第5章 君は自分で自分自身を守らなければならない
安寿が岸のモデルになってから、一年が過ぎた。
相変わらず、岸は鉛筆でモデルの安寿を素描していた。岸のギャラリストとしての華鶴から、早く油絵に取りかかるように催促されているが、岸は再び人物画を描くことに自信が持てないでいた。その間にも、次々に顧客から新作の風景画の依頼が来る。安寿がアトリエにやって来る土曜日以外は、岸は依頼された風景画の制作に追われていた。岸は安寿に絵を教えていながらも、自分自身の絵の方向性が見えないことにあせりを感じていた。しかし、画家はわかっている。本当は人物画を描く自信がないのではなく、キャンバスを通して安寿と正面切って向かい合うことが怖いのだ。自分はきっと画家とモデルの境界線を越えてしまうだろう。昔のように。そして、安寿を深く傷つけることになるかもしれない。だが、岸は知っている。自分の画家としての捨てきれない残酷な情熱がその境界線を越えるどころか、いつかそれを跡形もなく燃やし尽くしてしまうだろうということを。その確信めいた予感に岸はおびえていた。
暖かい春の日に、安寿は十七歳になった。高校生活は順調そのもので、個性的な友人たちともすっかり打ち解けた。岸からの温かいアドバイスもあって、入学当初のような他の生徒と自分の画力を比べて落ち込んでいた安寿はもう過去のものだった。誰にどう評価されようとも、自分の絵を自由に描く。ただそれだけだ。その姿勢は、安寿をより強い足取りで進ませる。そして、安寿自身のなかにある唯一無二の美しさを引き出した。
岸はこの一年の間に、刻々と力強く、そして美しく変化していく安寿を誰よりも近くで見てきた。目の前の他者を見て描くという行為は、その他者を認識するということだ。十冊にも及ぶ画家のスケッチブックを見ればわかる。画家ははからずも、安寿の「美しい力」の成長と成熟を精密に記録している。
そして、あと二人、安寿の成長と成熟を間接的に認識できる人物がいる。航志朗と華鶴だ。航志朗は華鶴の依頼を受けて、額装された安寿の素描と安寿をデッサンした絵が描かれているスケッチブックを売却するためにフランスに渡ることになった。とはいえ、航志朗のシンガポールでのアンとの共同事業は、まとまった休みが簡単には取れないほど忙しい。そんな状況下で航志朗はなんとかスケジュールを調整し、岸の作品を受け取りに東京の黒川画廊に向かっていた。
シンガポールを午後十一時に離陸した深夜便に航志朗は搭乗している。直前まで仕事をこなし、ぎりぎりでこの便に飛び乗った。羽田空港に到着するのは、日本時間で翌日の午前六時すぎだ。薄暗い機内で、夕食をとっていなかった航志朗は配られた軽食をつまみ、飛行機の窓の外を見た。外は真っ暗だ。ときおり漁船の灯りだろうか、小さな光が下方に見える。メールをチェックしていたノートパソコンを閉じて腕を組んだ航志朗は目を閉じた。日本に帰国するのは十か月ぶりだ。安寿はどうしているのだろうと、航志朗はもの思いに沈んだ。
「コーシ、久しぶりに日本に帰国してから、なんか変わった」。午前零時を過ぎてから帰宅したアンが、妻のヴァイオレットにこぼした。ここは高台にある高級住宅地に建てられた新婚のふたりの新居で、シンガポールでは珍しい庭付きの一軒家だ。
「変わったって、どんなふうに?」。実家から一緒に引っ越してきた老犬のペキニーズを抱きかかえながら、ヴァイオレットが眠そうな顔をして尋ねた。ヴァイオレットは地元の経営大学を首席で卒業して、実家が運営している社会福祉事業財団の理事をしている。本当はアンと一緒にイギリスの大学に留学したかったのだが、父に許してもらえなかった。本人いわく「パパを見返してやりたかったから」とヴァイオレットは学生時代に必死になって猛勉強した。だが、結局のところ、ヴァイオレットの素質とスキルがウォン一族にとって多大な利益をもたらしていることに、ヴァイオレットは気づいていない。
