第3話
カウンセラーと理学療法士が病室に現れる。
「さぁ、リハビリを始めようか?」
声をかけられた女子高生が理学療法士を睨みつける。
「リハビリなんてしてどうなるの?」
「リハビリをして必要な筋肉をつけて、動き方を知ると――」
女子高生が枕を理学療法士に投げつける。
「うるさいっ、リハビリなんてしないっ!リハビリなんてして何になるのっ!リハビリすれば、私の足は動くようになるの?」
どれだけ強い口調で言われようが、理学療法士もカウンセラーの女性も顔色一つ変えることはなく、常に笑顔だ。
「もう、動かないんでしょっ。私、歩けなくなったんだよ?一生歩けない……。死んだほうがまし、死にたい……」
よく見る光景だ。
事故などで突然何かを奪われ障害を負った人間は絶望して死を望むようなことを口にする。
よくあること。
だから、カウンセラーが動じることもない。
カウンセラーが理学療法士の顔を見て小さく合図を送る。
「じゃぁ、今日はリハビリはやめておきましょう。少し、病院をお散歩しましょうね。ずっと病室にいたら退屈でしょう?」
女子高生が顔を反らして返事をしない。
「そうね、売店にも寄りましょうか。お金を持っていくといいわよ」
カウンセラーの言葉に女子高生は手をベッドサイドのテーブルに伸ばした。
けれど、動かなくなった足のせいでうまくバランスが取れずに体が傾ぐ。
「ああっ、駄目だ。動け、なんで、動かないのっ、もう、やだ。やだよ、死にたい。死にたい……」
女子高生の由紀は、高校でチア部に入っていた。部活の練習中脊髄を損傷して半身不随になる。
人一倍自由に体を動かしていた由紀には、体が動かないことがどれほどの苦痛なのか。
由紀が少し落ち着くのを待って、カウンセラーと理学療法士が車いすに乗せた。
「じゃぁ、出発」
カウンセラーが連れて行ったのは小児病棟の奥。
車いすに乗った小学生がリクリエーションルームでおもちゃで遊んでいる場所だった。
「何よ、あんな小さな子だって頑張っているんだから、私にも頑張れってそう言いたいの?」
由紀が憎しみのこもった目でカウンセラーを睨みつける。
「いいえ」
カウンセラーは小さく首を横に振り、車いすをテーブルに近づけた。
「何か本を読む?」
外科のリクリエーションルームの半分は子供たちが遊べる場所。半分は大人がくつろげる場所になっている。新聞や雑誌が置かれていた。
由紀の目は、入院する前毎週読んでいた漫画雑誌に目が留め、すぐに視線を移した。
こんな時に漫画なんて、読めるはずない。
私は絶望しているのだ。そう、死んでしまいたいほどに。
視線を落とすと、二度と動かない両足が目に入る。父親が持ってきた藤色のジャージのズボン。
一人では履けないズボン。着替えも、風呂もトイレさえ、一人ではいけなくなってしまった体。
いったいどうやってこれから生きていけばいいのか想像もつかない。
ここでは看護師さんがすべて手を貸してくれる。家に帰ったら?
由紀には母親がいなかった。父親に入浴を手伝ってもらうなど想像もできない。
もう、生きていたくない。死にたい。
死ねばこの胸の苦しさもきっと楽になる。
私の人生は終わった。だから命もいらない。だから死ぬ。
由紀の心は闇しかなく、どうすればいいのか、どうしたらいいのか分からず……そして、顔も覚えていない母がもしいたら何と言うだろうと想像してさらに心を傷つけた。
「ねぇ、お姉ちゃん、これ、僕のおすすめの本。これ読んだら元気が出るよ?」
車いすにのった小学校2年生くらいの男の子が由紀に1冊の本を差し出した。
飛行機の本だ。病院の所蔵している本でないことはすぐに分かった。男の子が由紀の隣に上手に車いすを寄せると、本のページをめくる。
「これは、A380だよ。長さが73メートルもある大きな飛行機なんだ。こっちのB737-700が33メートルしかないから、倍以上あるんだよ」
由紀にとってどれも同じにしか見えない飛行機の写真を指さしては楽しそうに話をする男の子。
なぜ、同じように車いすに乗っているのにこの子は楽しそうなんだろう。
ふつふつと意地悪したい気持ちが湧いてきた。
「ねぇ、もしかして君はパイロットになりたいの?」
「え?なんでわかったの?そうなんだ。僕、パイロットになりたいんだ。ほら、見て。コックピット、かっこいいよねー」
男の子の足を見て由紀にはこの子も一生歩けないんだろうと思っていた。
だから、男の子を傷つけたくて、親切なふりをして、言葉を口にする。
「知らないの?だったら教えてあげる。パイロットになるのはすごくむつかしいんだよ。いっぱい勉強しなくちゃいけないの」
男の子が由紀の顔を見る。
「知ってるよ。だからいっぱい勉強するんだ」
「それから、歩けないとパイロットにはなれないんだよ」
傷つけるつもりでその言葉を口にしたものの、由紀はすぐに後悔した。
