第39話 据え膳に叩き出される


 猫のおもちゃはカバンの中にあった。散歩に行く時に持って行ったことを、あやめも知っていたはずだ。

 大急ぎで風呂から出た蓮太郎は、無言でおもちゃをあやめに渡した。あやめは笑顔で受け取り、ありがとうと言って猫をじゃらしはじめた。蓮太郎の尊厳を脅かしたとは思えないのどかさだ。


「あやめさん、俺が入ってる時の風呂の扉は勝手に開けないで」

 言わなければわからないことに怒りを覚えながら、蓮太郎は言った。あやめが猫をじゃらしながらはい、と答える。

「ちょっとあやめさん、ちゃんと聞いてください!」

 あまりの態度に、蓮太郎は思わず声を大きくして目の前にあやめを正座させた。

「他の操縦者の人がどうであっても、俺の風呂の扉は開けちゃダメです!」

「他の人のは開けたことはありません」

 きょとんとしてあやめが言葉を返す。蓮太郎は無言だ。あやめは再度ありません、と繰り返した。

「じゃあ何で俺のはいいと思ったんだよ!」

 蓮太郎の堪忍袋の緒が切れた。あやめが猫を抱いてびっくりし、怯えたような顔をする。蓮太郎はごめんと謝ったものの、正直納得はいっていない。本当に理由があるなら聞きたい。

「とにかく、開けないでください。絶対」

 あやめははい、と神妙な顔をして答えたが、手が猫の肉球をつまんでふにふにしている。

「あやめさん、手」

「はい?」

「手が遊んでいます」

「これはその。……お風呂は絶対開けません」

「猫を下ろしなさい」

 あやめはようやく猫を下ろして約束した。蓮太郎は疲れた。


 しばらくあやめは蓮太郎の顔色をうかがっておとなしくしていたが、時計を見てもじもじしはじめた。

「あの……私もお風呂に入ってきていいですか」

 どうぞ、と蓮太郎は答えた。まだ怒りが冷めやらない。少し素っ気ない言い方になった。あやめはしゅんとした。

「ごめんなさい。あの、お詫びに、良かったら同じことをしても」

「しません!」

 蓮太郎が言い返すと、あやめは逃げるように風呂場に駆け込んだ。猫は我関せずと座布団に丸くなっている。蓮太郎は猫もにらんだ。


 カッカしながらテーブルを動かして布団を敷く。

 シャワーの音がする。女の人が同じ部屋でシャワーを浴びている。怒っていたのに、あやめがあんなことを言うものだから気になってしまう。ついつい布団を敷きながら何度も風呂場を振り返る。テーブルを隅にやって布団を敷くと、もう部屋はいっぱいだ。いつもはこうして、もう少ししたら寝ていたのだが。


「わあ、泊まる場所!連絡!」

 蓮太郎は飛び上がった。電話をするが誰も出ない。もう誰でもいいから手当たり次第に電話したら、眠そうな声の樋口が出た。

 蓮太郎は慌てて状況を説明した。そして泊まる場所を紹介してほしいと言ったのだが、終始面倒そうに聞いていた樋口は鼻で笑った。

「せっかくの据え膳じゃないですか。仲良くなってもらえるのはこちらとしては大歓迎ですよ。なかなか隅に置けませんね」

「そういうことじゃないって、何度も言ってるじゃないですか!あやめさんは何か、そういうのじゃないのにそういうことをするから困るんです、困ってるんです、困った人なんです、助けてください!」

「あなたが風邪でも引いたら考えるようにファウスト補佐官に言っておきますよ。裸で寝たりしないでくださいね」

 蓮太郎の懇願はあっさり無視された。

 もういい。今日も座布団で寝る。蓮太郎はいじけた。


 あやめがあがってきた。蓮太郎は無言で風呂掃除に向かった。使い終わったら掃除をすることにしている。

 風呂場に入ると、いい匂いがする気がした。同じ石けんやシャンプーを使っているはずなのに。

 いや、惑わされないぞ、と蓮太郎は気合いを入れた。

 風呂は掃除がすんでいた。

 蓮太郎はいい匂いのする風呂場に立ち尽くした。洗剤もいい匂いがすることになってはいるが、どこか違う。そう、これが違う匂いだ。これがあやめの匂いなのだろうか。

 気付いたら尚更、蓮太郎だけ気まずくなってきた。

 湯気はまだ少し残っている気がするが、換気扇が回っていて、ルーバー窓も細く開けてある。これでは蓮太郎はただ女性が入ったあとのいい匂いの残る風呂に即座に侵入しただけだ。