アンが両肩を上げて言った。
「コーシさ、女性に手を出さなくなった」
「え? どういうこと?」。ヴァイオレットが目を丸くした。
「あいつ、イギリスにいた頃からものすごくもてて、ガールフレンドには不自由してなかったけど、全部きっぱり断るようになった」
「日本で好きなひとができたんじゃない?」。ヴァイオレットは意味ありげににっこり笑った。
「ヴィー、やっぱり君もそう思うだろ? ああ、コーシが僕たちの会社を辞めて、日本に帰るって突然言い出したら、僕はどうしたらいいんだ……」。アンは大げさに両手で天を仰いだ。
「まあまあ、アン、落ち着いて。コーシはそんな無責任なことはしないわよ。それより、もし本当にコーシに好きなひとができたのなら、私、ひと安心するわ。だって、コーシってとっても冷たいんだもの」。ヴァイオレットはよしよしとアンの頭をなでながら言った。何食わぬ顔のペキニーズがふたりの間にはさまれながらくしゃみをした。
「えっ? ヴィー、何言ってるんだよ。コーシは優しいよ」
「そういう意味じゃなくて。なんていうか、コーシは冷えきっているの、心も身体も。だから、誰か彼を温めてくれるひとが必要よ」
「僕じゃだめなのか?」
「だめだめ! もう、そんなの当たり前でしょ!」。あきれたヴァイオレットの頬をペキニーズがぺろっとなめた。
日本へ向かっている飛行機の中の航志朗は、なかなか眠れないでいた。午前二時の機内はライトを落として暗く、とても静かだ。航志朗は安寿のことをずっと想っていた。
初めて安寿と出会ってから、十か月が経った。あれから安寿のことを思い出さなかった日は一日たりともない。結局、航志朗は安寿の連絡先を聞けずじまいだった。母と伊藤は知っているだろうが、とてもじゃないが彼らに訊くことはできない。唯一知っているのは、安寿の住む団地の住所だけだ。だが、号棟や部屋番号まではわからない。そもそも、自分のことを安寿はどう思ったのだろうか。まったくわからない。この十か月間、土曜日になると、安寿があのアトリエで父のモデルになっているのかと思うと、心がどうにも落ち着かない。
(まさか、俺は父に嫉妬しているのか?)。航志朗は苦しそうに頭を抱えた。通りがかったキャビンアテンダントがちらっと航志朗を見た。すぐに彼女は何かお飲み物をお持ちしましょうかと航志朗に尋ねた。航志朗は首を振ってから礼を言った。
シンガポールから日本までの距離は、約五千キロメートルだ。海外を飛び回っている航志朗にとって、それほど遠い距離ではない。ただ問題なのは、安寿自身との距離だ。
(明日の昼すぎにはフランスに出発だ。きっと、今回、彼女に会えるチャンスはないな……)。航志朗は深いため息をついた。とにかく今は目を閉じるしかない。闇夜の空の中で。
うつらうつらとした航志朗を乗せた飛行機は早朝の羽田空港に到着した。東京は霧雨が降っていた。航志朗はタクシーでマンションにいったん帰った。一泊だけだが、伊藤が滞在する準備を整えておいてくれた。とりあえず航志朗は熱いシャワーを浴びた。それから小腹が空いたので、熱いコーヒーと一緒にクラッカーにクリームチーズとピーナッツクリームをつけて食べた。黒川画廊で華鶴と会うアポイントメントは、午後三時だ。まだ時間にだいぶ余裕がある。航志朗はソファにもたれながら、黒革の手帳を眺めた。中には、スケジュールや事業計画、アイデアの覚え書きがびっしりと書かれている。その手帳の最後のページを航志朗はめくった。そこには、安寿の姿がペンで描かれていた。
