第24話 ”彼女”

 中村ユイは、不必要に思われるほど広大な階段を下りながら、本日二回目の「人生最大の衝撃」を感じていた。あたりの闇に同化するほど黒いスーツの下にある心臓は、所狭しと激しく動いていた。彼女が生まれてからというもの、あらゆる過去は脳の電気信号と同じものであり、未来も事前に予測されるのが当たり前であったから、これまで何事かにひどく驚くということを、ほとんど体験したことがなかった。だからいま彼女が感じている驚きは、自らの存在そのものを底から脅かすような心地がした。


 果てしなく長い階段を降りる。おぼろげな灯火に黒光りするハイヒールの靴音は遠くで反響して、けたたましい音となって耳に届く。ヒールが叩いている濃い紺色の階段は、ダイヤモンドのように固いが光を全く反射せず、チョークのような柔らかな滑らかさで、とある<浮世>に存在する希少な鉱石の一種で出来ている。こういった他ではまず目にすることがないようなものばかりが、この”最上階”のいたるところにはある。


 一方、彼女の背後には、つい先ほど通ってきた白いドアがある。そのドアの縁やそれを囲むアーチなど、随処に金の装飾が施されており絢爛の限りを尽くしている。その金は白い木製の壁の上で、あたりの暗さに異様なほど際立っている。噂では、”彼女”の趣味をもとにヴェルサイユ宮殿という建築物を模して作られたらしい。


 ユイの心の中は「予想通り」と「予想外」が渦巻いていた。彼女がここで勤め始めて十年近く経つが、たった今、初めて輝く白いドアの向こうにいる”彼女”の姿を目にし、初めて”彼女”と話をした。圧倒され、動揺していた。後ろにあるドアを抜けて”彼女”と対面するまで、社内において常日頃から耳にしているあらゆる”彼女”の噂やそれをもとにした予想、また、彼女自身が現在置かれている厳しい状況に対して向けられるだろう言葉、あるいは新たな命令の方向性などが、ざっと各数百種類、彼女の中に用意されていた。会った結果、半分は彼女の予想していた通りで、もう半分はそれのはるか遠くにあった。


 ”彼女”の髪は光を吸い込むほどの深い黒で、唇は”血を感じさせる”赤。”彼女”を覆っているのは繊細微妙な清い光輝で、そのために肌は眩しく白く光っていた。声は低く丸みを帯びており、弦楽器のように滑らかで、相手を包み込み安堵を感じさせる。


 同じ女性であるユイでも、一瞬、誘いこまれてしまうほどに妖艶で壮麗無比の美を放っていた。


 ”彼女”は確かに美しく、優しかった。だが、恐ろしかった。


 ”彼女”と相対している時に肌身に生々しく伝わってきた、行為にも言葉にも表れていない、あの一寸の隙もない迫力を思いだして、身震いした。そこにいる”彼女”のすぐ後ろに、限りなく未知の世界が広がっており、それが煙のように動いて今にも自分を包み込んで拉し去ろうとしているように感じて、終始、得体のしれない身の危険を感じていた。そして、慈しみをたたえた目尻は、全てを支配しているがゆえの、いつでもその全てを破壊することのできるがゆえの裏返しであると、戦慄と共に感じた。


 だが、それも社員たちに共有されている”彼女”についての諸々の噂を集めて組み立てられたユイのイメージの範囲内に一応はおさまっていた。予想外だったのは、その艶めかしい”彼女”の口から出た言葉だった。ユイはその言葉を反芻して確かめていた。


『信じられない。そもそも、そんなことが可能なの?』


 ”彼女”から下されたその新たな命令は、それまでユイたちに伝えられていた”通常の手順によるイレギュラー処理”という命令を”彼女”自身で覆すことになり、その点の気まぐれさもまさに噂に違わない、とユイは思った。しかし、”彼女”の気まぐれのせいで、これからの動きを大きく方向転換しなければいけないことを考え、口の奥が苦い感じがした。


 あの青年の顔が浮かんだ。歳はさほど変わらず二十代後半、凛々しい顔つきの青年。恋人と思われる、同じく美しい女性の手を引いている。現場の我々の察知をかいくぐり追跡を逃れ、突如現れたドアの向こうに消えた青年。あの瞬間に今日一度目の「人生最大の衝撃」を味わった。全てが常軌を逸している。彼が消えてから”彼女”がやり方を大きく変え始めたのも分かるような気がする。


 しかし、なぜ”彼女”はあの青年にそこまでこだわるのか……。


 ――ともかくこの件を早く上司に伝えなければ。


 ようやく階段を下り終えた。果てしないほど長かった。そのままいつものオフィスへと向かう道中で彼女は気づいたが、階段の一段目からその上の”彼女”がいる部屋に至るまでの領域、やはりあそこの雰囲気は異様だ。あの”頂上部分”はどの<浮世>にも似通っていない、高次元の世界に属している感じがする。

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