いってきます

 健太郎は一人、海辺に立っていた。ミッチ指導の下、幾度か練習していた釣りをしようとしていた。本番を終え練習する必要がなくなり、暇になった。ならば、自分の食い扶持ぐらい自分で用意して見せよう、と意気込んでいたのだ。まあ、暇過ぎてよくわからないことに熱中するのはままあることではあるが――

「あー」

 釣れない。全然、まったく、これっぽっちも釣れない。

 ミッチが穴場だと教えてくれたのだが、やり方が悪いのかうんともすんとも言わないまま一時間以上経過していた。

 しかし、これがまた悪くないのだ。この待っている何もない時間が。癖になる。

「釣れてますかー」

「ご覧の通りだよー」

 見ての通りボウズです。と言わんばかりに空っぽのクーラーボックス。ミッチに持っていけと言われたから持ってきたが、まあ、全然必要なさそうである。

「貸してみ」

「はーい」

 制服姿の海老原初音に釣竿を渡す。

 引き上げ、餌を見て、げんなりとした表情になっていた。たぶん、何か間違えていたのだろう。さっさと餌を付け替えてやり直す前に、何が間違っていたのかご指導いただきたいんだけどなぁと思うも口には出さない。

 何しろ今の健太郎、のんびりモードに入ったままなのだ。

「お母さん、行っちゃった?」

「うん。むしろ未だに信じられないよ、母さんがこの島にやってくるなんて」

「健太郎目当てかな?」

「マイマイ目当てじゃない?」

「ふーん、嫉妬しちゃうかも」

「初音もすぐに追いつくよ。今はまだ経験の差、僕はいけると思うけどね。あんまり無責任なことは言えないけどさ」

「じゃあ、あんたが責任取ってよ」

「何のだよ」

「……んー、お嫁さん?」

「僕は漁師無理だと思うよ」

「あっはっは、確かに、絶対無理ね。じゃあさ、私が駄目になったら優しい言葉の一つでもかけてよ。こう、甘ーい感じのやつ」

「わかった。背筋が伸びるような言葉を進呈するとするよ」

「うーわ、最悪」

「そんなもんでしょ、僕らって」

 釣竿はピクリとも動かない。二人は並んでぼーっと海を眺めたまま――

「私さ、高校卒業したらそっちに行く。それまではミッチさんに鍛えてもらって、必ず挑戦する。今度は、逃げない。思いっ切りぶつかる」

「そっか」

「一応、名刺も貰ったしね。さっき挨拶行ってきた。何とか紙一枚、爪痕は残せたわけよ。ギリギリね」

「妥当な評価だと思うよ。君はとても頑張った。信じられないぐらい上達した」

「べた褒めじゃん」

「たまにはね」

「と言うわけで、また私と演奏してくれる? いつか、そっちに行ったら」

「もちろん。いつだってやるよ」

「言ったな。留学とかしてても帰国してくれるってことでいいんだよね?」

「それは、ちょっと、場合によるとしか」

「男に二言はない、でしょ」

「参ったなぁ。まあ、いいよ。いつか、必ず、またやろう」

「おうよ」

 二人の約束。

 彼はきっとマイマイも含めて、だと思っているのだろうけど、今は何も言わない。いつか並び立つぐらい上手くなって、全てはそこからだと彼女は思っているから。

 でも、もう一つぐらい約束を――

「あとさ、私――」

「初音、竿、引いてない? ほ、本当に釣れた⁉」

「つ、釣れるに決まってんでしょ! 漁師の娘を何だと思ってんのよ!」

「漁師の娘、すげえ」

 そして、なんやかんやして一応食べられる、と漁師の娘の太鼓判が押された大物が釣れた。クーラーボックスに突っ込み、ほくほく顔の健太郎。これでばあちゃんに自慢できる、なんて考えていた。

 あまり美味しくない極めて淡白かつ水っぽい身質なのだが――

「……はぁ、まあ、いっか」

「じゃあ、またね」

「はいはい」

 鼻歌交じりで自転車をこいでいく健太郎を見送り、初音は苦笑しながら大きく伸びをする。やってやる、初志貫徹、今は上手くなることだけを考えよう。

 どうせあの朴念仁に彼女なんて簡単にできるわけがない。それに目下一番の敵は突き付けられた選択に迷い、答えを出せないでいる。

 ならば、自分は真っ直ぐ進むだけ。

 自分が劣っている自覚はある。今、過去、何一つ勝っている要素はない。でも、明日はわからない。未来ならば勝負できる。そのために、自分は積み上げるだけ。

 迷わずに進み続ける。そう決めたのだ。


     ○


 船の出航日が迫る中、健太郎は毎日のように釣りをしていた。まあ、もう、本当にやることが無くて手持無沙汰なのだ。ミッチが休みの日など、仲間の人たちと一緒に釣り船を出してもらったほどである。

