魔法少女の夜はふけて、
五芒星
始音:鳴り響く音
1.音を聞く。
教室というのは、放課後の以前と以後とで人口密度が大きく異なる。
チャイムと号令一つで人の流れは外へ──部活、もしくは帰路へ向かうからだ。後に残るのは行動の遅い者か、雑談に興じる者か。女生徒、
「……ふぅ」
そっと、耳栓を外す。朝から耳に突っ込まれていた柔らかな耳栓は、いつもの如く少しだけ湿っている。
途端に、遮断されていた外界からの音が耳を打った。
窓の外の木々のざわめき、教室の隅に纏まった女子生徒たちの雑談内容、校庭で生徒を叱責する部活動顧問の声、階下の職員室にあるコピー機の動作音、そして細かな虫の声。
顔をしかめた空音は、素早く鞄から取り出したヘッドフォンでもって自身の耳を覆った。
途端、世界の音はすべて彼方へ飛び消えてしまう。どぎついまでの強声も、五月蠅いくらいの鬱声も、すべてが平等に。
――音の死だ。
音とは凶器に他ならない。少なくとも
それで精一杯で、それ以上進まず、戻らず、変わらず痛みはそこにあった。
端末を操作すれば甘美な音楽が耳を満たし、雑音の刃から守ってくれる。種類は問わない。適当なクラシックを流すこともあれば、雨の音などの環境音を流すこともあった。ただ、少しでも静かであればよかった。
本当は四六時中ヘッドフォンを身に着けていたい。耳栓は負担が大きいし、不快感も強いからだ。かといって、世間体と校則がそれを許さない。
鞄を持つと、空音は教室をざっと見まわした。隅に集まる女子生徒のうちの一人と目が合った。一瞬交わされた目線はすぐに外され、何事もなかったかのように歓談が再開される。
今から半年ほど前、高校一年生の冬に父が死んだ。
なんてことはない。そのきっかけがすべてをぐずぐずに腐らせただけだ。
むしろ、それでよかったのかもしれない。あのまま
それでも、空音はそこからあらかた立ち直った。日常生活を送れる程度には持ち直したし、変わってしまった生活のすべてを受容して生きることができるようになった。一人きりの時間がそうさせたのか、それとも別の要因なのかは分からない。
教室から出て、階段を降り、そのまま右に曲がれば図書室がある。当初、父を亡くしたばかりの空音はそこにばかり入り浸っていたが、まるで義務であるかのように構おうとしてくる教師が毎日のようにやってくるので、それも辞めてしまった。
代わりに左に曲がり、歩く。
「あ、音無さん」
けれど、左には職員室がある。タイミングが悪いと、こうして部屋から出てきた教師に捕まってしまう。目が合ってしまったので、聞こえないふりもできない。
空音が仕方なくヘッドフォンを外すと、その女性教師は笑顔を浮かべた。
「最近はどう、お友だちと遊んだりとかしてる?」
スクールカウンセラーだか、生活指導だか、どちらかは忘れてしまった。たしかそういった立ち位置の人間だ。スクールカウンセラーと教師を兼任することはないという話を聞いたことがあるのだから、職員室から出てきたことを見るに生活指導なのかもしれない。
彼女はきっと、優しい人なのだろう。こちらを心配してくる目線は本物であるし、事実、そうされるだけの根拠も空音にはある。だが、それが嫌だった。自分が必死に抑え込んでいるなにかが溢れだしそうで怖かった。
腫れ物扱いされ、決して触れられないほうが幾分かマシだった。
「大丈夫です」
明らかに素っ気ない空音の答えに、その教師は困ったように眉を下げた。
「音無さん、最近は一人でいることが多いでしょう? たまにはお友だちと──」
「──あの」
少し、語気を強める。
「大丈夫なので、もう……その、失礼します」
こう言えば、大抵の人間はそれ以上追及してこない。そして、この教師もそんな“大抵の”の例に漏れなかった。
背後でこちらを呼び止める声がしたが、ヘッドフォンからの音を激しいロックへ変えることでそれを塞ぐ。
足早に角を曲がり、もう一度曲がる。そこは校舎の中でも物置やらなんやらが集中するエリアだった。用事でもなければ人は早々立ち寄らないだろうし、あの教師もここまで追ってくることはないだろう。
そして、そんなエリアの最奥にその部屋はあった。
スライドドアを開けると、7月も終わりであるというのに温かなお茶の匂いが広がった。用務員室、空音にとっての第二の城にして、放課後および昼休みにおける安息の地である。
「いらっしゃい空音ちゃん」
「こんにちは」
用務員はとっくに定年を越えているであろう高齢の男性である。
青い上下の作業服こそ目立つが、やることと言えば秋に落ち葉を掃くか、防災倉庫の中身を入れ替える際に助っ人として現れるくらいのものだ。
もちろん裏ではもっと様々な業務に従事しているのであろうが、毎日のように通い詰めている空音でさえそんなイメージしかないのだから、一般の生徒のなかには下手すれば憶えてすらいない者もいるかもしれない。
