第6話 失恋

 今にも怖気付いてしまいそうな自分を鼓舞するよう、グッと拳を握りしめ、喉をこじ開ける。


「ずっと……言えなくて……本当のことを言う勇気も、自信もなくて……でも、それじゃだめなんだ、てやっと目が覚めました。僕は本当に深織さんのことが好きだから――だからこそ、本当のことを言わなきゃ、て……!」

『もういいです』


 か細い声が聞こえた。疲れ果てたような……今にも消え入りそうな声だった。


「え……」と思わず、呆けた声が漏れていた。

『もういいです……』と幻聴にさえ思えたその言葉を深織は繰り返した。『もう……聞きたくない。もう惑わされたくないです』

「は……え……」

『稲見さんのこと……私、ずっと信じていました。――でも……全部、嘘だったんですね』


 ガン、と思い切り頭部を殴られたような……そんな衝撃を覚えた。

 目の前が真っ暗になって、自分がどこにいるのかも分からなくなった。方向感覚さえ無くなって、まるで宇宙空間に追い出されたような感覚になる。

 全部、嘘……? 何が? いや、『何が』じゃないだろう。自分だ。自分の全て。『稲見恭也』の名前も年齢も学歴も……全部、嘘だった――それがバレてしまった、ということ。

 でも、なぜ……? いつ? どうやって……?

 混乱し、渦巻く感情を言葉にする余裕もなく、ただ、その渦に翻弄されるように愕然とする眞彦。

 そうしている間にも、時間も深織も待ってくれるわけはなく、


『稲見さんは……私が思っていたような人ではなかったんですね』


 ゾッと背筋が凍りつき、眞彦は我に返った。 


「深織さん、なんで……いや、それより……待ってください! せめて、話を……」

『聞きたくありません!』


 勢いのままに――、縋り付くように――、捲し立てた眞彦の言葉を、ピシャリと深織は一蹴し、


『もう二度と、稲見さんと話したくないです。会う気もありません。だから、もう連絡してこないでください!』


 聞いたことのない、切羽詰まった深織の悲痛な声だった。

 その声を最後に、シンと辺りは何事もなかったかのように夜の静寂を取り戻す。


 あれ……と呆然とする。

 何が起きたのだろう。

 

 黙り込むスマホを耳に当てたまま下ろすことも忘れて眞彦は立ち尽くす。


 寒々と頬に突き刺さるような風が吹き込んできて、これが夢ではないことを眞彦に思い知らせるようだった。


 理由は分からない。きっかけも経緯もおよそ想像もつかない。だが、確実に深織は知ってしまったのだ。自分が明かすより先に……。自分が偽物だということ。深織が思っていたような――将来有望のエリート医学生、『稲見恭也』などではないこと。

 そして……。


 ――もう連絡してこないでください!


 その痛々しい声がまだ耳に残っているようだった。

 もう終わったのだ、と悟る。謝罪はもちろん、稲見眞彦としてなんの気持ちも告げられぬまま……。


 因果応報。自業自得。身から出た錆。

 戒めの言葉はいくらでも思い浮かぶが……その中で、今、一番、眞彦の中でしっくりときて、最も胸に突き刺さるのは――『失恋』だと思った。


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