 さすが沖釣り、とんでもない大物がバンバン釣れた。

 釣れたものはミッチの店でお造りにしてみんなで食べた。美味しかった。

 あと、小笠原高校の人や小中学校の子どもたちにも謎の珍獣、もといピアノが上手い人として周知してもらったおかげで、彼らとも遊んでみたり、軽いレッスンをしたりもした。全員、マイマイや初音より素直で教えやすかったのは言うまでもない。

 ファンです、と目を輝かせて色紙を持ってきた子もいた。サインなどしたことがない健太郎はそれっぽく書いた後、申し訳なかったのでその子にもピアノを教えてみた。もし、この先も続けてくれたら嬉しいな、なんて思ったり思わなかったり。

 などと気の抜けた日々を過ごしていたが、ふと気づいた。

 あれだけ毎日会っていたマイマイと一度も会っていないな、と。とは言え家に行くのも気が引ける。何しろ年頃の女の子ではある。母が持ってきた話など、色々考えることもあるのだろう。そんな状況で自分が顔を出しても困惑させるだけ。

 そう思って健太郎は――宮之浜に来ていた。

 何かが釣れそうな気配はない。

 そもそも釣りに適してはなさそうなので、釣竿を垂らす気にもならなかった。ぼーっと木造りの簡素な休憩スペースでお茶をしばいていた。

 まあ、別に誰かに会いに来たわけではない。散歩でたまたまここに来ただけ。

 そんなことを考えながら、うつらうつらと、睡魔に飲まれていった。

「ふが」

 気づけば日没、真っ赤な空が目に染みる時間帯になっていた。特に何をするでもなく一日が経過したわけで、これでまた出航日が近づいてしまった。

 などと考えていると、目の前で「ぐう」と言う可愛らしいいびきが聞こえた。

「……な、何してるんだよ」

 健太郎が眠っている間に、マイマイが向かい側で同じように眠っていたのだ。いったい何が起きたのか、と混乱する健太郎であったが、彼女の腑抜けた寝顔を見て落ち着いてしまう。寝顔は本当に、昔のままだなぁと健太郎は苦笑した。

 起こすのも可哀そうなので、起きるのを待っていると――

「むにゃ」

「……もう、完全無欠に夜だなぁ」

 気づけば満天の星空が頭上に広がっていた。相変わらず街の灯から離れると夜空は絶景となる。地上からの光は時に雲の如く星の光を遮るのだ。

 星の光は足元を照らしてくれないけれど、空の輝きを見ると人間が手に入れた文明によって失われた景色もあるんだな、としみじみ思う。

「ん、あれ、おは、よう?」

「真逆だね。こんばんは、だよ、マイマイ」

「……しまった⁉」

 飛び起きて、辺りをきょろきょろ見渡し、がくりと肩を落とすマイマイ。

「起こしたら、その、悪いと思って、待っていたら、寝ちゃいました」

「僕も同じだ」

「あの、日中暑いと思ったので、家からはちみつレモンを持ってきたのですが」

「頂戴します」

「もう、日中ではないですが、お納めください」

 日中食べればもっと美味しいだろうが、夜でも美味しいものは美味しい。口の中一杯に広がる芳醇な甘みと同時にキュッとする酸っぱさが堪らない。

「美味いや」

「お口に合ったようで」

「前はほら、変な感じになっちゃったから後悔していたんだよね。本当に美味しいね、これ。はちみつが濃厚なのにあっさりしていると言うか、不思議な味わいだ」

「島のはちみつ使ってるんだ。ルートは企業秘密ね」

「さすが島のガイドさん一家、コネクションは太いようで」

「長いですから、七海家も」

 島の味を堪能し、二人は何を言うでもなく空を見上げていた。

 沈黙の時間。でも、嫌な感じはしない。落ち着いているし、昔から一緒にいるみたいなしっくり来た感じもしている。

 こうしていると幼馴染だと言うことを実感できる。

「母さんの話、迷ってる?」

 口火を切ったのは、健太郎であった。

「……うん。その、全然ね、考えたことなかったんだ。島を出ること」

「マイマイ、島が大好きだもんなぁ」

「うん」

 島が大好きで、やりたいことも島にあって、出て行く理由がない。だから彼女は考えたことがなかった。

 それに、自分が待っていないと一生、会えないような気がしたから。

 だから人よりも島に固執した。

「僕さ、将来、音楽を教える人になろうと思うんだ」

「え?」

「音楽の先生か、教室の先生か、まだ全然ビジョンはないんだけど、最後には誰かに教える人になりたい。君たちに教えて、未熟だったけどライブとか成功する度に、自分の成功よりうれしかったんだ。君たちの成長が。だから、漠然とだけど、目指してみようと思って」