航志朗は子どもの頃「絵を描くのが好き」と感じる前に、自分の絵を母と寄ってたかって来た他人につぶされてしまった。航志朗は幼い頃から、自ずと毎日絵を描いていた。一人っ子で遊び相手がいなかったし、画家の父の後ろ姿を見ていたからかもしれない。そして、家の外で航志朗が絵を描くと、周りにいた大人たちも子どもたちも、誰もが驚いた。「すごい」とか「天才だ」とか、さんざん言われた。航志朗自身は、他人が勝手にほめてくることが面倒でたまらなかった。やがて母に連れられて、著名な画家たちのもとに通った。はじめのうちは、家に不在のことが多かった母と出かけられることが嬉しかった。だが、次第に画家たちの目的は母と会うことで、自分に絵を教えるのはただの手段だということがわかってしまった。ある日、新進気鋭の画家のアトリエで、若い画家からフルーツの静物画を描くようにと言われた通りにしていたら、ふと母も画家もアトリエからいなくなったことに気がついた。航志朗は急に不安になり母を探しに出たら、暗い部屋で母とその画家が抱き合っている現場を目撃した。航志朗は誰にもそのことを言えなかった。真っ黒な罪悪感に取り込まれ、次第に航志朗は絵を描くことができなくなった。
航志朗は目を開けた。いつの間にか黒革の手帳を抱えながらソファで寝入ってしまった。スマートフォンを見ると、午後二時を回っている。航志朗は伊藤が用意しておいてくれた冷凍うどんをレンジアップしてめんつゆをかけて食べてから、地下鉄の駅に足早に向かった。
外は雨が降り続いていた。今朝よりも雨足は強くなっているが、南国のスコールよりはましだ。航志朗は人もまばらな通りを傘をさしながら歩き、黒川画廊に到着した。画廊のエントランスでは伊藤が待ち構えていて、タオルを航志朗に手渡した。
「航志朗坊っちゃん、おかえりなさいませ。地下鉄でいらっしゃったのですね。機内では、よく眠れましたか?」
航志朗は伊藤にうなずいて礼を言った。
「華鶴奥さまが、四階でお待ちです」。伊藤は目を伏せて言った。
航志朗は画廊の階段を上がった。今日の航志朗は普段通りに冷静沈着でいる。四階のオフィスのソファには十か月前と同じように華鶴が座っていた。華鶴の目の前のローテーブルにはアタッシェケースが横たわり、その上には小さな鍵が二つ置かれていた。
航志朗は華鶴にあいさつもせず、小さな鍵をジャケットの内ポケットに入れてアタッシェケースを持ち上げた。そして、「あとはお任せください」と事務的に言ってきびすを返し、階段に向かった。
「くれぐれも雨に濡らさないようにね」
無表情の華鶴は航志朗の後ろ姿に静かに言った。
一階に下りると、伊藤が穏やかな笑顔で航志朗を迎えた。伊藤は、航志朗と華鶴の親子関係のすべてを承知している。
「航志朗坊っちゃん、お気をつけていってらっしゃいませ。ニースは、きっと美しい街なのでしょうね。それから本日のお夕食です」と伊藤は言って、見覚えのある風呂敷包みを渡した。航志朗は、安寿が車の中で咲の手料理を食べさせてくれた甘いひとときを思い出した。伊藤がタクシーを呼び、航志朗はアタッシェケースと風呂敷包みを抱えて帰途に着いた。
「安寿?」
星野蒼が小雨が降る窓の外をぼんやりと眺めている安寿に声をかけた。
清華美術大学付属高校の美術室で、二年生の生徒たちが石膏像を囲みデッサンをしている。
「どうした? ぼーっとして」
「ううん、なんでもない。ちょっと疲れちゃった」。我に返った安寿は、木炭を握り直してデッサンを続けた。安寿の指先は真っ黒だ。
「僕も疲れた。僕、もう飽きた。石膏デッサン、ものすごく退屈だ」。うんざりしたように首を左右に振りながら、宇田川大翔が言った。大翔の隣にいる原山莉子が肩を震わせて笑った。莉子は石膏デッサンが得意で、大翔の言う莉子の「はんなりとしたたたずまい」からは想像もできないようなダイナミックなミケランジェロ像をさくさくと描いている。
窓の外に見える校庭を取り囲む樹々が灰色にけぶっている。安寿は、ふと航志朗のことを思い出した。
(あのひと、どうしているのかな? あの絵を、本当にまた見てくれるのかな?)
