第36話 花を供えよう、お葬式をしよう


「じゃ、ここでお葬式をしよう」


 蓮太郎は立ち上がった。あやめが戸惑ったように立ち上がる。蓮太郎はあやめに指示した。

「何か、花を摘んできて」

「花?花なんて、ないです」

 蓮太郎は草むらにかがみ込んだ。

「売っている花や園芸の花もきれいだけど、その辺に咲いているのだってきれいだよ」

 摘んだ花を見せると、あやめは笑顔になった。

「たんぽぽ」

「他にも、いろいろ咲いてるから。少しずつもらおう」

 あやめはうなずき、きょろきょろしていたが、別の草むらの方を見に行った。


 しばらくしてあやめは数輪の花を集めてきた。蓮太郎のと合わせると、何とか形になりそうだ。

 蓮太郎は少しバランスを見て、白詰草でくるりとまとめた。とてもささやかな野の花の花束ができた。

「それを海に流そう。イリスの国まで届くように」

 あやめは花束をしばらくそっと抱えるようにしていたが、うなずいた。

 浜辺まで降り、桟橋に向かった。なるべく海の真ん中に花を投げ入れるために。蓮太郎は猫のカバンも持った。参列者はひとりでも、いや1匹でも多い方がいい。

 桟橋の端で蓮太郎とあやめは海を見た。まるで海の中に立っているようだ。澄んだ水は海の底をまるですぐ触れてしまいそうなくらい近くに見せる。


 あやめはずっと海を見ていた。白い髪と黒いワンピースの裾が静かな風に柔らかく揺れる。

 長い時間そうしていて、不意にあやめはぐっと花束を抱きしめ、それから、高く投げ上げた。

「イリス、さよなら」

 花は音も立てずに海に落ち、波に揺れた。


 しばらく花の行方を見守るのかと思ったら、あやめはくるりと踵を返した。早足でどんどん桟橋を戻って行くので、蓮太郎は慌てて後を追った。

 桟橋を戻り切って、あやめはまた突然足を止めた。そして急ぎ足で追いかけてきた蓮太郎に向き直り、体当たりするみたいにしがみついてきた。

「……」

 あやめの体が熱く、肩が震えている。抑え切れない泣き声が時折漏れる。

 蓮太郎はまた新しいタオルを出してあやめに渡した。あやめは泣きながら笑った。

「ありがとう」

 あやめは蓮太郎に体を寄せたまま、タオルを顔に当てた。猫のカバンを持っていない方の手で、蓮太郎もあやめの肩をそっと抱いた。

 あやめはそうして少しだけ泣いた。少しだけだった。

 あやめは蓮太郎の胸から顔を上げ、濡れた瞳でにっこり笑った。

「秀柾のお葬式は、全部終わってからするそうです。だから、私たちで今お葬式の練習をしちゃいましょう!」

 あやめが走って公園に戻り、また草むらにかがみ込む。

「あやめさん」

「蓮も早く摘んで!」

 これでは猫の散歩どころではない。蓮太郎はカバンにごめんね、と呼びかけた。網目の窓から見ると猫は気持ち良さそうに眠っている。

 どっちのあやめも、勝手なものだ。

「蓮、早く早く」

 蓮太郎は苦笑して、公園に急いだ。


 公園から花束もうひとつ分の花を失敬して、また桟橋から海に投げ入れる。さっきの花束はもう見えなくなっていた。

 小さな花束が波間に消えていく。さっきより花の行方が見えにくいと思ったら、日がずいぶん落ちてきた。

 あやめは桟橋からずっと海を見ている。風が少し強くなったのか、スカートがはためいて、白い髪が風に任せて流れる。蓮太郎は少し離れて、猫のカバンを持ってあやめを見ていた。

 あやめは長く長く祈った後、振り返った。その顔はすっきりしたような笑顔だった。

「ありがとう、蓮」

「そんな、俺は何も」

 薄暗くなった桟橋を危なくないように、あやめと蓮太郎は手をつないで戻った。


 浜辺に降りて、カバンの中の猫を見る。猫は起きていて、にゃあと鳴いた。それならだいぶ遅くなったが散歩にしようかとハーネスをつける。

 猫は砂浜の感触を嫌がり、すぐに蓮太郎に登った。あやめが声を上げて笑う。蓮太郎は何とか猫を下ろそうとしたが、猫は蓮太郎の頭の上から見る高い景色が気に入ったのか、そこに落ち着いた。

 頭に猫を乗せた蓮太郎をあやめが楽しそうに見る。

「あやめは蓮が好きなのね」

 蓮太郎は苦笑した。猫のあやめには好かれることができたようだ。猫の足についた砂のせいで、少し頭がざりざりする。


 あやめが楽しそうに笑いながら、ふと肩を抱いた。風が少し冷たくなってきた。

 だいぶ日が落ちてきたなと思い、蓮太郎は海を振り返った。

 そうだ。それなら、もう少しいたら、夕日が見られるのか。

 蓮太郎はあやめに、持ってきていた軽くて小さく収まる割に暖かい上着を羽織らせた。あやめは季節外れの防寒着にぽかんとした。蓮太郎はそのあやめに頼んだ。

「夕日を見たい。だからもう少し、ここにいよう」

 あやめは何も聞かず了承した。

 蓮太郎の頭に猫を乗せて、浜辺をそのまま散歩する。波は時折大きくなり、波打ち際を歩く2人を驚かせた。潮が満ちてきている。


「夕日の中でなら、カンナにキスしても良かったかもしれないんだ」


 大きな波が来て慌てて避けた時、蓮太郎は思わず言った。あやめに聞こえた方がいいのか、聞こえない方がいいのか自分でもわからないまま。

 あやめは蓮太郎を見た。

「キス?」

 聞こえていたらしい。蓮太郎は観念して続けた。

「俺の誘い方は、その、ムードがないから嫌なんだって。したいからしましょうってのじゃないんだって。でも、それでも、無理にでもしたら良かった。だってもうできなくなるなんて思わなかったから」