「そっかぁ、健太郎、すごいねえ」

「僕からしたらガイドさんって固めていたマイマイの方が凄いよ。これでも衝撃だったんだからさ。同い年なのに、もう将来のことを決めている、なんて」

「あ、あたしの場合は親の真似事だし」

「僕も最初はそうだったよ。まあ、真似できなかったんだけどね」

 健太郎は過去の苦悩を笑い飛ばす。未だに傷を疼くけれど、でも、もう立ち止まってはいられないから。新しい目標が出来たのだ。今度は、自分が出した答え。

 だから、今度はもう、誰かのせいにはしない。

「け、健太郎はさ、あたしのこと、どう思う?」

 もじもじと頬を赤く染めながらマイマイが問いかける。

「難しいよね」

「え⁉ そ、そんなに難しい質問かな?」

「母さんの話、と言うか進路の話だろ。そりゃあ難しいよ、人ひとりの人生がかかっているんだから。あれ、なんでそんな顔してるの? 僕なんか変なこと言った?」

「……まあ、あたしが、唐突だっただけだし」

「正解とかないからね。母さんが絡んでいるからって、絶対に成功するわけじゃない。見たまんまドライな人だから、見切りをつけるのも早いと思う」

 健太郎は腕を組みながら真剣に考えていた。

「でも、才能があるのは僕も思う。あの場の全員が同じこと思っていたと思うよ。前にも言ったでしょ、同じ譜面でも弾く人によって全然違うって……君はきっと、そちら側だ。母さんたちと同じ、ね」

 マイマイは下を向く。ずっと、あれから考えていた。どうすべきなのか、と。島でガイドになってもう一度待つ。前は平気だったのに、今はもう、耐えられそうにない。だけど怖いのだ。外に出るのが、そんな選択肢考えたこともなかったから。

「まあ、大事なのはマイマイがどうしたいかだよ」

「それがね、わからないんだ。ずっと、ずっと、胸の中がグルグルして、気持ち悪くて、辛くて、苦しくて、どうしていいのか、わかんないよ」

 しばらく会っていなかった間に、彼女は悩んでいたのだろう。一人悶々と、答えが出ないままぐるぐるぐるぐる、悪いことばかり考えてしまう。

 そんな経験、かつて自分もしていた気がする。

「僕はマイマイの笑顔が好きだよ。君にはずっと笑って欲しい。笑えなくなる選択肢は取って欲しくない。まあ、それも僕のエゴなわけで、結局は君が決めることだ」

「うん」

「だけど、まあ僕なんてあまり頼りにならないけどさ、どんな選択肢を選ぶにしても頼ってくれていいから。困った時は相談して欲しいし、力になれることがあったら出来る範囲のことはする。島の外だろうが中だろうが関係ない。今度は僕が、君を支えるよ。ここで、君にそうしてもらったように」

 青柳健太郎はこの島に帰ってきて、彼女の背中に救われた。腐り切っていた自分を十年間の積み重ねが吹き飛ばしてくれたのだ。

 その恩を、彼は生涯忘れない。

 そんな意図の話なのだが、それはまあ話し手の胸の内。

 受け手も同じとは限らない。

「支え⁉ そ、それはまだ、ちょっと、早いんじゃないか、なぁ」

「そうかな?」

「まあ、うん、段階というのがね、あると思うんだ」

「よくわからないけど、まあ高校生じゃあ頼りがいもないか。でも、相談には乗るよ。今時スマホがあれば……あれ、そう言えば、初音のラインは貰っていたけど、マイマイのは」

「うん、あたし、スマホ持ってないから」

「ぶっ⁉」

「だって、島じゃあんまり要らないよ」

「まあ、確かに、使わなかった。いやでも、便利だよ、あったら。いつでも連絡できるし」

「連絡していいの?」

「当たり前だろ。危ない、このままだとまた音信不通になるところだった。とりあえず電話番号は渡しておくよ。ふ、ふふ、それにしても、このタイミングする話じゃないでしょ、これ」

