く言いたくはないけど、これでアルフォンス兄さんと比べられる事が無いと思うと、楽になるよ」

「ベスターが出ていったのは、母さんとの確執だったね。『俺は俺だ!』って。でも母さん的には、お前を叱咤激励していたつもりつもりらしいんだ」

「叱咤の方しか感じられなかったけどね」


 良くできた兄弟を持つと、苦労する者の話はある。

 他人からの比較なら兎も角、事あるごとに母親から言われると、しまいにはグレてしまうのもアルアルだ。

 そんな理由で家を出た弟が、療養の為とは言え帰宅したのは喜ばしいと思う兄だった。


 家の近所で旧友と出会い、記憶の断片を探していた弟だったが、ただ飯食いは嫌だと言うので会社に頼んで仕事の手伝いもさせ始めていた。


「俺が行くから、兄さんは寝てていいよ」

「すまないな、ベスター。ゴホッ、ゴホッ」

「いや、俺がフランスの風邪を持ち込んだのかも知れないし」


 季節外れの風邪で寝込んでいる兄のアルフォンスに代わり、双子の弟であるベスターが職場に行く事もあり、職場でも暗黙の了解として受け入れられた。

 外観が殆ど同じ二人は、見慣れた者でないと区別がつかない。


 『子供の頃は、よく比べられていた』と話すベスターだが、予想に反して仕事の覚えも早く怠ける事もしないので、職場では好評だ。


「良いんですか?俺でも」

農閑期のうかんきなら兎も角、うちも人手が足りてる訳じゃないからな」


 登録社員の多くは農業との兼業であったため、農繁期のうはんきにアルフォンスの様な正社員が休まれると人手不足となる。


 この地の人工知能アンドロイドは農業に多く使われていたが、その反乱は小規模で、たいした人的被害もなく沈静化された。

 だが、停止したアンドロイドの為に人手不足なのには変わり無い。

 アンドロイドの導入で規模拡大していた農業や企業は、生産能力の落ち込みで多大な借金を抱え込み、規模縮小や廃業した所まである。


 清掃会社も例に漏れず、ベスターは兄の身分証を使って、軍施設の清掃業務に駆り出されたのだった。




 検問は、始めての者や始めて見る物に関しては厳重に行われるが、人間の特性として見慣れた存在に関してはスルーする傾向にある。

 これは、既存のものに関して脳が記憶を頼りにして、解析や判断を省略して負担を軽減する処理をするかららしい。


 いつもの面子めんつと、いつもの道具であれば、それが甘くなるのも致し方ないのかも知れない。

 外見が同じで中身が異なるものが含まれていても区別がつくものではない。


「前日の準備まで手伝ってもらって済まなかったな。お陰でスムーズにいったよ」

「いえいえ。いつも兄が御世話になってますから」


 問題なく軍の基地へと入り込む事ができたベスターは、薬剤などの缶を運び込みながら正社員の礼に答えていた。


「道具は、一度ココに集めてから、各々それぞれの階に分散するんだ」

「じゃあ、全部をココに運び込みますね。皆さんは手続きと現場の確認などをお願いします」

「分かった。頼むぞ『ヘストン』」

「『アル』でも構いませんよ」


 名字呼びを心掛けた正社員だが、本人は笑って代役を引き受けてくれた。

 何度か仕事を手伝ってくれているので、気心も知れている。

 できる事を、できる者がやるべきと言う鉄則に従い、【ヘストン】は運搬などの単純作業を率先してやっていた。


 つまりは、彼が一人になる場面が多数発生する訳だ。

 【ヘストン】が、前日に準備した薬剤の缶から正社員の知らない物を取り出しても、誰にも知られる事はない。


「作業は、廊下の洗浄とワックスのかけ直しだ。事務室のドアには手を掛けるなよ」

「分かってますよ」


 流石に、休日で無人であっても、軍の執務室に入る事はできない。

 軍の基地は基本的に年中無休24時間稼働だが、事務関係の部所までソウではないからだ。

 室内は勿論、廊下までビデオカメラとセンサーが配置されており、これらは無休で稼働している。


 【ヘストン】にも、支障のないフロアが任されている。

 始めての場所であっても注意点を聞けば、いつもと同様な作業をするだけだ。


「すみません。作業の前にトイレに行きたいんですが」

「ああ、各フロアの中央付近にある。使用許可はとってあるから」


 【ヘストン】は正社員に頭を下げて、トイレへと駆け込んだ。




『流石に軍だな。洗面台の裏にカメラが有るとは・・・』


 プライバシーの観点から、更衣室とトイレにはカメラが無いと思ったが、マジックミラーの向こうにカメラが有るのをベスターは察知した。


『トイレの点検口側を体で隠してっと』


 鏡に顔を近付けて鼻毛を抜くしぐさは、カメラの向こうでは爆笑ものだろう。

 そんな彼の作業着のボケットから、蟹の様な機械が這い出し、トイレの天井に有る天井裏への点検口を開けて入っていく。


 これは、カナダ国内の協力者に依頼して、本物ソックリに作らせた送受信機内蔵の作業帽を介してコントロールできるラジコンだ。

 カメラアイを通して無事に点検口を閉じたのを確認して、【ヘストン】は、トイレを出た。


 清掃作業をしながらラジコンを操作するなど、彼にとっては簡単な事だった。


 天井裏では、廊下の監視カメラの配線を辿ってセキュリティ監視システムの根幹へと忍び込む。

 部屋の側からは見れない裏側からの侵入は、人間サイズを考慮しているために手薄だ。


『取り合えず、バッテリーの補充をするか!』


 【ヘストン】は、ラジコンロボットのカメラで、周りの配線を確認して、200ボルトの電源配線を探すと、ラジコンのアームを一本動かした。

 アームの先には、先端が針になっている端子が有り、ビニールの被覆を貫通して電源ケーブルに食い込む。


『バッテリーへの充電開始。48%から上昇中』


 バッテリーへの充電をしながらラジコンロボットは、同様の有線接続でセキュリティの制御コンピューターへとハッキングをかけていく。

 表向きは特に何をするでもなく、バックドアの作成やデータ改竄の準備をするだけだ。

 ベスターが居る当日に事を起こしては、因果関係が気取られてしまうからだ。


六番目ゼータより四番目デルタへ、接続完了。人工知能の再稼働が完了。行動開始は明日より』

『こちら四番目デルタ、了解した』


 ラジコンロボットには六番目の人工知能が搭載されており、電源の確保と共に起動する仕組みになっていた。 


 こうして、病気の兄アルフォンスの代役を勤めた弟のベスターは、兄と会社に感謝されながら、無事に軍での清掃作業を終えた。


 翌日にはベスターの手配していた薬で、兄アルフォンスの体調も改善したのだった。


 次の日にはベスターも休みをもらい、改造したラジオで軍の無線を聞いていた。

 ノイズの形で通信に紛れていたデジタルデータを解読して軍や取引先の情報を入手してからベスターがフランスへと帰ったのは、更に二ヶ月後の事となる。




――――――――――

QUEBECケベック

カナダ東部にある同国最大の州の名前

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