第17話 出会い(前編)

 中央本線の列車は初狩はつかり駅を発車し、峠への急勾配を上ってゆく。

『次は笹子ささご、笹子です』

 車掌が肉声で告げる。笹子峠は中央本線の下り列車にとって、甲府盆地に降りる前に現れる難所だ。

 直見は、暖房が効いている車内であくびをした。

(いかんいかん、次で降りるんだった)


 朝7時の笹子駅。下り列車から降り立ったのは直見一人だけだった。

 電車が遠ざかってゆく。

(えーと……)

 駅舎を出てすぐのところにロータリーがあり、そこを出ると片側1車線の道路が通っている。

 そこを少し進んでいくと、製造工場がある。

(あ、あった。ここだ)

 笹子には、餅を販売する店がある。中央本線の開通と同じ、明治38年の創業らしい。

 ちなみになぜ餅なのかというと、カロリーがあり腹持ちもいいから。長々と続く峠越えのお供には最適ということである。

(……? 誰もいないのかな)

「あ、いらっしゃいませー」

 直見が恐る恐る店に入ると、奥の方から女性が顔を出し、商品を説明し始めた。

「5個入りが410円で、10個入りが840円です」

「あ、じゃあ5個入りで……」

 一人で10個は食べきれないと思った直見は、安くて少量の方を選んだ。

(こんな朝っぱらからやってるんだ)

 先述の通り、時刻は朝の7時過ぎ。

 笹子駅ホームのベンチに座っていると、雨に煙る山を背にして、甲府方面への列車がやってきた。


 *****


(ふう。やっと席が空いた)

 直見が笹子から乗った列車は、峠のトンネルを抜けて甲府盆地へ下り、30分ほどで県庁所在地の甲府に着いた。

 笹子を出たのは7時30分頃。そう、朝のラッシュである。

 部活に入っていない高校生にとっては春休みにあたる4月1日だが、社会人や運動部にそんなものは関係ない。というかありはしない。

 6両編成に集まった客たちは、甲府で一斉に降りていった。


 日野ひのはるという駅に停車する。ホームからは間ノ岳あいのだけ甲斐かい駒ヶ岳こまがたけを始めとする南アルプスが、綺麗に見えている。

『特急通過待ちのため、しばらく停車いたします。発車は8時49分です……』

(ラッキー。丁度いいや)

 直見は一旦ホームに降りた。

 澄んだ空気に包まれている。南アルプスを見ていると、ゴォッという轟音とともに特急列車が通過していった。

 この駅は松の木が枯れたことで訴訟問題にまでなったが、駅はずっと移設されず残っている。

(松の木があれば、もっと綺麗だったのかなぁ)

 失われたものは取り返しがつかないが、大木に見守られている日野春駅も素敵だったんだろうな、と直見は想像した。


 *****


 小淵沢こぶちざわを過ぎると県境越えの区間になる。降ってこそいないが、雪も増えてきた。

(見てるだけで寒くなってくるなぁ)

 直見は上着を着直した。

 しかし雪景色は、信濃境、富士見、すずらんの里と過ぎるうちにだんだん少なくなり、茅野ちのはごく普通の町並みだった。

 諏訪湖の北側を少しずつカーブしながら走り、岡谷で飯田線の列車と接続する。直見は後で駅弁を買う予定なので、松本まで乗っていく。


(えーと、席あるかな……お、あったあった)

 松本始発の中央本線中津川なかつがわ行きは、たったの2両編成。

 幸いまだ座席が空いていた。

 途中の塩尻しおじりから分かれて、再び中央本線を行くことになる。ここでJR東日本からJR東海へと管轄会社も変わる。


 身軽なワンマン列車は、木曽川に沿って軽快に走る。

 カーブが多く、複線と単線が何度も入れ替わるので分岐器も多い。さぞ保線員と乗務員は大変なことだろう。

(綺麗だなぁ)

 だが直見を含む乗客の中に、そんなことを考える人はほとんどいないだろう。

 直見もそうで、揺蕩う木曽川の流れに見入っている。


「ねぇ君、ちょっといい?」

「え? はい」

 初老くらいの見た目のおじさんが、直見に話しかけてきた。

「旧中山道なかせんどうってもしかして、車窓から見えるの?」

(んー……)

 中央本線が通る地域は旧街道でいう中山道に当たる。

「すいません、私よく知らなくって。川の流れが綺麗だなぁって」

「あぁなるほど、そういうことね。これは何川というの?」

「んーと、多分木曽川だと思います」

 直見が答えるとおじさんは地理に明るいと見たのか、自分の話をし始めた。


「僕ぁこれから岐阜県内を自転車で回る予定でね。この後妻籠宿つまごじゅくからスタートするつもりだから、……えーと、南木曽みなみきそだっけ? そこで降りるんさ」

「ああ、南木曽なぎそ駅ですね」

「そうそう、ナギソだったね。……あれ、この駅は何て読むの?」

 おじさんは運賃表の「贄川」を指さし言った。

「えーと、それは贄川にえかわですね。生贄の贄です」

「ほ~」


 須原すはらで長野行き特急〔しなの〕の通過を待ち、南木曽には定刻に着いた。

「お気をつけて」

「うん、どうもね。こんなオッサンの話し相手になってくれてありがとう」

 折り畳み式自転車を抱え、おじさんは降りて行った。

(さて、どこで駅弁を食べようかなぁ)

 直見は手持ちの地図を開き、スマホを取り出した。

(……あ、ここ良さそう)


「えーと……あ、はい、青春18きっぷですね。ありがとうございました」

 運転士にきっぷを見せ、直見は無人駅に降り立った。

 駅の名は田立ただち。岐阜と長野の県境近くにある駅だ。

 二本のホームの間に架かる歩道橋が、そのまま駅の出口への通路になっている。

 線路とホームから一段高いところにあるロータリーには、自家用車はあるが人の姿はない。

(もしかして、ただの月極駐車場だったり……?)

 都会でロータリーのど真ん中が月極駐車場など普通はありえないが、それがまかり通る可能性があるのが田舎のコミュニティーである。実際のところ定かではない。

 待合室らしき建物にも、地元の人はいない。

(つまんないなぁ)

 直見はホームに戻り、屋根付きのベンチで昼食にした。

 鳥のさえずりと、時たま列車の通過音が響くばかりの無人駅。

 おまけに人はほぼいない。先ほど降りたもう一人は駅の写真を撮っているから、おそらく同士の誰かだ。

 青空の午後にはうってつけのロケーションだった。

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