「お茶、呑む?」
「ありがとうございます。いただきます」
用務員の名前は“高橋”。名札の表記を見ただけなので下の名を空音は知らない。が、その人柄が好ましいものであることは知っていた。温かく、そして踏み込み過ぎない。触れられたくない場所には触れず、執拗に心配をしてくることもない。
「……まだハマってるんですね、このお茶」
「変わった味だけども、なんだか癖になっちゃってねぇ」
そう言いながら、高橋は空音にカップを渡した。
一昨日から彼の中でブームが訪れたらしいそのお茶は少し変わった風味ではあるものの、それは決して不快なものではなかった。不満があるとすれば、到来しつつある夏の暑さと温かいお茶の相性が最悪であることくらいだろう。
「よいしょ……っと、空音ちゃん、悪いんだけどちょっと手伝ってくれるかな」
高橋が戸棚の上にある段ボール箱を指さした。
「喜んで」
「ありがとうね、もう腰が辛くて……」
さしたる会話があるわけではない。世間話でさえ、する機会が多いわけではない。ただ訪れて、お茶を飲んで、時々高橋の作業を手伝う。家に帰りたくない空音にとって、それはとても得難い時間だった。
◇
「気を付けて帰るんだよー」
「はい、お邪魔しました」
頭を下げ、扉を閉める。
用務員室から出ると、いつもの通り時間は18時15分を回ろうとしていた。
部活動参加の生徒も含めた最終下校時刻が18時半なので、そのギリギリを攻めたかたちとなる。
「静か……だな」
今日は活動している部が少ないのか、それとも単に居残りする生徒が少ないのか、校舎はいつも以上の静寂に包まれていた。
静寂は、静寂。しかし、空音には様々な音が聞こえている。
小さな虫の鳴き声、葉と葉が擦れ合う音、そして……
「……?」
それは、奇妙な音だった。今まで空音が耳にしたことのない音。ズルズルと緩慢に、しかし確かに巨大ななにかを引きずるような音だ。
ざわり、とどこかでなにかが鳴った。それが自分自身の心であることに、空音は少し経ってから気づいた。
その奇妙な音は、近づくにつれて更に奇妙さを増していった。不規則な音は風などによって起こされているようではなく、となると生き物か、機械か。
しかし、生き物の出す音だとするならば大きすぎるし、機械だとするならば有機的すぎる。
空音は自身の異常な聴力のことを煩わしく思っていた。聞きたくもない音や声を耳で受け止めて得なことなど一つもない。
だが、同時に、信頼してもいた。少なくとも、これまで自身の耳によって捉えられた音が気のせいであったことはない。
音が近づくにつれ、空音の内で鳴っていた心が完全な胸騒ぎへと変わった。引きずる音に混じって、声が聞こえてきたのだ。
「なん、なんだ、これ」
うめき声だ。僅かに助けを求めているであろう声も。しかしそれらは次々と消えていく。そう、引きずる音と共に。
足を止めるべきであるという確信があった。同時に、胸の奥でなにかが決壊を始めているということも。
どうすればいいのか分からないまま、ただ音が聞こえるほうへ進んで、進んで──
「う──」
──空音が見たのは、血だった。昇降口と階段を繋ぐ空間にべったりと血が広がっている。“流れた”のでなく、“飛散った”という表現が相応しい広がり方だ。
思わず、空音はその場で一歩下がった。
それは明らかな非日常の象徴。痛いくらいに心臓が鼓動を刻み、脳が訴えかける。“逃げろ”と。
「今すぐ走って……逃げて、警察を……」
だが、どこで、どこかが。
もしかして、だれかが。
「……ざけんな」
小さく呟いて、空音は血だまりを避けると階段へ向かった。血の跡はなにかが引きずられるように2階へ続いている。足は、勝手に段を昇った。
音が聞こえた。ぐちゃぐちゃと、なにか粘着質なにかをかき回す音。ぽたぽたと液体が垂れる音。もう悲鳴は聞こえないが、代わりに押し殺すような嗚咽が聞こえた。
初めに認識したのは、死体だった。
服装からして野球部の生徒だろう。その身体はぷらんと、垂れ下がっていた。
巨大だ。廊下丸々を塞ぐほどの巨体。汚れ、爛れ、皺が多い皮膚によっておおわれた球体。その球体の周囲からは何本もの触手が生え、うねうねと蠢いていた。野球部の生徒だったものは、そんな球体の正面──空音から見れば正面だが、恐らくは背後なのだろう──の中心から、まるで抜け殻のようにぶら下がっていたのだ。
足音によって気づいたのか、その巨大な球体はゆっくりとその場で回転し、空音のほうへ振り返った。
巨大なたった一つの眼球が空音の全身を見返した。
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