二十二歳 その3
しばらくぶらついてみたが、特に知り合いの姿もなく、屋台は少しずつ売り切れて撤収が始まっていた。
もしかすると、彼らは石神くんに直接会いにでも行ってるのかもしれない。だとしたらここらで見かけないのも納得だ。
可奈子は自分の導き出した仮説に頷き、近くにあったベンチに一旦座った。
ペンキがほとんど剥げて、年季が入っている。さすがに歴史のある大学だ。
パンフレットのイベント欄を見た。今日の文化祭のイベントは、このライブをもって全て終了らしい。
それから可奈子は携帯を出し、自分をここへ導いたメッセージをもう一度眺めた。
親指が矢印に触れると、キーボードが画面上に現れる。指一本で、今からでも返信メッセージが送れる。
可奈子の頭の中には様々な思考が入り乱れた。今私が何か言ったとして、気づいてもらえるだろうか。だがもしこのタイミングでメッセージに気づけば、彼らは可奈子を楽屋かどこかに入れるだろう。
部外者である私がここで割り込むことになったら、むしろ邪魔をしてしまうだろうか。
かつてのバンドのメンバーだけで語り合いたいことが、たくさんあるはずだ。
それなら自分が行ってできることは、ほとんどないだろう。かえって迷惑をかけてしまうかもしれない。
ここまで考えると可奈子はホーム画面に戻り、携帯をしまった。深呼吸をして、何もない正面をぼんやり見つめる。
決断するのは容易いことだった。彼らとの今生の別れでもあるまい、と覚悟を決めた。
すっと立ち上がる。
今日は帰ろう。いつか、直接このライブの話ができる時を楽しみに。
「いやみんな、何か大人っぽくなったよね」
「お前が一番変わってんだろっ」
今回ばかりは葉月も慎二に賛成だ。何だかこう、翔太の周りには高校生時代とは明らかに違う、オーラみたいなものが漂っていた。
たった数分話をしただけで、彼の成長ぶりが分かった。翔太はすでに、少なくとも葉月より遥かに広い世界を見てきたようだった。
だって、CDのリリースまで自力で漕ぎ着けたのだ。見えない所で彼らのバンドがどんな努力をしてきたのか、想像すらつかない。
「僕?僕は髪型しか変わんないよ」
「それはこいつよ」
葉月が慎二を指差し、慎二が「それは、そう!」と叫ぶと笑いが起こる。
「あ、翔ちゃん!」
翔太の後ろから、さっきのバンドのメンバーが声をかけた。
「どうした?」
「お取り込み中悪いんだけど、機材のトラックが」
彼は自分の腕時計を指した。翔太は目も口もまん丸にして頷いた。
「そうだ、片付けやんなきゃ」
「忙しないね」
「うっかりカツカツにスケジュール組んじゃってさ。沙耶香さんみたいな人がうちのバンドにもいたら、もうちょい楽できたな」
沙耶香はまたまた、とうっすら笑う。さらっと何でも言ってしまう翔太の才能は健在だ。
「ちょっとだけど久しぶりに会えて良かったよ」
慎二が手を振って翔太に笑いかける。
「また集まろうなっ、こいつが集めるから」
「いや人任せかよ」
葉月は突っ込みを入れながら、ふと疑問に思っていたことを思い出した。
「じゃそういうことで、皆さんお元気で」
「頑張ってね、音楽」
「紅白出ろよ?何年か待っててやるからさあ」
翔太と葉月たち三人はそれぞれ別れを告げ、別々の方向に歩き出す。ただし葉月だけはさりげなく、翔太の近くをキープした。
「ん、能勢ちゃん?」
葉月は首を傾げる翔太に対し、ギリギリ聞こえる程度の小声で言った。
「ちょっと聞きたいことがあって」
「何だ」
「翔太さ、オレら以外の誰か、ライブに招待した?」
翔太は一瞬視線を上にやり、「いいや」と首を横に振った。
「誰か知り合いでも見たの?」
「いや、何でもないや。こっちの話」
不思議そうに頷きながら、「おお、そうか」とあまり納得しない様子だ。
「今日は『Eliot』のみんなしか呼んでないよ」
そうだよな、と葉月は半ば安心して肩の力が抜ける。
じゃあやっぱり、さっきのあれは見間違いだったのだ。大西可奈子にそっくりな人が、関西に一人や二人いたって不思議じゃない。
まさか翔太がここでライブをする情報が、東京で暮らしている彼女に自然と伝わることもないだろう。
「あ、でもそういや見覚えのある人を見たな」
「ほんとか?」
