第4話

 会社帰りにスーパーに寄り、白菜と鶏肉をエコバッグに詰めて家路を急いでいた。元々週末は料理していたとはいえ、平日帰宅後に夕飯を作るのは時間も限られるし最初は大変だった。だけど二ヶ月も過ぎると慣れてきたものだ。大概はクックパッドで『作りたいもの 簡単』でなんとかなる。今夜は白菜のクリーム煮だった。


「あらあ、今からご飯作るの? 大変ね~」

あと少しで家というところで、向かいの佐藤家の奥さんに声をかけられた。五年前、大輔はこの三階建てを購入し、住み始めた。一方で佐藤家は昔から住んでる地主だった。そのためか特に三十年以上前に嫁いできたというこの佐藤家の奥方は、近所の動向に非常に敏感であった。


「あ、はあ」

タイミング悪かったなと引き気味に大輔は相槌を打つが、好奇心丸出しの佐藤の奥方はお構いなしだ。

「奥さん、まだ戻ってこない? 年越したら戻ってくるかしらね。はるちゃん受験だものね」

「そうですね……」

佐藤の奥さんには、数日で愛がいなくなったことがバレた。実家に暫く帰ることになったと言ったのだが、恐らくごまかせてはいないと思う。

「男二人だとなかなか行き届かないこともあるでしょう? 何でも言ってね、助けになるから」

頬に手を当てて人の良さそうな笑みを浮かべながら佐藤の奥方は小首を曲げるが、一体何を考えているのか。大体外の暗い七時前など夕飯時に、大輔が帰宅する絶妙なタイミングで手ぶらで家の外に出てくるなんて、見計らったのではないか──などと、大輔が邪推していたときだった。


 目の前の我が家から、派手にガラスが割れる音がした。続いて多くの物が床に落ちたような、激しい音。


「えっ!?」

大輔が驚いて佐藤の視線を振り払い、家を見上げると音は電気のついている二階のリビングから聞こえているようだった。


「ああーっ!!!!」

今度は腹の底から絞り上げるような叫び声がしたと思ったら、再び大きなガラスが割れる音が聞こえた。

「暖斗っ!!」

大輔はただ事ではないと佐藤に会釈もせずに玄関に駆け寄り、手に持っていた鍵を大慌てで鍵穴に差し込む。ドアを開けると、物が叩きつけられるような音、叫び声は一層大きくなった。

「どうしたっ!?」

手にしたエコバッグとビジネスバッグを玄関の土間に放り投げ、靴を脱ぎ捨てると勢いよく階段を駆け上がる。


 二階に上がった大輔が目にしたのは、割れて粉々になって床に飛び散った沢山のグラス。ページが開かれ、破けたりしている沢山の雑誌。床に突き刺さった包丁。泥棒が入ったのかと思われる光景だった。茫然とする大輔は雄叫びのような叫び声ではっと我に返った。


「ああああああーっっっ!!!!」

リビングと繋がっているキッチンから、暖斗が叫び声をあげながら水切りかごを担いで出てきた。

「辞めっ……」

大輔は慌てて止めようとするが、暖斗は昨夜洗って置いておいた二人分の食器ごと、水切りかごを床に叩きつけた。170センチある暖斗が腕を上げて振り下ろした重い食器は、派手で耳障りな高音と腹に響くほどの重低音を響かせて、床の上で砕け散った。

「うわあーっ!!!」

大輔の存在に気づいてないのか、暖斗はなおも叫び声を上げながら、近くのテレビ台の上にあった時計を手に取り床に投げつける。


「待てっ、暖斗!」

大輔は床に飛び散るグラスの破片や食器の欠片には注意を払わず、まだテレビ台の上のペン立てを手で薙ぎ払っている暖斗に突進していく。足の裏に鋭い痛みが走ったが、構わずまだ暴れている、自分よりも大きな息子に背中から抱きついた。

「暖斗……っ!!」

それでもまだ暴れ、テレビ台の上の花瓶に手を伸ばそうとする暖斗。大輔は阻止しようと、暖斗を抱き締める腕に更に力を込める。

「暖斗、待てっ、暖斗……っ!!」

歯を食い縛りながら、もう自分より力も強いであろう息子を締め上げるように必死に抱き締める。


 何秒か何十秒か強く強く抱き締めていると、ふと暖斗の身体から力が抜けていった。

「……っ!!」

言葉にならない声が、歯の隙間から漏れて暖斗はその場に座り込んだ。膝を抱え込み、歯を食い縛って泣き出した。


 甘えん坊で泣き虫だった一人息子も、中学に入ってからは、さすがに親に涙を見せることはなかった。

──愛が出ていったあとも。

こっちが拍子抜けするくらいに、ドライな反応だった。それがこんなにも──


「なにがあった?」

大輔は暖斗に問いかけたが、暖斗はうつむいたまま、首を激しく横に振るだけだった。大輔はそっと息を吐いて、床に飛び散ったガラスと陶器の破片に気を付けながらキッチンに向かう。クイックルワイパーとビニール袋を手に取った。


