第4話
サキュバスを抱き抱えて道を行く。流石にこれは、アルバートにとっても想定外の事態であった。大抵の亜人は、捕まえれば引き摺るように歩かせるが、ここまで弱っているとそういうわけにも行かない。今の消耗具合は歩かせるどころか、立たせていることすら危ういほどだ。
サキュバスに自らの外套を被せ、人目に付かないようにしてはいるが、抱えて歩くのは当然目立つ。何より、アルバート自身が街灯の下にも亜人保護管理局の制服を着ているのだ。抱えているのが亜人の類いであることくらいは、一目見れば子供にだって分かるだろう。
「不味いな」
奇異の目で見られることは、まだ良い。少なくとも、アルバート自身はそのような視線には慣れきっている。問題は、サキュバスの体力の方だ。一刻を争うと、日のある内に連れ出したのが不味かったのだろう。基本的に夜行性の彼女らであり、日光は得意ではない。得意でないとはいえ、通常なら日光に耐えられない吸血鬼ほど致命的ではないはずだ。それが、今は弱り続けていく一方だった。彼女の体が、衰弱しきって危険な領域にあるという証左だ。
「此処からなら、まだ家が近いか」
このまま連れ歩き、亜人保護管理局に着いた頃にはサキュバスは既に瀕死の重傷、そんなことにでもなれば笑い事では済まされない。仮にそのまま死んでしまえば、始末書で済めば御の字、当たり前のように降格、謹慎といった可能性さえある。別に組織内での昇格になど拘ってはいないが、わざわざミスを犯したいわけでもない。兎に角、まずは治療が先決だろう。幸いにも、アルバートの居住地区はそう遠くはない。
アルバートの住む家が閑静な住宅街であることも、今という状況には味方であった。商業地区などと違って、亜人と亜人保護管理局局員を見れば、避けるような者達がほとんどである。どんな目で見られて何を話されようが、邪魔さえされなければそれでいい。
誰も居ない自宅へ逃げるように駆け込み、サキュバスをベッドに下ろす。物寂しく、使用人もいない家ではあるが、こういうときにはむしろ好都合とも言える。誰も居なければ、余計な説明や手間をかける必要がない。
サキュバスの肉体からは、魔力が尽きようとしていた。ベッドに寝かせたサキュバスの様子を見れば、専門家ではないアルバートでもそれくらいのことは分かる。問題は、応急処置をどうするのかだ。
サキュバスは、性を喰う。文字通りの、性だ。主に男とまぐわい、精液ごと魔力を奪う。生物が魔力を授受する手段はいくつかあるが、性行為による魔力交換は、そもそも他のあらゆる手段よりも効率が良い。そして、サキュバスはその手段そのものが、既に生態と化している。魔力を奪う、すなわち性行為こそがサキュバスにとっての食事であり、呼吸なのだ。
ベッドに横たわるサキュバスは、明らかに十分な魔力の摂取が出来てはいない。どれほどの期間喰っていないのかは分からないが、限界なのは火を見るより明らかだ。今はまず、魔力を与える必要があった。
幸か不幸か、アルバートは常人よりも保有する魔力は高い。むしろ、その才能があるからこそ、帝国の魔術武官として勤めを果たすことができている。早い話が、このサキュバスに分け与えるだけの魔力を、アルバートは十分に持っているということだ。
サキュバスという亜人は、数多くある亜人の中でも特に人間に恐れ嫌われている種族でもある。理由は単純だった。普通の、魔力を持たない一般市民の男は、サキュバスと普通に性交すれば間違いなく死を迎えるからだ。一晩の性交で、魔力を、生命力を、精液から搾り取られ、文字通りの腹上死を遂げる。全てが終わった朝には、見るも無惨な姿になり果て、屍を晒す。
男からは、命と引き換えの快楽、その僅かな羨望と莫大な恐怖。女たちは、怒りと憎しみを募らせる。それが、サキュバスという亜人に向けられる一般市民の感情であった。力のない市民に、サキュバスを好む者はまず居ない。サキュバスに襲われたいと酔った勢いで口にする男も、実際に管理されていないサキュバスを目の当たりにすれば、その態度を改めるだろう。
目の前に横たわるサキュバスと性交をする。そんな愚行を行うつもりは、アルバートには毛頭ない。性交という行為自体に手間が掛かり、魔力を吸わせるにもサキュバスが能動的である必要もあるからだ。今の状況では効率が悪いのである。ただ魔力を与えるだけなら、手段はいくらでもあるのだ。