「だねえ。スマホ、お父さんに相談しよっと」

 二人はまた、はちみつレモンを食べながら星空を眺めて――

「楽しかったよ、マイマイ」

「あたしも、すっごく楽しかった」

「今度は忘れないから」

「うん」

「島の外でも中でも、また会いに行くよ」

「……うん、あたしもね、今、決めた!」

「進路のこと?」

「内緒だよー」

「ちょ、ここまで話しといてそれは無いだろ」

「じゃあ、えびちゃんとの内緒話のこと、聞かせてよ」

「いや、あれは、話すようなことでもないと言うか――」

 七海母がしびれを切らして呼びに来るまで、二人はずっと他愛もない話をしていた。その姿は十年の歳月を感じさせないものであった。

 と、七海母は涙を浮かべながら後に語る。


     ○


 出航日、節子のジープに揺られて港に着いた。大勢人はいるものの、会いたい人たちの姿はない。あれ、見送りなしかな、などと少しだけしょんぼりしていた。

「ばあちゃん、いいよ、僕が持つから」

「あらら、いつの間にかすっかり頼もしくなりましたね」

「そうかな?」

「ええ、肌も焼けて、少し島の匂いがするようになりました」

「そっか、それは嬉しいなぁ」

 ずっと自分を支えてくれた祖母のおかげで、今の自分はある。何も言わずに腐っていた自分を受け入れてくれた。この島と一緒に包み込んでくれた。

「そう言えばさ、ばあちゃんはなんでこの島に住もうと思ったの?」

「ばあちゃんはハーフなので、欧米系の人が最初からいるこの島は居心地がよかったのです」

「え、ばあちゃんってハーフなの⁉ 確かにちょっと彫が深いとは思っていたけど……あれ、そうしたら母さんがクォーターで、僕は、なんだ?」

「ふふふ、今の時代は、まあ、あまり気にするようなことでもないのでしょうが、私にとってはこの島は楽園だったんですよ。同じものとして受け入れてもらえる、ただ、それだけで」

「そっか。ねえ、ばあちゃん」

「なんですか?」

「また、帰ってきてもいい?」

「もちろんです。いつでも待っていますからね」

「うん。じゃあ、行ってくるよ」

「はい、いってらっしゃい」

 青柳節子は満面の笑みで孫を送り出す。健太郎のおかげで娘とまた会うことが出来た。自分におばあちゃんと言う新たな居場所をくれた。節子にとってここは間違いなく楽園であった。自分を同じものとして受け入れてくれた場所であり、命より大切な二人の家族に巡り合わせてくれた場所だから。節子は待ち続ける。

 彼らが止まり木を求めて帰ってくるその日まで。


     ○


 船に乗り込んだ健太郎は憤慨していた。ラインで見送りは、という文言をオブラートに包んだ文章をいくつか投げている。それなのに、まさかの既読スルー。

 こんなにも切り替えが早くていいのか、と頬を膨らませる。

 あんなにも一緒に頑張って来たのに、出て行くとなると見送りもなく既読スルーなんて、ショックで胸が張り裂けそうである。今度ライブの誘いとかあったら、絶対一回は既読スルーしてやろう、と心に決める健太郎。そんな固く哀しい決意を胸に秘め、健太郎はベッドに寝転ぶ。

 行きは雑魚寝であったのに、帰りは個室と中々ちぐはぐな往復となった。ベッドもあるしシャワーも付いている。非常に快適である。

 胸にしこりさえなければ素晴らしい船旅になっただろう。一目会いに来て、さようなら、と言ってくれるだけでよかったのに。

 仲良くしていた人全員が、示し合わせたようにいなかったのだ。マイマイの同級生たちともフェスの後一緒に少し遊んだりもした。自分を覚えていた子もいて、逆に申し訳なくなったり、その子もまた初音と同じように既読スルーなのだがが。

「マイマイぐらいはさぁ。普通来るだろ。初音も初音だよ、こいつに関しては既読スルーだし確信犯だ。あれ、これって誤用なんだっけ? どうでもいいけどさ」

 友達だと思っていたのは、自分だけなのかな、なんて、ちょっぴり涙ぐむ健太郎。

 出航の汽笛が鳴る。とうとう、船が出発するのだ。

 少しずつ、動き出す。

 表でばあちゃんに手でも振ろうか、と立ち上がろうとしたその時、スマホに振動が走った。即座にポケットからスマホを引き抜き、如何なる謝罪文が刻まれているのかラインを開くと、そこには一言「外を見ろ引きこもり」と書いてあった。