見ず知らずの子供に意地悪した自分が恥ずかしくなった。これじゃぁ……顔も知らない母と同じじゃないかと。
やっぱり自分には母の血が……誰かを傷つけてしまう母の血がしっかりと流れているのだと、恐怖を覚える。
絶望する男の子の顔を想像して、謝らなくちゃと、どうすればこれ以上この子を傷つけずに済むかと言葉を探す。
「うん、それも知ってる」
ところが、少年は悲しい顔一つ見せずに笑った。
「だからね、僕はまず、飛行機を作る会社に入って、車いすでも操縦できる飛行機を開発するんだ。それから、その飛行機のパイロットになるんだ。両方ともいっぱい勉強しないといけないから、僕ね、早く学校に行きたい」
「車いすでも操縦できる飛行機?そんな、需要のないものの開発にお金なんて……」
と、由紀が少年の夢を否定するような現実的な言葉を口にする。
今まで黙って二人の言葉を聞いていたカウンセラーが、腰を落として男の子に視線を合わせた。
「一つの技術は多方面で活用されるから。車いすで操縦できる飛行機の技術が車いすで運転できる電車や船やバスや自動車……もしかすると、何十年かたてば自動車が空を飛ぶようになるかもしれない。その時、車いすに座った人も当たり前のように乗れるようになっているといいわね」
「うん、僕頑張るんよ。いっぱい勉強して、絶対に車いすで操縦できる飛行機を作るんだ。お姉ちゃんは何になりたいの?」
子供の笑顔に、由紀は何も答えず、車いすのタイヤの横の銀色を握る。
車いすは後ろに進み、ゆがんでガツンと隣の机にぶち当たった。
何よ、なんで、この車いす、思った方向に進まないのよっ!
由紀は、逃げ出したいのに逃げ出すことも自由にできないことに苛立ちを募らせる。
「あのね、お姉ちゃんはまだ考えているところなのよ。だから、決まったら教えに来るね。じゃぁ」
カウンセラーが男の子に手を振り、由紀の車いすを押す。廊下に出ると由紀が低い声を出した。
「私は……何にもならない……。夢なんて、夢なんて持てない」
首をひねり、由紀が後ろを向く。上半身だけでは、完全に後ろに顔を向けることはできなかった。
カウンセラーの顔を睨みつけたいのに。ただ斜めにむいた顔で端っこにカウンセラーの姿が見えるだけ。
ほら、何もできない。
逃げ出すことも、人の顔を見ることも……何も自由になんて……。
「あの子に合わせて、新しい夢を探しましょうとでも説得するつもりだった?……無理だから。私、リハビリなんてしないし、死にたいというか、死ぬから」
由紀が前を向くと、カウンセラーが再び車いすを押す。そのままエレベーターに乗り、屋上へと出た。
「さっきの子ね、もう長くないんだよ」
由紀が息を飲む。
「な、なによ、それ……。もしかして、生きたくても生きられない子がいるのに、死にたいなんて贅沢だって説教するつもり?陳腐ね。陳腐っ。馬鹿みたい。馬鹿みたい。私とあの子は別でしょ。私は死にたいんだからっ!」
ゆっくりと車いすが押され、屋上の一番隅まで進んで止まった。
由紀の目の前には屋上に張り巡らされた高さ2mほどのフェンス。
フェンスの向こう側には青空が広がっている。
視線を下に移せば病院の駐車場。それから家並みが見える。7階建ての病棟の屋上はこのあたりでは一番高い建物だった。
「死にたいんでしょう?あなたにはまだ寿命がたくさん残っている。自殺すれば、残っている寿命は誰か指定すれば指定した人に5年。それ以外は寿命バンクに渡る」
背中からカウンセラーの声が由紀に届く。
「あの子や他の寿命を待っている子たち……死にたい、死んでやるとぐちぐち言って努力もしない人間は、いっそさっさと自殺してしまえばいい。1日でも寿命が長く残っている間に死ねば、夢や希望に満ち溢れているのに生きられない子友達が助かるのだから……そうでしょう?」
低い声。
「でも、足が不自由では自殺一つするのも大変なことじゃない?」
いつの間にかカウンセラーが車いすの横に立っていた。高いフェンスを見上げる。
「このフェンスをよじ登って飛び降りるのも一人じゃ無理よね?」
カウンセラーが車いすの由紀を見下ろす。ちょうど太陽の光が後ろからさして、カウンセラーの顔は逆光になっていて表情が見えない。
「あ……」
由紀がかすれた声を出す。口が急に乾いて、うまく声を出すことができなかた。
悲鳴すら、あげられそうにない。
「手伝おうか?」
カウンセラーの手が由紀の手の甲に触れた。
温かいと、由紀は思った。緊張して冷たくなっているのでもなく、カウンセラーの手はホカホカと温かい。それが、由紀には異様に感じた。
カウンセラーがフェンスに視線を向ける。
「こちら側は下がコンクリートだから、落ちれば苦しまずに即死かな」
由紀が不安な顔を見せると、カウンセラーがほほ笑んだ。
「死にたいんだよね?」
「だ、だからって、その……自殺を助けるのも犯罪になるんでしょ?」