小刀を懐から取り出し、アルバートは自らの指先に押しつける。鍛えているとはいえ、所詮は人の皮だ。防護魔法を使っていなければ、普通に斬れば普通に傷つく。その傷から赤い血が、静かに指先から滴りはじめれば、それをサキュバスの口に押しつけ、押し込む。
「飲め」
相変わらずサキュバスは虚ろな意識だ。意思の疎通が正しくできているのかも怪しいのだが、無言よりはいくらか違うだろう。サキュバスという亜人は、決して吸血種ではないのである。平常であれば、自ら望んで血を吸うことはまずあり得ない。しかし、血液も、魔力を含む人間の体液には違いない。血を通じた魔力の交換は、原初的な魔術儀式の一つだ。
指先を、サキュバスが静かに吸い始めた。生きようとする、本能の動きである。ただ、その動きですら、艶やかであった。彼女たちにかかれば、ただ指を吸う、それだけでも性戯に等しい動きになる。
「敵わんな、これは。全く、これだけで」
サキュバスとは、つくづく難しい亜人だ。僅かこれだけの動きですら、他人を欲情させてしまう。此方がサキュバスの生態を理解していて、相手が傷付き弱っていて、これなのだ。
少しずつ血を飲んでいけば、青白くやつれていたサキュバスの肌に、張りが取り戻されていく。余程、魔力に飢えていたのか。正直なところ、そこまで多量に血を吸わせているわけではない。そもそも、吸血種ではないサキュバスだ。血液から魔力を、効率的に吸い取ることができるわけではない。それでも、なのだ。その僅かな魔力で、死にかけていた姿から、弱った姿にまでは戻ってみせる。焼かれた傷跡も、薄くなる。この調子でいれば、恐らく自然治癒してしまうだろう。常人よりも、強靱な生命力。やはり亜人なのだ。
傷が和らぎ、生気が戻った白い肌。病的な白さが、色気のある健康的な白さへと変わっている。果たして、この柔肌を火照らせたらどうなるのか。人の欲情を誘う肌を、サキュバスは既に取り戻していた。
「あ、んっ」
指を引き抜くと、それだけで吐息が漏れる。その吐息を耳元で囁かれれば、慣れない男はその時点で理性を失うだろう。そしてその気になれば、そういう趣味のない女でさえ落とせてしまうか。生まれながらの、魔性。口元から僅かに溢れる血が混じった涎も、彼女の魅力を引き立たせる小道具と化していた。
「起きろ。意識は、戻っているな」
アルバートも、男である。男としての機能を失っているわけでもない以上、サキュバスの色香に影響を受けていないわけではない。あくまでも知識があり、経験があり、理性の働かせ方を知っているだけだ。
「ありがとう、ござい、ます」
サキュバスが、何とか言葉を発する。この程度で、一先ずは十分だろう。ある程度で指を抜いたのは、サキュバスを弱らせておくためでもあった。死なれては困るが、万全の体調にする必要はない。むしろ、力を取り戻した亜人は危険でさえある。
「よし。喋れる程度には、回復したな」
「は、はい。その、あの、神殿から助けて頂き、本当に感謝の言葉もありません」
意識自体は、ある程度保ち続けていたのだろう。衰弱状態にあった時のことも、ある程度理解しているようだ。生命力の強さは、やはり常人のソレとは比べものにならないほど強い。未だ怯えてはいるが、自我に問題もないだろう。
「よし、話せるな。まずは、お前の名前から、教えろ」
「アザレア、そう、呼ばれていました」
本名か、偽名か、或いは通り名の類いか。何であれ、今はどうでも良い。認識するための個体名をアルバートは欲している。アザレア、目の前のサキュバスがそう自称した。その事実が、重要だ。
「分かった。アザレア、だな」
「はい」
「悪いがアザレア、首輪を着けるぞ。詳しい話は、それから聞かせて貰う」
「分かりました。お願い、します」
亜人保護管理局製の正規品、魔術拘束を行う戒めの首輪。それを着けることは義務であり、職務であり、亜人の意見など、最初から求めてはいない。今まで付けていなかったのは、アザレアの衰弱が極端に酷かったから、それだけだ。今の彼女なら、首輪での拘束にも耐えられるだろう。
