第32話 海の悪魔の地獄鍋
ヒンメルさんの後を追いかけると、昨晩夢で見た立派な木製の船が見えて来て、やはりあれは夢でなく事実だったのだと思う。
だが、それをエレナに質問したところで絶対に認めないだろうし、彼女が銀の賢者であることは俺たちだけの秘密なのだから言わぬが花だろう。
そんなことより船上でご飯を食べるのかな? と思っていると、船室から手に調理道具を持ったタラサさんとマリナちゃんが現れる。
「ようこそハルトさん、エレナちゃん。今日はとっておきの料理を食べて下さいね」
「お願いします……あっ、手伝いますよ」
「フフッ、大丈夫よ。これくらい朝飯前なんだから」
ニコリと笑ったタラサさんは「よいしょ」と声をかけながら巨大なホーロー鍋を船から降ろすと、石を積んで作られた竈の上に乗せる。
マリナちゃんが竈に火を点けている間に、タラサさんは二つのタマネギの皮を剥き、鍋の上で器用に切って油を入れて炒めていく。
一方、ヒンメルさんは一抱えもあったカイナッツナの切り身をぶつ切りにしてひと口大にして塩コショウを振り、続いてジャガイモを手にして次々と皮を剥いていく。
どうやら夫婦で完全に役割分担が決まっているようだ。
俺はジュージューと音を立ててタマネギを炒めていくタラサさんの様子を見ながら、ジャガイモをぶつ切りにしているヒンメルさんに話しかける。
「ヒンメルさん、今から作る料理には名前はあるのですか?」
「ありますよ」
俺の質問に、ヒンメルさんはニヤリと笑ってその名を告げる。
「今から作るのはヘレデヴォルと言う料理です。別名『海の悪魔の地獄鍋』です」
「これはまた物騒な名前ですね」
「ハハハ、誰が呼び出したのかは知りませんけどね。ただ、海の悪魔と呼ばれるカイナッツナを使うこと、見た目が地獄を連想させるからそう呼ばれるようになったと言われています」
「なるほど……」
地獄を連想させるというのが一体どういうことなのかわからないが、名前からしてきっとワイルドな料理なのだろうと思った。
その間もタラサさんはタマネギを弱火で丁寧に炒め続け、ジャガイモをぶつ切りにしたヒンメルさんは、続いてニンニク、ピーマン、パプリカ、鷹の爪をみじん切りにしていく。
木べらを動かし続け、タマネギに火が通って透明になったところで、タラサさんがヒンメルさんに声をかける。
「あなた」
「はいよ」
阿吽の呼吸で野菜を受け取ったタラサさんがさらに炒めていくと、ヒンメルさんは船に乗って中から複数の瓶を取り出しくる。
野菜にある程度火が通ったところで、ヒンメルさんは瓶の栓を抜き、中身をドバドバと鍋に注いでいく。
一体何だろうと思わず身を乗り出すと、ヒンメルさんは苦笑しながら手にしている二本の瓶を掲げて見せてくれる。
「これは水です。船の上で真水を得るのは難しいですから、こうして瓶に入れておくんです」
「なるほど……」
船上で暮らす人たちの知恵に感心していると、ヒンメルさんは鍋の中に三本目の瓶に入った水と白ワインを入れ、ローリエを入れて煮立たせたところである物を取り出す。
「あっ……」
瓶に入った水色の粒コショウのようなものを見て、俺は思わず声を上げる。
「それは、マリーゼですね?」
「ええ、そうです。よくご存知ですね」
「それはもう……生で食べましたから」
「ええっ!?」
ヒンメルさんは信じられないと目を見開くが、すぐに何かを察したかのように苦笑する。
「あの店主に騙されたんですね?」
「え、ええ……」
どうやらあの店主のイタズラ癖は、街の人たちの間では有名なようだ。
ヒンメルさんは「ご愁傷様」といった可哀想な目で俺を見ると、瓶の中にある大量のマリーゼをザラザラと鍋の中に入れる。
「えっ?」
たった一粒で衝撃的な辛さを味わった俺としては、ヒンメルさんの豪快さに思わず目を剥く。
「そ、そんなに入れるんですか?」
「ええ、これはそのまま食べるととんでもなく辛いですが、火を通すと苦味が消えて塩気も大分治まりますから」
「そういえば……そんなことを言ってたような気もしますね」
マリーゼの値段は特別高いものでもなかったので、一瓶ぐらい使ってもたいした出費ではないだろうが……本当に大丈夫だろうか?
といっても正式なマリーゼの使い方を知らないので、このまま推移を見守ることにする。
続いてタラサさんがトマトを取り出すと、へたを取って手で潰しながら鍋の中へと入れていく。
「ああ、そういうことか」
そこで俺は、この鍋が地獄鍋と呼ばれる理由を理解する。
トマトを入れたスープはみるみる赤くなり、コポコポと煮立つ様は、日本人なら地獄にあるという『血の池地獄』を連想するだろう。
果たしてこの世界に、俺が知っている血の池地獄と同じものがあるのかはわからないが、何処の世界でも描かれる地獄はそう変わらないのかもしれない。
「う~ん、いい香りじゃのう」
タラサさんが赤くなったスープに次々とカイナッツナの切り身を入れていくと、エレナが鼻をヒクヒク動かしてスープの匂いを嗅ぐ。
「昨日、ハルトが作ったパエリアとはまた違う、海の深い香りじゃ」
「本当だね。まるで上等なフュメ・ド・ポワソンみたいだな」
「なんじゃその、フュメ・ド・ポワソンとは?」
「一言で言うと、魚と香味野菜で取った出汁だよ」
興味津々といった様子のエレナに、俺は出汁の取り方について簡単に説明していく。
フュメ・ド・ポワソンの説明をしている間に十分に煮立ったのか、少しとろみがついた赤いスープに塩、コショウを入れて味を調え、最後に酢漬けにしたパプリカを入れてひと煮立ちさせたところでタラサさんがニッコリと笑う。
「さあ、できましたよ。これがヘレデヴォル、海の悪魔の地獄鍋です」
完成した鍋の中を覗き込むと、地獄を連想させるには十分な見事な赤色のスープがおいしそうに煮えていた。
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