第47話 『お前と再び会えるのなら』
「しかし、そんな美しい日々は、突如として切り裂かれた」
俺とアンはジッグラトの階段の上にいた。地上から頂上の部屋に至るまで、土色の長い階段が続いている。
その時、にわかに耳をつんざくような叫び声が辺りに響いた。人間の声とは思えない迫力。同時に底知れぬほど悲痛な響きがあった。俺はそれを耳にして、急に心臓を鷲掴みにされたように驚いた。
頂上の部屋からだ。と思った瞬間、叫び声を聞いて俺と同じように驚いた顔をした人々が、下から階段を駆け上がってこちらへ向かってくる。
俺も彼らの後を追って、イシュタルがいる部屋へ向かっていった。
背中に立ち尽くしているアンの視線を感じながら。
ジッグラトの最上階に着いたとき、群衆の頭の間から、イシュタルと一人の男の姿が見えた。男は、彼女の前で顔が地面につくほど平伏しており、何かを叫んでいた。必死に彼女を説得しているように見えた。
イシュタルはと見ると、明らかにただならぬ様子だった。俺はその姿を見て、腰が抜けそうになった。
乳房をあらわにしながら男の前に仁王立ちで立ち、目を怒らせながら一心不乱に彼を見つめている顔は、まさしく鬼のような形相だった。彼女の目は驚きと怒りに大きく見開かれ、顔の中心に向かって無数のしわがよっていた。息は荒く、肩は激しく上下していた。
突然、彼女は男の腰にさげてあった剣を勢いよく引き抜いた。驚いた男は身を起こし、なだめるように何かを訴えた。しかし彼女は剣を振り上げ、力いっぱいに男を切り裂いた。男の体は二つに分かれた。
直後、イシュタルはこちらへ首を向けるや否や、爆音の雄たけびを上げながらこちらへ向かってきた。群衆は驚き叫びながら逃げ惑った。彼女は階段を大股で降りながら、容赦なく一人、また一人と、辺りにいる人々を切り刻み始めた。聖殿はものの数秒で血の海となった。
彼女の刃は俺の首を通り過ぎたが、切り傷一つなかった。俺はそのことに深く安堵しながらも、その光景をただただ困惑の思いで見ていることしかできなかった。一体、彼女に何があったのだ?
返り血で白い肌が血潮に染まったイシュタルは、そのままジッグラトの中腹にある広間に入って行った。その時、血で汚れた彼女の頬には、心なしか一滴の透明の雫が伝って行ったように見えた。
薄暗い広間の奥に、簡易的な寝台が一つ見えた。
そこには、”俺”が横たわっていた。真っ白になっていた。
イシュタルは”俺”を抱きすくめると、この巨大なピラミッドを揺るがすほどの大音響で泣き始めた。
知らぬ間にアンは俺の背後にいた。その声は、心なしか悲しみに震えているような気がした。
「お前は――、アシンは、突然私の元から去ってしまった。……兵士どもの不注意で訓練中に放たれた弓矢が、たまたま近くを通りかかっていたお前の純粋無垢な命を奪ってしまったのだ。私はこの時ほど、人間の命がいかに軽いものかを思い知った時はない。道端に咲く一輪の小さな花よりはかないものなのだと知った」
俺は愕然と”自ら”の亡骸を目にしながら、アンの言葉を思い出していた。
『あの日、お前は私のもとを離れ、手の届かないところに行ってしまった。
全てを手に入れたはずの私は、あの時、初めて自分にも出来ないことがあるのだと知った』
アンはその光景を振り切るように広間を出た。
そして、迫力あるバビロンの街並みを遠く見据えた。
その街は、俺が歴史の授業で想像していたものよりもずっと文明的に見えた。日干しレンガで作られた数えきれないほどの建築物が、幾何学的に整然と並んでいる。何不自由ない生活のように見えた。
「お前が去って、私も”ここ”を去った。そして、お前を探し続けた。ほとんど無限にも思える数の世界を回り、目を凝らし、耳を傾け、存在を感じようとした。私はどこへでも行けた。お前の魂の行方を探した。しかし、半ばで気づいたのだ。お前の魂はどこにも見つからないことに。そこで初めて、私でさえ行くことが出来ない、”もう一つの世界”の実在を知った」
その時、バビロンの空は黒雲立ち込め、昼間にも関わらず陽が沈む前のように暗くなっていった。巨大な突風が吹き、正面にある巨大な青い門が轟音を立てて崩れた。
「心の内を聞くことなく、本当の”想い”を聞くことなく、愛した人は去ってしまった。全ての人間を私の中で支配することを心に誓った私が、永遠のような生を生きてきた私が、唯一愛した人間。なぁ、ミノル。私はこの街がどうなろうとどうでもよかった」
街の様子は、まるで早送りをしたように忙しなく変化していった。緑豊かだった多くの木々は一斉に枯れ始め、土地は急速に水分を失い、嵐が起こり建物は崩れ、あちらこちらに力なく身を横たえた人間が増え始めた。あれほど活気に満ちていた街は一気に力を失ったようになった。
「お前と再び会えるのなら」
すると、にわかに歓声とも怒声ともつかない叫び声が、はるか遠くから聞こえてきた。かつて街を象徴する偉大な青い正門があったところから、鎧を身にまとった大軍が列をなして攻めよせていた。まるで激流のように、破竹の勢いで門を突破していった。とてつもない数の兵士が、みるみるうちにバビロンの街に広がり、各所で悲痛な絶叫が聞こえ始めた。槍と盾を持って待ち受けるこの街の兵士たちを襲っていた。
「まさか、これは、あなたが……!」
しかしアンは一向に構うことなく、冷然と続けた。
「お前の魂は再びこの地上に生まれ変わった。幾度も幾度も”器”を変えつつ、国を変え、性別を変え、生まれては死にを繰り返した。肉体を変えたお前は、もう私の知っているお前ではなかった。だが、どれだけ性格や肌の色が変わろうと、どれだけ剣を持って他人を殺めようと、どれだけ城の中でつまらない一生を送ろうと、私はお前の生のきらめきを飽くことなく見続けた。”見る”ことはできても、”会う”ことは出来なかった。時や次元を超えることが出来る私でも、絶対的な法則は破れない。お前の顔からあの時の面影を探す時、私はいつも”外”にいた。百万語の言葉を尽くして語りかけても、むなしく次元の壁を前に消えていく。そんな時が永遠のように長い間続いた。
しかしある日、待ち望んだ時がやってきた。
私に変化が起きたのだ。自分でも制御することはできなかった。それは私よりも巨大な時の巡りの中で起こったことだからだ。それぞれの次元、それぞれの世界が近づき始めているのが分かった。さらに、各々の壁は薄くなり、次第に侵し合うようになった。他の世界や<迷いの間>に迷い込む人間も多くなった。私はその崩壊の音を自分の内側で、外側で聞きながら、世界は、新しい時代へと生まれ変わりつつあるのを知った。
しかし、それは私にとって、何にも代えがたい、唯一のチャンスだった。
世界と世界の壁、次元と次元の壁がゆっくりと融けてなくなって行ったことで、気づけば、お前をかつてないほど近くに感じられるようになっていた。
始まりは、”偶然”、お前が赤い<迷いの間>に迷い込んだ時。
それが合図だった。
私はお前との再会を確信した。
そうして私はここまでお前を導いた」
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