カウンセラーが、由紀の後ろに回り車いすを押す。
そして、数メートル進んだ場所で止まった。
「あった。ここ。噂通り。ほら、見て……と言っても、顔を近づけて見るのはむつかしかったわね」
由紀の足元、フェンスの根元をカウンセラーが指で示した。
「どうも、ここだけ腐って今にもフェンスが倒れそうだって言っていたの。ここで、自殺しようとするあなたと、止めようとする私がもみ合いになり、うっかりあなたは壊れたフェンスとともに落下するのよ。まったく私は犯罪にはならないでしょう?」
由紀の背中に冷たいものが走る。
「そんなことして、あなたに何の得があると言うの……?」
車いすはしっかり後ろで押さえられていて逃げ出すこともできない。由紀は、震える声でカウンセラーに尋ねた。
「得?まずは、危険なフェンスが実際に人が落下したことで修理されるでしょう。そうすれば生きたい人が事故で死ななくて得でしょ。それからあなたの寿命で誰かの寿命が延びるんだから、得でしょ?それから、死にたいあなたは死ねるんだから得」
カウンセラーが指を一つずつ折り曲げながらあれが得だ、これが得だと数え上げている。
「あ、あなたは何が得なのかって、答えてよ……もしかして……人を、人を殺すと快楽でも覚えるとでも……」
カウンセラーが口をつぐむ。
そして、再び由紀の目から見て逆光になる場所に立った。
「私、昔人を殺した。楽しいはずがない……」
え?
由紀の震えは一瞬止まった。カウンセラーの口から発せられた言葉の意味を脳が理解するまでに時間を要したのだ。
人を殺したと、確かに聞こえた。
「ほーら、屋上ですよ。ここまで階段で上がってこられましたね!」
女性の理学療法士が、初老の男性と屋上に現れた。男性は杖を手にしている。四つ足のついた変わった杖だ。
「じゃぁ、続きはまた明日にしましょうか」
カウンセラーが何事もなかったかのように明るい声で由紀の車いすとを押してフェンスを離れた。
助かった……。
ホッと恐怖から解放され、由紀の体から力が抜けた。
病室に戻るとカウンセラーが優しそうな笑顔を由紀に見せる。
「じゃぁまた明日ね」
明日……。
由紀の頭に屋上から見下ろした景色が思い浮かぶ。そして、そこに血まみれで横たわる自分の姿。
途端に震えが訪れた。
「あら、大丈夫?寒いのかな?もう一枚布団を用意しましょうか?」
いつの間にか看護師が検診に来ていた。看護師の言葉に由紀は何も答えない。
だけれど、それを看護師は気にするようなことはない。突然歩けなくなるという現実を受け入れられなくて怒鳴り散らし暴れる患者。
絶望してぼんやりと何も見えずに何も聞こえない状態の患者。
たくさんの患者を看てきたのだ。現実を受け入れるには時間がかかる。人によってその時間は様々だ。ただ、この子の場合は、一番弱音を吐いて頼りたい母親がいない。まだ高校生だというのに、一人で現実に立ち向かっていかなくてはいけないのだ。
「あ、あの……」
小さな声が由紀から発せられ、看護師が手を止めた。
由紀の方から話しかけられるなんて初めてのことだ。
「何?」
「カウンセラーの人……あの人、昔、人を殺したって……」
そうか。彼女がカウンセリングについているんだった。
彼女からは、担当患者から尋ねられたら話をしてもいいとは言われているけれど……。
「また、その話をしたのね。……個人情報を私が話をするわけにはいかないから、本人に聞くといいわよ」
否定も肯定もせずに看護師はそれだけ言って去っていく。
「また、その話をした?あの人、みんなに同じことを言っているっていうこと?ここで同じように何人か殺してるの?……それとも、ただの嘘?もし、何人も殺しているなら、事故に見せかけたって無理がある……」
だけれど、病院全体の組織ぐるみだとしたら?
看護師さんは顔色一つ変える様子はなかった。
寿命の受け渡しを裏で取引して金儲けしている病院が摘発されたといつかニュースで言っていなかっただろうか。
寝たきりの老人、末期で苦痛に苦しむ人、それから医療費を払うあてもない人に、暴力団関係者。旨い事そそのかし、政治家や芸能人やお金持ちたちに寿命を渡していると。何人かの政治家の名前が挙がったため大きく報道された。
「何が悪い!役にも立たない人間、それどころか人の迷惑になるような人間よりも、私のように立派な人間が長く生きるべきなのだ――」
と、パンドラの箱を開けるようなことを、辞職前の政治家の立場で言ってしまった。
命の選別。
長生きするべき人間と、早く死んでもかまわない人間。
そんなこと、誰が決めるのか……。
ぞくりと背中が寒くなる。
死にたい死にたいとわめき散らしている私。
将来に大きな夢を描いて生き生きとしている男の子。
次の日、由紀は初めてリハビリに臨んだ。
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