抵抗されようが、否定の言葉を発しようが、無理矢理に押さえつけてでも封ずる。そのアルバートの決意を、あっさりと無意味な物へと変えてしまう。アザレアと名乗ったサキュバスは、観念しているわけでもない。むしろ、何処か恍惚とした表情で、自ら進んで首を差し出している。
「お前」
「何でしょうか、御主人様」
「いや、何でもない」
アルバートにも、待ち望む相手に首輪を着けた経験は流石にない。背徳的な感情に襲われながらも、サキュバスの細首に、無骨な魔術具である首輪を着ける。手が震えそうにもなるが、これは仕事だ。息を吐き、しっかりと、首輪による拘束術式を展開する。問題は、ない。
「ありがとうございます、御主人様」
小さく、恍惚と、アザレアが微笑む。くすぐられるようなこの感覚は、快感を伴っている。だがそれと同時に、紛うことなき違和感もその身に感じているのだ。
「いや、違う。待て、アザレア。お前は、何を言っている」
「はい、ですから、私をあの地獄から救い出し、魔力を恵んで頂きました。そう、隷属させて頂けたことにお礼を」
このサキュバスは、何を言っているのか。やははり、何かが、おかしい。アザレアは恍惚とした表情は崩していないが、決してふざけている様子もない。ただただ純粋に、正常なままに、おかしな言葉を紡いでいる。
「俺は、お前を、個人として隷属させた覚えはない」
認識の、齟齬。救った、それはまだいい。問題は、隷属という言葉の方だ。
「私に、首輪を着けて下さったのに、ですか」
「ソレは、違う。そういう意味ではない」
「ですが、私を地獄のような場所から、命を救って頂きました。それだけでも、このご恩は、私の命を持ってでも」
「仕事だ。仕事だからやった、それだけだ」
仕事と聞いて、アザレアが浮かべるのは不思議そうな表情だ。まるで、そんな発想自体がなかった、そんな曖昧な笑みを浮かべている。
「私を殺したくないのであれば、慰み者にしたい。それ以外に、何があるのでしょうか」
「亜人を、保護する。それが仕事だ」
「ああ、そういう、こと、でしたか。娼館に送りかえす、ということですね」
今度は納得したような、諦めたような顔だ。今にも泣き出しそうな儚さと、絶望を超えた達観、その両方が入り交じる。その一方で、話は、何処か噛み合わないままだ。奇妙な違和感に、アルバートのペースは明らかに乱さされていた。このような経験は、正直に言ってほとんどない。やりにくい。強引に引きずれば良い好戦的な亜人であれば、どれだけ楽なことか。
「アザレア、質問を変える」
「はい」
「お前、亜人保護管理局のことは、知っているな」
「亜人保護、えっと」
「管理局だ」
きょとんとした表情、とはこういうことを言うのだろう。目を見開き、視線は宙を漂う。返事を聞かずとも、答えは分かる。
「知らないのだな」
「申し訳、ありません」
亜人保護管理局が発足し、タンタネスに支部が出来てからも、一年以上はとうに過ぎている。良くも悪くも、この周辺地域では亜人保護管理局として派手に暴れ回りもしている。風評はいくらでも流れているのだ。ましてや、アザレアはサキュバス、亜人であり、即ち、当事者である。それが本当に知らないとなれば、余程世間から隔絶して生きていたということに他ならない。
「あの、御主人様、本当に私は何も知らず、その申し訳ありません」
アザレアの表情が、恐怖のそれに変わっていた。恐怖に怯えた顔さえ、被虐的な色香を放っているのは流石なのだろう。潤んだ瞳も、儚い美しさがある。だが、話を聞くには些か不便であることもまた事実か。普通に話すのには、慣れが必要だろう。
「知らないのならば、別にそれは構わん。説明をする。だから少し落ち着け」
何も知らぬと言うのなら、拘束魔法を駆使して無理矢理にでも黙らせ、一時保護施設に放り込んでしまう。そんな手段もあった。それをしないで、アルバートは今、対話を試みている。アザレアに対して、深入りをし過ぎていた。分かってはいるが、今更強硬手段を取ろうという気にもなれない。
「いいか、亜人保護管理局は、先の魔王軍との大戦、その後に作られた組織だ」