 ここにきて罵倒かよ、と思いながら健太郎は甲板に出る。

 まだ、ここは小笠原、燦燦と降り注ぐ太陽がまぶしい。陽光を照り返し大海原がキラキラと輝く。そんな海を、船が走っていた。

 一隻だけではない、多くの、船である。

「えっ」

 またもスマホが震える。

 視線を移すと「最後まで小笠原の常識知らないなんて勉強不足にもほどがあるでしょ。馬鹿じゃないの」という長文での罵倒が初音から送られていた。

 つまりは、この景色もまた小笠原の名物なのだろう。

 たくさんの船が大きな定期船と共に並走している。白い船だけじゃない。面白い色をした船も中には混じっているし、サイズもまちまち。乗っている人も――

「あっ」

 見たことのある船、海老原父の船もまた一緒に走っていた。甲板で仁王立つのは海老原初音、遠目でもわかるほどすらりと伸びた長身のおかげですぐに見つかる。よく見ると、海老原父の船の周りには見知った顔が沢山いた。ミッチや釣りをしに行った仲間たち。フェスの後仲良くなった小笠原高校の友人、自分のファンになったと言ってくれた少女もいた。

 そして、七海父もまた海のツアー用の船を走らせていた。

 そこにはマイマイもいる。

 もう、この景色だけで涙が浮かぶ。

 そして、絶対健太郎は知らないと決め込んで、あえて連絡せずにサプライズにした初音には「今度は僕が東京の常識を教えてあげるよ」と憎まれ口で返しておいた。

 すると即座に「ここは東京でーす」と切れ味鋭い返信と共に、本人もまた船の上であっかんべえとこちらを煽る行為をしてきた。

 本当に、最後まで愉快な仲間である。

 船の上、手を振る彼らの声は聞こえない。

 こちらの声もきっと聞こえていないだろう。

 ありがとう、さようなら、また来ます。色んな言葉を叫んだ。聞こえないと分かっていても、気づけば全力で叫んでいた。

 そんなことをしている内に、他の船の人々がどんどん海へ飛び込んでいく。最初は何事か、と思ったが次第に、別れの挨拶なのだと、彼らなりの見送りなのだと、理解できてくる。

 ぴょんぴょん、くるくる、海へ思いっ切り、回転しながら、飛び降りる。

 小笠原高校のみんなも派手に飛び込んでいた。あの半分ぐらいはたぶん、見送りよりも飛び込みが好きなのだろうと思う。

「ありがとな、クソガキ」

 ミッチもまた年甲斐もなく海に飛び込んだ。さすが年季の入った筋金入りの飛び込みである。その辺の若造とは品格が違う。

 船の足の差か、少しずつ集団と距離が離れていく。

 海老原初音はスマホを軽く弄って船に放り、こちらを一瞥し鼻で哂いながら、これまた華麗に海へと飛び込んで見せた。憎まれ口さえなければ美人なのにな、なんて思っていると、スマホがまた振動する。

 中を見てみると――「好き」とだけ書かれていた。

「ぶっ⁉」

 海面に顔を出し、悪戯っぽく笑う彼女の表情が見える距離ではない。それが嘘か真か、確認する術はきっと、再会した時にしかないのだろう。

 そして最後に、飛び込まなかったマイマイはトランペットを取り出して、思いっ切り吹いた。突き抜けるような音が耳朶を打つ。さすがはマイマイの音、この距離でも簡単に音を届けてくる。この音が自分を奮い立たせてくれた。

 もう一度立ち上がる力をくれた。

「ありがとう!」

 届かないと知りながらも、健太郎は全力で叫ぶ。

 だけど、何となく、そうじゃないと彼女が首を振った気がした。もう一度、寸分違わず同じ音を発し、何故か健太郎の耳にはそれが「いってらっしゃい」に聞こえた。

 その音を噛み締め、

「いってきます!」

 今出せる全力で、青柳健太郎は七海真生の音に応えた。双方ともに聞こえるはずのない距離、でも、何故だろうか。

 何故か健太郎にはマイマイが微笑んだように見えたのだ。

 気づけば、もう彼らは見えない。島の姿もまた、徐々に小さくなっていく。

 健太郎は小さくなる島へ向かって手を伸ばした。

 必ずまた戻って来よう。胸を張って、戻って来られるように強くなろう。まだ見ていない景色もいっぱいある。母島だって行けていない。もう少し大人になって、誰かを支えてもへっちゃらな人間になって、いつか帰る。それだけは決めていた。

「いってきます」

 重ねて、誓う。ここからもう一度、青柳健太郎は旅に出る。もう一度競争の世界に飛び込み、自分の望みを叶えるための力を手に入れる。

 そして帰って来よう。

『ただいま』

 そう言える日を目指して――

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最果てにただいま 富士田けやき @Fujita_Keyaki

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