十九歳 その2

「これ飲む?」

「何ですかそれ?」

「これね、ハイボール」


 思った通りだった。ジンジャーエールかそれだろうと思ったし、彼女に限って今ソフトドリンクは飲まないだろうとも思っていた。


「それはいいです」

「え、何でよ。美味しいのに」

「そうですか?個人的には美味しい感じしないんですけど」

「まあ、まずいと思うもん無理やり飲まさないけどさあ」

 と、しつこくない所は、ナナ先輩の後輩人気の高さに直結している。


 優しさもあるからサバサバ系とは言い難いし、でも明らかに他の先輩よりさっぱりあっさりした人、という印象は後輩の代全体で一致していた。


「——そうそう、そんなことより」

 そこで今流れている歌が終わった。どうやら向かいの人が歌っていたようだが、全然聞いていなかった。

 知らない曲だ。葉月は周りに合わせるように、形だけの拍手をする。


「そんなことよりさ!」

 拍手の雑音を切り裂く大声で、ナナ先輩は話を続けた。

「この前のライブ、すごい良かったよ!」

 彼女が言うのは、今年最後の部内ライブとして一昨日やった「忘年ライブ」のことだろう。サークル内で結成された七つのバンドが、それぞれ冬っぽい曲を披露しあって、「良いお年を!」とやる、これも恒例行事らしい。


「ありがとうございます」

「もちろん総合的に良かったんだけどね、私はその中でも、能勢ちゃんのキーボードが良かったと思うのですよ」

「え、あれがですか?」


「忘年ライブ」のためにした練習なんて、かなりいい加減だった。まず楽譜を四曲分ダウンロードしたのが、本番の二週間前だった。


「あんなのもう事故ですよ」

「練習期間短かったんでしょ」

「怠ったんすよ」

「三週間ぐらい?」

「二週間です」

「上等じゃん。度胸あるよね」

「えっと、オレは度胸を褒められてるんですか?」

「ごめんって。その短期間であそこまでちゃんと弾ける能勢ちゃんが、すごいって話だよ」

 そこでぐいっと、ハイボールを結構な量流し込む。この人は酔い始めてから勢いが増すタイプだ。


「だからさ、提案というかなんというか——」

「何ですか、提案って」

「それはつまりね、能勢ちゃん、今度新しくバンド組むんだけど、そこでキーボードやらない?」

 ウーロンハイでむせそうだった。

「えっ、い、良いんですか?」

 それは願ってもないことだ。彼女がボーカルなら無敵だろう。


「良いも何も、こっちからのお願いよ。まだギターとかは決まってないんだけどさ、どう?」

 自信に満ちた笑みで、わずかに首を傾ける。

 完璧な笑顔だ。

 危うく意識が飛んでいく所だった。これが噂の「必殺技」というやつなのか。


「やりますよ、ぜひ弾かせてください!」

「ようし!決まりだね、決まり祝いに一杯やろうじゃないですか」

 と言ってナナ先輩は、どこからともなく自分のとは別のジョッキを差し出した。


「え、これは」

「カシオレだよ。これなら行けるっしょ」

 行ける、の意味を、葉月は瞬時に察知した。

「これ誰のですか?」

「私が遥か昔に頼んだやつだね。心配ないよ口つけてないし」

 注文のペースがおかしいのだ。しかしお酒好きとはそういうものなんだろうか。


「まあ、そういうことなら、行けます」

「それじゃあ〜」

 先輩はハイボールをちょっと高く掲げる。葉月も、カシスオレンジをその高さに合わせた。

「新バンド誕生に、乾杯!」

「乾杯!」

 コン、と重い音がして、それから葉月は迷いなく、中身のカシオレを一気に流し込んだ。


 こんなものはジュースだ。一年生だから手加減してくれたつもりだろうが、こっちからすればやや物足りないくらいだ。

 そんなことを考えていると、ジョッキの中身はいつの間にか大きなキューブの氷だけになった。


「くぁーー!」

 ナナ先輩のハイボールも空になった。何だか清々しい気持ちになった。

「良いね良いね、能勢ちゃんその意気だよ」

 乗せられるのも、気分は悪くなかった。


 こんなにあっさりと、いわばスターポジションのナナ先輩とバンドが組めるとは夢にも思わなかった。

 先輩も満足そうな笑顔だ。

 血の巡りが速くなってきた。よく分からないが、楽しくなってくる。これはアルコールが回ってきたときの初期症状だった。


 そこで、また誰かの歌が終わった。パラパラと拍手が済んだ後、次の曲のイントロがかかった。


 あれっ。


 これは、

 これは絶対聞いたことがある。

 始まった瞬間、今までの曲とは決定的に違う刺激が、体中を通り抜けた。


 それは懐かしさだ。栞の紐でページをめくるように、いつかの記憶が目の前に現れる。

「あれ、これって」

「ムーンナイトトレイン」

 ナナ先輩が、そっと呟いた。

 そう、『Take the Moon Night Train』。一斉を風靡したバンド、サザンクロスの代表曲だった。

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