 しかし改めて見ると目を覆いたくなるような惨状である。レースのカーテンも引きちぎられていることに気づく。暖斗が体重をかけて、下へと引っ張ったのだろう。まずは床に刺さっている包丁を引き抜いた。傷つかないようにと新築時にフロアコーティングした床は、ものの見事にえぐられていた。


「……ママが、来たんだ」


 大輔が床に立膝をつき一生懸命大きなガラスを拾い上げていると、ふいに暖斗の声がした。顔を上げると目を真っ赤にして部屋の真ん中で立ち尽くしている息子がいた。


「ママが?」

まさか愛が家に来るとは思ってなかった。暖斗だけを連れていこうとしたのか。大輔は口を開きじっと暖斗の顔を見つめる。暖斗は大輔の意図を理解したのか、泣き尽くして疲れ果てた顔を力なく横に振った。そこに滲み出ているのは諦観だった。

「学校から帰ってきたら、見たことのないシルバーのセダンにママが荷物を積んでるとこだった。今日、水曜で帰りが早かったんだ」

「……」

家に誰もいない時を見計らって、自分の荷物を取りに来たのか。そこに暖斗が偶然出くわしてしまったのか。

「ママはどんな感じだったんだ?」

「ぼくを見つけてすごく驚いてたけど……駆け寄ってきて。ごめんね、大変な思いさせてごめんねって言ってた」

「……」

「だけど好きな人が出来て、こうするしかなかったって。本当はを連れていきたかったけど、彼がまだ若いから。大きい息子がいたらお互い大変だと思うから連れていけないの、って」

「……」


 大輔の胸のなかに、口のなかに、ふいに苦いものが込み上げてきた。話し合いも一切せず、一方的に離婚届を突き付けて一人で出ておいて、なにがこうするしかなかった、だ。

「今は分からないかもしれないけど、いつか本当に好きな人ができたら、にも分かるからね、って」

暖斗はそう言うと、睨むように目に力を込めた。頬を歪ませながら、吐き捨てるように話を続ける。

「いつか本当に好きな人ができたら、息子を捨てる気持ちが分かるのかよ。家庭を壊す理由が分かるのかよ。そんなだったら、絶対恋愛なんてしたくねーけどな。っていうかじゃあ、今までのパパとぼくとの生活はなんだったんだよ、好きで結婚したんじゃなかったのかよ!」

「……それ、ママに言ったのか」

暖斗の言葉に圧倒され、大輔はぽかんと口を開いたまま呟く。暖斗は首を小さく横に振った。

「言えなかった、その時はもう、何て言っていいか分からなかった」

「……」


 大輔と同じように、暖斗だって愛に言いたいことは山程あったはずだ。それでもふいに自分の領域に入ってきて、謝罪もそこそこに『だって仕方ない』と言い切られたら、母親に何も言えないのは当然かもしれない。自分だって──


「それで……今思い返して、こんな風に」

「違う!」

暖斗は間髪入れず否定する。再び口を横にきつく結び、下ろしていた両方の手を強く握りしめた。赤く腫れあがった目が再び潤み、揺れ始めた。


「車の中に犬がいたんだ……っ! 真っ白な犬が!!」


 暖斗の泣き叫ぶ声が、大輔の心臓を鋭く突き刺した。一瞬、大輔の目の前も揺らいだ気がして慌てて額を抑える。立ちつくしていた暖斗はまたその場に座り込み、大声を上げて泣き始めた。


 やりきれなかった。

大輔は唇を強く噛みしめ、こぶしを床に強く振り下ろした。取り切れていなかった床の上のガラスの破片が人差し指の第二関節に突き刺さり、鋭い痛みが走った。



 暖斗は三歳ごろ、チワワに追いかけられたことがある。泣き叫んで逃げ続けたが、遊んでもらいたかったチワワはずっと追いかけて、最後はすっ転んだ暖斗の足にまとわりつきじゃれついた。犬に慣れていなかった暖斗には、相当恐ろしい出来事だったのだろう。以来、今日に至るまでチワワに限らずどんな犬でも、触るどころか傍に寄ることも嫌がった。


 それなのに、愛は犬を飼った。暖斗の大嫌いな犬を。家を出た途端に。


 口では「連れていきたかった」などと言ったが、犬を飼ったということは『もう二度と暖斗と暮らす気はない』ということなのだろう。


 暖斗への裏切りの現れだった。


 暖斗もそれを悟った。


 やはり心のどこかでは、いつか母親は戻ってくると思っていたのだろう。一見衝動的にも思える若い男との暮らしから、小さな頃からずっと『はーちゃん大好き』と言い続けた、息子の元に。

 それが一瞬にして──


 大輔だって、そんな若い男との衝動的で危うい生活など、そのうち疲れ果てて自分の元に戻ってくると思っていた。自分たちが十五年かけてしっかりと築き上げたこの生活に。だから今もまだ離婚届は出さずにいた。


 大輔はうつむき、じっと自分の指を見つめた。ガラスの破片を刺した人差し指に、じわじわと赤い血がにじみ出てくる。隣で暖斗がすすり泣く声がいつまでも聞こえた。


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