岸家の裏の森を描いた絵は額装して、今、安寿の部屋に飾ってある。あの絵は、昨年の秋に開催された学内展覧会で、校長特別賞を授与された。それを聞いた恵と華鶴はとても喜んだが、当の安寿本人はいまだに信じられない。そして、その絵の隣にはデルフトブルーのタイルが置かれている。
マンションに戻った航志朗は、とりあえず風呂敷包みをほどいて重箱を開け、中に詰められていたおにぎりを一つほおばった。おにぎりには梅干しと醤油で和えた鰹節が入っていて、懐かしい味がした。それから、航志朗はノートパソコンを開けて仕事をし始めた。やがてひと息つくと、横目で部屋のすみに置いたアタッシェケースを見た。ずっと航志朗は思い惑っていた。
(俺はあの中身が見たいのか。見てしまってもいいのか。……理性を保てるのか)
ついに航志朗はアタッシェケースに手を伸ばした。そして鍵を開けて、ふたをそっと開けた。航志朗の手は震えた。やっとの思いで、航志朗は黄金布に丁寧に包まれた額とスケッチブックを取り出した。
胸がどくんと重く鳴った。一瞬で航志朗の目は釘づけになった。額には安寿の素描が入っている。航志朗が父のアトリエで初めて見た安寿の姿だ。絵のなかの安寿は横向きに寝そべりながら、目を開けてこちらを見ている。その穢れを知らない強いまなざしに射抜かれて、航志朗は息ができない。鉛筆だけで描かれたデッサンだというのに、航志朗はその迫力に圧倒された。
(なんなんだ、これは……)
航志朗は震える自分の手に白手袋をはめて、スケッチブックをめくった。一ページ、一ページと、そこに描かれた安寿を目に焼きつけた。次から次へと初めて見る安寿の姿が現れる。制服姿で正面を向いてすまし顔でカウチソファに座っていたり、頬杖をついてうつむく横顔だったり、遠くを眺めるような後ろ姿だったり。だんだん息が苦しくなってきて、航志朗はいったん手を止めた。そして何回も深呼吸をした。航志朗はまたスケッチブックをめくった。恥ずかしそうに微笑んでいる安寿に、ぼんやりと何かを考えている安寿が現れる。ラフに描かれてはいるが、どれも航志朗の知らない安寿の姿だ。そしてある事実に気づき、航志朗の心は激しくかき乱された。
(これが、父が見たモデルの彼女。……なんて無防備な姿なんだ)
突然、航志朗に大きな不安が襲ってきた。その不安の原因を渾身の力で航志朗は考えた。
(そうだ。彼女はプロのモデルではない。モデルが自分を守らないで他人の目にさらされることが、どんなに危険なことなのか、彼女はわかっていない)
どうにかして、それを安寿に伝えなければと航志朗は考えた。真っ暗な闇から安寿を守ることは自分にしかできないと心の底から思う。狂おしいほどに。
白い月が早朝の空に浮かんでいる。頭をもたげる直前の太陽が描く赤とオレンジ色のグラデーションが美しい。時刻は午前六時前。航志朗は安寿の住む団地の入口から少し離れたところに車を止め、車の外に出て腕を組んで車に寄りかかっていた。安寿が団地から出てくるのを待っているのだ。安寿の高校の名前を調べるのは簡単だった。美術大学の付属高校は都内でも数校しかない。安寿が着ていた制服から、それが清華美術大学付属高校だとすぐにわかった。そして、航志朗はその高校が母の出身校だということを思い出して嫌悪感を持った。
しばらく待つと航志朗は、(俺は、まるでストーカーだな……)と自嘲したい気分になってきた。約束をしていないというのに、ここで安寿と再会することができるのだろうか。しかし、航志朗には確信があった。
(三人の預言者に導かれ、今、俺はここにいる。……たぶん)
だんだん人通りが増えてきた。眠そうな目をこすりながらあわただしく出かけていくサラリーマンや学生たち、大泣きの幼い子どもの手を引いて歩くスーツ姿の若い母親。この国の朝の日常の風景がそこにある。午前七時半を過ぎると、航志朗はだんだん心配になってきた。
(彼女の家から学校までの電車での所要時間を考えると、そろそろ出かけないと始業時間に間に合わないんじゃないか? もしかして、俺は、彼女とすれ違ってしまったのか)
