第32話 この世界のどこかに
俺がこれまで覚えてきたもの、当たり前だと思っていたものが、軽々とひっくり返された。二十六年間にもわたって常識だと思っていたものが、今でははるか遠くに感じ始めていた。「男と女は共に生活し働いてこそ社会は成り立つ」、「力というものは常に男に属しているものだ」と無意識に思い込んでいた自分に初めて気づいた。自分の住む世界の「普通」は、他の並行世界では反対のものになることもあるのか。
ともかく、俺はここに描かれている世界にいる……。銀色のナイフをかざした女たちが描かれたページを手でなぞりながら、つい数分前からずっと胸の内で高まり熱くなっているものに意識を集めた。
……ということは、カレンは、この世界のどこかにいるはずだ……!
この土地での出口の見えない不毛な生活を思うと、首を傾けなくとも見える、光の差し込まない無表情で沈鬱な曇り空のように気持ちが暗くなっていた。
しかし、今では心は晴れ渡り、活力を取り戻していた。胸の内の、絶望の空白の中に、忽然と、一点の希望が生まれた。俺はそれにすがろうとした。
来る日も来る日も、俺は夜になると子供たちと一緒に教科書を開いた。学びの意欲は尽きることなく俺を突き動かした。
絵を通してではあるが、ページをめくるごとに新鮮な驚きがあった。
書物を読む限りでは、どうやらこの土地の男たちは定期的に女たちへ食料などを送っているらしい。何台かの荷車に荷物を詰めて、複数の男たちで城へと向かっている。
男たちと女たちの接触はほとんどそれだけだ。あとは特殊な儀式として、「繁栄のために」若い男たちの誰か一人を、女たちに捧げなければいけないらしい。物理的な接触といえば唯一それだけだが、その際も男と女の接触は極めて厳重に管理されており、肉体的に触れる部分はできる限り最低限度のものになるように手配されている。女が生まれた場合は、さらなる神聖な儀式を経て、複数の付き人の女たちによって丁重に育てられ、男が生まれた場合は、儀式が終了したのち、その男が自ら抱きかかえて帰ることになる。
俺はひたすら待った。荷車で女たちの城へ行くその時を。その車について行きさえすれば、必ずカレンがいるあの城に着くはずだ。
だから、来る日も来る日も俺は男たちを観察した。集落の端々を行ったり来たりしては、荷車のようなものを引いている者はいないか、食料を積み込もうとしてる者はいないかを見て回りながら、わずかな動きも逃すまいと思いながら日々を過ごした。言葉が通じないのだから、そうするしかなかった。それだけ目立つ行動をとっているにもかかわらず、相変わらず彼らは俺に大した関心を抱いていないようだった。驚いたことに、子供たちは異世界人である俺をそこら辺の普通の男と同様に扱い、手を引っ張って遊びに誘ったりした。
三、四日ほど経った時、ついに彼らは俺に一枚布の衣服を着るように勧めて来た。もはや俺は仲間同然ということなのか? 彼らにはどうやら敵愾心というものはないようだ。勧められるまま、薄く黄色い、荒い生地の衣服を身に着けた。これまで着ていた洋服には汗が染みつき、匂いが耐えられないほどだったので、かえってちょうど良かった。はじめは少し寒い感じがしたが、次第に慣れていった。洋服と比べても露出度がかなり高く、ともすれば局部が見えてしまいそうなが気がしたが、ここに「異性」はいないということを思い出して気にしなくなった。
俺は彼らの生活に溶け込んでいった。意識的にそうしようと思ったわけではなく、気づけば加わっていた。彼らの農業や狩猟といった日々の仕事、それから彼らの宗教や教育といった文化活動に。着ていた衣服すら脱ぎ捨て、何もかも打ち捨てて自由の身になり、心が柔軟になったからこそなのだろうか。それとも、カレンにまた会えるという希望が余裕を生んだのだろうか。
――石にも金属にも見えるよくわからない材質の桑で、地道に畑を耕していく。桑は重く、作業は単調で、肉体にこたえたが、流れる汗は程よい冷気の中で心地よかった。土は相変わらずどこをつついても青く、乾燥していた。小麦やイモの類を植えていった。
農業の他は、遠くの山へ出掛けて行って、動物を狩る手伝いをした。鹿やウサギに似た動物を手製の槍や弓で狩っていく。最初はこっちの世界にもいるような普通のウサギだと思って近くで見ると鋭い牙が生えていて、ちょっとした恐怖を感じたりした。この世界は、俺のいた世界と比べて大きく違うところがある一方、よく観察しないと分からない微妙な違いがあるところもあるようだ。
この世界に来たはじめは気づかなかったのだが、この世界はどうやら昼の時間が短く、夜の時間が長いようだ。太陽の出ない昼間の時間は、体感で七、八時間ほどしかなく、夕焼け空などは一切見ないまま次第に暗くなって夜となる(だから、ここの人たちの起床時間は一様にとても早く、夜がまだ明けきっていない頃くらいから仕事を始める人がたくさんいる)。日が落ちてからすぐリラックスモード、夕食とはならず、ここからは彼らの「信仰」のために時間が費やされる。狩猟の山とは違う、一際巨大で荘厳な山へと向かう。大人や子供は手に手に松明を持ちながら列をなして歩いていく。ここの人間に合わせて俺も裸足で歩いたのだが、はじめは慣れていないため夜道の中の石ころを踏んだりして痛みをこらえながら行った。集落の人間全員なのかは分からないが、人数的にはかなりの数が一緒に歩いているように見える。到着した山の頂上には、こっちの世界でいうストーンヘンジのような石の建物があり、その上部が背景にある光る大きな球体を支えているように見える。あの月だ。彼らはこれを毎日信仰しているのだ。少し離れて見ると、ちょうど山のてっぺんに月が乗っているように見える。どうやら、夜空を煌々と照らすこの月が、彼らの心の中心にあるようだ。彼らは山の前まで来ると、月光を見つめた後、膝を折って平伏し始めた。俺も一応それにならって地に伏した。しばしの間、虫の音ひとつ聞こえない静謐な時間が流れた。……俺は初めて何かに”真剣に”祈ったかもしれない。胸の中でこうつぶやいた。
『無事にカレンと元の世界に帰れますように』
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