亜人保護管理局の成り立ちと、その使命。戦後、亜人を恐れる人間たちから。或いは、亜人を悪徳に利用しようと企む人間たちから、亜人を守る。全ての亜人を保護し、国が登記登録し、相応の施設に送るための機構、システム。現実は兎も角、少なくとも、建前上は、理想は、そうなっている。
アザレアは、黙ってアルバートの説明を聞いていた。その表情は、驚きと、悲しみ。両方の姿を交互に覗かせる不安定な感情、純粋なまでにそれをそのまま映し出す鏡と化している。本当に、何も知らなかったのだろう。そう信じたくなるほどの、サキュバスとは思えない純粋さだ。
「外の世界は、そんなことに、なっていたのですね。申し訳ありません、御主人様。お恥ずかしい限りです」
「御主人様、は止めろ。俺は、お前の主人になった覚えはない」
「重ね重ね申し訳ありません。娼館の中で生きてきた私には、どうすれば良いのか分からないのです」
「分かった。ならば、その怯えた目をまず止めろ。いや、待て」
娼館。先ほどから、このサキュバスは、そう言っている。アザレアの浮世離れした感性を考えれば、普通の娼館とは思えない。そもそも、サキュバスを扱う娼館など違法であり普通ではないのだが、その中でも、の話だ。何かがおかしく怪しいと、アルバートの感が告げている。
「娼館。アザレア、お前は先ほどから、そう、言っているな」
「はい。私はあの地獄、神殿に囚われる以前は、ずっと娼館にしか居ませんでしたので」
「そうか。ならば、だ。その娼館とやらについて、詳しく説明が欲しいのだが」
「それは、その。あの、分かり、ました。御主人様が、望むのでしたら」
言いにくい、話ではあるのだろう。良い思い出など、あるようにも思えない。酷な話なのだろう。だが、それはアルバートの知ったことではない。そう、これは、仕事なのだ。
深呼吸をし、息を整える。そして意を決したように、言葉を選びながら、アザレアは少しずつ口を開けていく。
「私は、生まれた時から、その娼館に居ました」
「生まれた時、だと」
「はい。物心が付いたときには、既に。そこで、此処で生まれたのだと、同じく娼婦のサキュバスである母に、そうなのだと、教えられましたから」
かなり前の話だ。少なくとも、かの大戦が終結するよりも前から、その娼館は存在していたことになる。少なくともアルバートは、そんな亜人を使う娼館を聞いたことはない。これは、もしかすれば、もしかする。そんな予感が、確信へと変わっていく。
「その娼館の名前は、何という」
「はい。私の居た娼館は、『月光魔の帳』、そう呼ばれておりました」
当りだ。ようやく、当りを引いた。暗い笑みを、思わず浮かべそうになる。それほどの情報であった。雲を掴むような話ばかりの中に、ようやく差し込んだ光である。思わず、罠の可能性を疑ってしまうほどだ。
「なるほど。お前の話は、どうやら、俺たちにとって有益な話になりそうだ」
「そう、なのですか」
「ああ。だから、お前の身柄は、俺が、預かる。それでも、構わないな」
「私としては、望むべき、と申しますか。御主人様を、御主人様と呼べるということですし」
この貴重極まる情報源を、容易く他に出すわけにはいかない。引き渡さないのならば、略式でもあり強引な手段ではあるが、アルバートが所有者として預かることが一番手っ取り早い手段になる。強引ではあるが、サキュバスに惚れ込んだ男と見られれば不自然さは幾分少ないだろう。
幸いなことに、アルバートの庇護下に置くことについては、アザレアの反応も悪くはない。ただ一方的な好意、好意とも呼べない主従。面倒な反応ではあるが、抵抗されるよりは楽だと思うしかない。必要経費だと思えば、安いものだ。
このサキュバス、アザレアに、洗いざらい情報を吐かせる。そのために、拷問じみた手段を取る必要がない。そう思えば、やはり幾分気が楽ではあるのだ。アルバート自身手段は問わないが、別に過激な手段が好きなわけでもない。
「よろしく、御願い致します」
「それは、いや、まあいい」
恭しく、アザレアが頭を下げる。彼女は純粋にやっている分、どうしても感情の処理がおかしくなるのだ。これに慣れるのは、やはり時間が掛かりそうではあった。
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