自分でも驚くほどの速さで反応してしまった。案の定翔太は、逆に驚いた顔をしている。
「う、うん、ほら、『Eliot』のファン第一号のさ——」
「あいつか?」
名前は出ていないにもかかわらず、翔太は葉月の食い気味な言葉に、ワンテンポ遅れて頷いた。
それも困惑した様子はなく、口の端だけのあの笑顔で、だ。
「アンコールの時見つけたよ」
「そ、そうだったんだ」
心臓が早鐘を打っているが、一旦呼吸を整える。
落ち着け、能勢葉月。だから何だというのだ。どこから情報を得たかは置いといて、彼女がここにいるからと言って何が起こるわけでもない。
たまたま知り合いが、同じところに来ていただけだ。
「もう会った?」
「いや、一言も喋ってないけど」
「そっか、能勢ちゃんたちが誘ったのかなと思ってたけど——」
「いやあいつが一人で来たのよ」
ふうん、と翔太は言葉を止める。
「あ、ありがとう。用件はそれだけだから」
「おお。それじゃ、また」
今度こそ葉月は手を振って、翔太と別れた。
あれだけの観客の中からいることも知らなかった知り合いを見つけ出すとは、驚異的な視力だ。
息をゆっくり吐き出しながら、葉月は沙耶香と慎二に追いつく。
彼らは何か話していたが、葉月が来ると一気にそちらへ注目を向けた。
「——あっ能勢ちゃん何喋ってたんだ?」
「まあそんな大したことじゃないよ」
「ほぉん」
そこから先、なぜか慎二は言葉を発しなくなってしまった。二人の方は何を話していたんだろう。
無言のまま、大学の正門が見えてくるまで歩き続けた。周りの人々と同じ、帰る流れに乗っていた。
歩くスピードは心なしかゆっくりめだった。何も話さないので、他の二人が何を考えているのかよく分からなかった。
慎二なんか、歩きながらスマホをいじっていやがる。これじゃ、話題が見つからなくて気まずい思いをしてる人みたいだ。
普段はそうでもないのに、このタイミングでの沈黙にはなぜかソワソワしてしまう。
咳払いをしながら、葉月は手頃な話題を探した。
「あ、そういえばさ、この辺にすごい美味そうな団子専門店が——」
「そういえば」
慎二が、少し大きめの声で被せてきた。
彼にしては珍しい。彼は人が話している間、いつも聞いているのかどうかギリギリ分からないボケッとした顔をしているはずだ。
「能勢ちゃん、あの子はどうなったの」
「あの子?」
「ほら、ライブが終わったすぐ後にさ、可愛い子見つけたって言ってたじゃん」
「言ってねえな」
「でも顔にそう書いてあったぞ。あれからもう見てないの?」
なぜ今更そんな話を持ち出すんだろう。
「見てねえよ。ていうか忘れてたかと思ったわその話」
「忘れるわけないじゃんか」
慎二は、気づいた時には距離を詰めている。葉月が避ける間もなく、彼は肩に手を回してきた。
動きが制限され、葉月は彼を何とか突き放そうとする。
しかし耳元で聞こえた平坦な声が、葉月の歩みを止めた。
「見たんだろ、可奈子ちゃん」
思わず首をひねり、慎二の顔を真正面から見た。
——今なんて言った?
ついに突き飛ばされた彼は面白がるように、目を線にして笑う。
「は、何で」
「だから、顔に書いてあるんだよ。何でもお見通し〜」
助けを求めるように沙耶香を見るが、彼女も肩をすくめるだけだ。
——どうなってる?
「その反応は、図星だね」
とまで言ってくる。慎二の不気味さはさておき、沙耶香がここまでノーリアクションなのもどこか変だ。
「もう帰っちゃったかな」
「いいや、俺はまだいる方に賭けるな」
などといきなり沙耶香と慎二の会話が始まり、葉月は何も言葉を挟めなくなった。
「だけど屋台もほぼ残ってないし、可奈子が来るとしたらやっぱさっきのバンドが目的でしょ」
「それはそうだけど、かと言ってそれだけとも限らないねえ」
慎二はさも楽しそうに、ねっとりした視線を葉月に向けた。
何だ気持ち悪い。葉月は眉間にしわを寄せ、彼の視線を全力で路上に流した。
「な、お前ら急に何だよ」
「ごめんね、黙ってて」
「実は可奈子ちゃんがここにいるのは、偶然じゃないんだ」
慎二の言葉で、霧は一気に晴れた。
「呼んだのよ、俺が」
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