その時、安寿は珍しく寝坊して、あわてて制服に着替えていた。こともあろうにその朝に限って、恵は仕事が立て込んでいて、始発に乗って出版社に出かけていた。朝食を食べる時間はない。安寿は大きなキャンバスが入った黒いナイロンバッグを持って家を出た。大きな荷物は朝の満員電車では迷惑になるので、いつもキャンバスを学校に持って行く日は、早めに出かけている。今朝もそのつもりだったのだが、昨夜は、なぜだか眠くて仕方がなかった。午前六時に目覚まし時計が鳴ったような気がする。たぶん、二度寝をしてしまったのだ。そう、なんだか楽しい夢を見ていた。でも残念なことに、どんな夢だったかまったく覚えていない。
安寿はエレベーターには乗らずに、かけ足で団地の外階段を降りて走り出した。出がけに鏡を見たら後ろ髪がはねていたが、当然ドライヤーで直す時間はなかった。
息を切らせて団地の入口を出た時だった。突然、安寿は自分の名前を呼ぶ声を聞いた。聞き覚えのある声だ。
「安寿さん!」
その声に振り向くと、あの男が立っていた。
「……岸さん?」
あわてて安寿は後ろ髪を手で押さえた。
航志朗は安寿に近づくとキャンバスバッグをそっと安寿の肩から外して、自分の肩に掛けた。安寿は、突然目の前に現れた航志朗に驚いて声も出ない。航志朗はその琥珀色の瞳で安寿を正面から見下ろした。また安寿は航志朗の透き通った力強いまなざしにとらえられてしまった。
(岸先生と同じ色の瞳だけど、このひとの瞳は、……ちょっと怖い)
航志朗は、まっすぐ安寿を見つめて言った。
「君に話がある。俺が君を学校まで車で送るから、その間に話そう」。航志朗は助手席のドアを開けて安寿を車に乗せた。安寿は何も言い出せずに、航志朗の言うがままに助手席に座った。そして航志朗は車を発進させた。
「学校の始業時間は、何時なんだ?」
安寿は腕時計を見て言った。
「ええと……、八時四十分です」
航志朗は、カーナビゲーションを慣れた手つきで操作した。
「まあ、ぎりぎりセーフで到着できるだろう」
いつもとは違う朝の風景を安寿は不思議に思った。夢の続きを見ているみたいだ。航志朗は、安寿が落ち着いてきたのを見はからってから言った。「ずいぶん急いでいたけど、朝寝坊でもしたのか」。図星だ。安寿は顔を赤くしてうなずいた。「もしかして、朝食、食べてないとか」。また安寿はうなずいた。「これ、食べるか? 俺の食べ残しだけど」と言って、航志朗はクラッカーの箱を安寿に手渡した。安寿が躊躇していると、航志朗はくすっと笑いながら言った。「いいよ、遠慮しなくて」。安寿は「すいません、いただきます」と小さな声で言ってクラッカーを口にした。だが、クラッカーのかけらがのどに引っかかり、安寿は咳こんでしまった。その姿を横目で見た航志朗は、「コーヒーが入ってる」と言いながら、ステンレスボトルを安寿に手渡した。ステンレスボトルは直飲みだ。安寿は一瞬戸惑ったが仕方がない。口をつけて飲んだ。ものすごく苦い。顔をしかめて仏頂面になった安寿を見て、苦笑いしながら航志朗が訊いた。「君、コーヒー、苦手?」。すんなりと安寿はうなずいた。
航志朗は前を向いてなにげなく言った。
「俺はこれから昼すぎの便でフランスに行ってくる。母から聞いているだろ? 君がモデルになった絵を顧客に手渡しに行く」
「今日だったんですか! 成田空港に行くんですよね。今から間に合うんですか?」
航志朗はこともなげに言った。
「ぎりぎり大丈夫だろう。まあ、俺は慣れているから、心配するな」
安寿は海外に行ったことはないし、飛行機にすら乗ったことがない。(このひととは、本当に住む世界が違う……)と安寿は心の底から思った。
航志朗は、今、安寿が自分の隣に座っていることに胸が高鳴ってどうしようもなかった。だが、わざと安寿に素っ気ない態度を取ってしまう。本当に大人げないと航志朗は胸の内で思った。
予想していたよりも道は順調に流れている。始業時間には間に合うだろう。
航志朗は息を整えてから本題に入った。
「父の絵を見せてもらったよ。美しいデッサンだ。そして、相当な高値がついた」
安寿は何も言えなかった。安寿には絵の市場価値がまったくわからない。
「だが、気になることがある」。急に強い口調になって航志朗が言った。
「え?」。安寿は胸がどきっとした。
(……どういうことなの?)