 何だかひどく恥ずかしい気持ちで部屋に戻ると、部屋の隅に追いやられたテーブルの前で、あやめが申し訳なさそうな顔をしていた。

「ごめんなさい、また入る予定でしたか?私の家、最後にお風呂を使った人が洗うことになっていたので、洗っちゃいました」

「いや、ありがとう」

 蓮太郎はもごもご礼を言った。あやめが微笑む。

「じゃ、もう少し髪が乾いたら、寝ましょうか」

 約束したことを盾に、押し通す気だ。


 蓮太郎はきちんと正座して座り直した。あやめがきょとんとする。

「……そのことなんですが」

 とうとう蓮太郎は切り出した。

「俺は台所で寝たいです」

「台所が好きなんですか?」

「そうです」

 そんな訳はないのだが、もうこうなったら蓮太郎は台所の床が好きで好きで仕方ない男になる。

「だからあやめさんとは寝られません。約束を破ってごめんなさい」

「じゃ私も台所に」

「独り占めしたいんです!台所は俺が!」

 こんなに独占欲を主張したことがかつてあっただろうか。蓮太郎は自分で言いながら呆れた。

 そのバカな主張を聞いたあやめは、しかし悲しそうな顔をしてうつむいた。

「少しだけでも、一緒に寝てもらえませんか?」

「俺は台所に誓ってひとりで寝ると決めているから、ダメなんです」

「……ひとりで寝るのが怖いんです」

 更にバカなことを言っていたら、あやめがぽつりと言った。

「目を瞑るのが怖いんです。頭に浮かんだことをそのまま夢に見てしまいそうで。話をしていたいんです。人に触れていたいんです。薬を飲むから、ほんの少しだけ、すぐに寝つきますから」

 すがるように見つめられて、蓮太郎は目のやり場に困った。目をそらすとそこには布団だ。


 蓮太郎は正座したまま自分の膝を見つめた。

「……ここは変な場所だからそれでもいいけど、あやめさん、本当はこういうのとか、キスとかは、好きな人とじゃなきゃしちゃダメだよ」

 蓮太郎は自分は何を言っているのだろうと思った。あやめには好意を持ってもらわなければいけないのだ。本来なら、あやめの方から機会をくれるなら歓迎しなくてはいけないのに。

 蓮太郎は止まれない。

「全部終わって外に出て、あやめさんにちゃんと好きな人ができたらきっと、俺なんかとキスしたこと後悔するよ」


 あやめはしばらく答えなかった。

 まずいことを言ってしまったか。蓮太郎は顔を上げられないまま、膝を見つめた。

 あやめは小さな声で尋ねた。

「……蓮は後悔するの」

「俺は」

 蓮太郎は言い淀んだ。

 思ったままに、後悔しないと答えてしまったら、それはあやめにとっていい答えではないのではないだろうか。

 その沈黙をあやめは誤解した。

「そう、わかった」

 言うなりあやめは座っていた座布団を蓮太郎に投げつけた。下を向いていた頭に直撃して、蓮太郎は驚いてあやめを見た。

「じゃああなたはこんなところから出て行って、好きな人と好きなだけ後悔しないキスをしたらいいわ」

 あやめはテーブルの下に片付けた座布団も引っ張り出して投げ、猫が寝ていたのをよけて、それまで投げた。

「ごめん、違う、そうじゃなくて」

 座布団を投げられながら蓮太郎は弁解しようとしたが、あやめは聞かなかった。


「私に外なんてない。好きな人なんかできない。後悔するくらいなら、どうしてキスしてもいいって言ったの。どうして私に優しくしたの」


 投げるものがなくなって、あやめは肩にかけていた湿ったタオルまで投げてきた。

 あやめは叫んだ。


「あなたなんか嫌いよ。あなたとは乗らない。操縦者は変えてもらうわ。出て行って!」

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