 大きな波が来て、蓮太郎は慌てて避けた。

「私で良かったら」

 あやめもスカートを揺らして波を避けながら、言う。

「キスしましょうか」


 蓮太郎は猫を乗せたままあやめを振り返った。

「私は秀柾に習いました。キスは、気持ちを安心させる方法だって。あなたの魔女の代わりにはなれないけれど、それでもあなたを安心させることはできると思います。人の体は、人に触れると安心するんです」

 蓮太郎は返事ができなかった。

 あやめがそう言ってくれるなら。

 安心したい。キスしてみたい。でも、カンナじゃない。

 けれど、それもわかった上でそう言ってくれるなら。

「もっと早く知っていたら、私はイリスとキスしてみたかった」

 あやめがぽつりと言った。

「キスもしてなかったの」

 思わず蓮太郎が言うと、あやめは少し笑った。

「初めて会った日にされそうになって、私、断ってしまったんです。そうしたら、それきりもう、そんな素振りもなくて」

 イリスは操縦者になってからあやめを好きになって、愛情表現が退化なのか進化なのか、めちゃくちゃになってしまっていた。経験がなくはなさそうだから何とかしたのだろうと思っていたのに、まさか何ともならなかったとは。


「秀柾に習った時、すごく後悔しました。私、キスを誤解していて、何かその……軽薄な行為だと思ってしまっていて。イリスは私を安心させるためにしてくれようとしたのに、私が断ったから」

 蓮太郎はイリスの出会い頭の行動はあやめの言う通りの軽薄な行為でしかないと思うのだが、あやめの解釈は違うようだ。そして佐々木もなかなかやるなあと思ってしまう。イリスも佐々木も蓮太郎には知られたくなかっただろう。これは墓場まで持っていかなければ。

「秀柾とキスするようになって、その時は秀柾のことを考えているんですけど、ひとりになった時とか、すごく、イリスを思い出すようになって。あの時断らなかったらって、今でも思うんです」

 その焦れるような後悔を、蓮太郎も知っている。


 太陽が沈んでいく。見つめていると止まって見えるのに、少し目を離すと思ったより動いている。言葉もなく、2人で沈む太陽を見守った。

 夕日が海に沈む前に雲に溶けていく。ぼんやり赤く染まった空は、思ったより淡い。こんなに晴れていても、海に沈む夕日は見られないものなのか。


 こんなしまらない夕日だから。お互いの思う人の代わりに。


「本当に嫌じゃないなら、お願いします」

「蓮なら。私でかまいませんか」

 蓮太郎は再度お願いしますと言って、頭に猫を乗せたまま、あやめの肩に手を置いた。

 あやめの目が蓮太郎を見上げている。目が大きくて吸い込まれそうだ。そう言えばいつ目を閉じたらいいんだろう。開けたままでも良かったっけ。蓮太郎は何だかひどく緊張してきた。

 あやめはカンナより小柄だ。思ったより唇の位置が低い。そんなことにも初めて気付き、蓮太郎が高さの調整に戸惑っていると、あやめがふっと背伸びして唇を合わせた。

 柔らかい。温かい。

 あやめは何度か角度を変え、蓮太郎をくまなく癒した。


 あやめが少しだけ余韻を残して体を引いたので、蓮太郎は思わず追いかけた。

「うわいててて」

 蓮太郎の頭に、詳しく言えば頭皮に、鋭い痛みが走った。そういえば頭に猫を乗せていた。あやめの高さに合わせようとして頭の角度が変わり、猫が落ちまいとして爪を立てたのだ。キスの続きどころではない。

 あやめがお腹を抱えて笑っている。蓮太郎は頭から下ろして抱えた猫を見た。猫は何食わぬ顔をして長く伸び、喉をぐるぐる言わせてご満悦だ。佐々木の采配だろうか。それともカンナが調子に乗るなと手を出したか。

 あやめが涙を拭いながら声をかける。

「大丈夫ですか」

「うん、何て言うか……まあ、うん」

 触ってみると、ちょっと血が出ていた。蓮太郎の何とも言えない顔を見て、あやめがまた笑い出す。


 女の人は不思議だ。カンナとあやめはちっとも似ていないのに、突然すごくそっくりな行動を取る。カンナも蓮太郎が失敗すると、心配するより大笑いする方が先だった。あやめも一応声をかけてはくれたものの、ちっとも心配していない。明るい声を上げて、息を切らせるほど笑っている。

 こんなに笑う人だなんて知らなかった。カンナみたいだ。

 不意に目の前がぼやけて、蓮太郎は慌てて袖で涙を拭った。

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