「君は、素の自分を画家にさらけ出している。そして画家は、素の君を描く。描かれた素の君は、君の知らない誰かに絵画として所有される」
安寿は、航志朗が言おうとしていることがまったくわからない。そっとうかがう航志朗の横顔は、冷たく険しい顔をしている。
「それは、君にとって本当に危険なことだ。君は、他人に間接的に所有されているという自覚のないまま、少しずつ、その他人に君の生力が奪われていくことになる。だから、君は自分で自分自身を守らなければならない」
その航志朗の言葉に、安寿はだんだん恐怖を感じてきた。
「あの、『生力』ってなんですか?」
「人の核にある生きる力だ」
(怖い……。でも、どうすればいいのか、私には全然わからない)
安寿はやっとの思いで航志朗に尋ねた。
「どうやって、自分自身を守ればいいんですか?」。安寿の声は震えている。
航志朗は自分の言葉が安寿を怖がらせていることに気づいた。そして赤信号で停車すると、意図的に航志朗は微笑んで、安寿と軽く視線を合わせた。安寿は、航志朗の落ち着いたまなざしに恐怖にとらわれた気持ちがほぐれてきた。少しゆっくりとした口調を意識して航志朗が言った。
「そうだな。君の目は画家を見ていても、君の心は画家からずらすといい」
「……ずらす?」
「そう。シンプルに何か別のことを考えるんだ。例えば、君の好きなこととか、わくわくすることとか、今日の咲さんの手作りおやつは何かな……、とか」
それを聞いた安寿はくすっと笑って思った。(確かに、私は、毎回、咲さんのおやつを楽しみにしている)
安寿の可愛らしい微笑みを見て、航志朗は前を見ながら表情をゆるませた。
「そんなことでいいんですか?」
「ああ。とにかく、画家に素の自分を無防備にさらけ出すな。わかったな?」
「はい、わかりました。覚えておきます。あの、岸さん、いろいろありがとうございます」。素直に安寿は頭を下げた。
航志朗は、心のなかで切なくつぶやいた。
(本当は、俺のことを考えろ。……なんて言いたいけどな)
安寿の高校の近くまで来た。さすがに校門の前で降ろすのはまずいだろうと航志朗は判断して、少し離れたところに車を停めた。まだ始業時間まで十分ほどある。
「間に合ったな。ん? 安寿さん、クラッカーがついてる。ちょっと、失礼」と航志朗は言うと安寿に顔を寄せて、安寿の口元についているクラッカーのかけらをつまんで取った。安寿は航志朗の顔が急に近づき、航志朗の冷たい指先が口元に触れて胸がどきっとした。恥ずかしさで顔が真っ赤になる。このひとの前では私は小さな子どもみたいだと、安寿は自分が情けなくなった。
「岸さん、送ってくださってありがとうございました。とても助かりました。あの、フランスにお気をつけていってらっしゃってください」と安寿は失礼のないように気をつけながら礼を言って車を降りた。そして一度振り返って深々とお辞儀をすると、安寿は航志朗の前から走り去って行った。
車の中に一人残された航志朗はため息をついて、思わず助手席に手を触れた。そこには、まだ安寿の温もりが残っていた。つかの間の安寿との再会の時間だった。
「さて、俺も行くか」と自分をふるい立たせるように航志朗はつぶやいて、ステンレスボトルのコーヒーをひと口飲んだ。ボトルの飲み口を見て、思わず航志朗は人知れず顔を赤らめた。そして振り返って、後部座席に置いてあるアタッシェケースを見つめた。航志朗はアクセルを踏んで車を成田空港に向けて発進させた。
(……安寿?)
ちょうどそこへ通りかかった蒼が、車の中にいる安寿を見つけた。すぐに安寿は車の外に出て校門に向かって走って行った。
顔色を変えて蒼はその場に立ちつくした。車の中で、運転席に座った男と安寿がキスしていたように蒼には見えた。
その時、高校の始業時間を知らせるチャイムが鳴った。
航志朗は成田空港に着いてからビジネスクラスのラウンジでひと息つくと、スマートフォンを繰って伊藤に電話した。
「伊藤さん、今、成田にいます。お手数をおかけして申しわけありませんが、空港の駐車場に停めてある車を戻しておいてもらえますか」
「かしこまりました。航志朗坊っちゃん、安寿さまに会いに行かれたのですね?」
思わず航志朗はうろたえた。
(……どうしてわかるんだ?)
「航志朗坊っちゃん、僭越ながら申しあげます。安寿さまは、まだ高校生です。それに、とても純粋なお心をお持ちの大事なお嬢さまです。生半可なお気持ちで安寿さまにお近づきになられないようにお願いいたします」
率直に航志朗は驚いた。伊藤が航志朗に苦言を呈したことは、今まで一度もなかったと記憶する。
「……わかりました。では、いってきます」
「いってらっしゃいませ。航志朗坊っちゃん、お気をつけて」
航志朗は搭乗ゲートを通りボーディング・ブリッジを歩きながら、ふとガラス窓を見た。あまり清掃が行き届いていないらしく、それは埃っぽく汚れていた。窓の外は曇り空が広がっている。航志朗はそのグレイッシュな揺らぎを見て、やけに胸が騒めいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます