第13話 誘い

「は……い?」


 デート……と言っただろうか。

 ひどく懐かしい響きに思えた。もはや、他人事のような……。

 しばらく呆然としてから、深織はハッと我に返って、

 

「あの……突然、何をおっしゃっているのか……」

「タイプなんじゃないかな、て思うんですよね」と男性は白々しくも思える演技じみた口ぶりで言って、「一応、帝南大医学部三年。優良株、てやつですかね」

「帝南大の……医学部? じゃあ、稲見さんと同じ……」


 思わず呟いてから、深織は慌てて口を噤んだ。しかし、


「稲見……稲見恭也……?」

「――知ってるんですか!?」

「どうですかね……」


 何か含みを持たせたように言ってから、男性は黒縁眼鏡のレンズの奥から深織を真っ直ぐに見据え、


「ちなみに、どんな人ですか?」

「どんな……」


 思わぬ問いに、深織は口ごもった。

 どんな人……? どんな人――だったのだろうか。

 今となっては、もはや他人と言えるのかもしれない。住所も電話番号も知ってはいても、二度と連絡を取ることのない相手。でも、ほんの少し前までは『恋人』と呼ぶべき存在で、確かに、大好きになったはずの人。思い出そうとすれば、いとも簡単にその笑みが脳裏に浮かぶ。心をくすぐるその声がまだ鼓膜に残っている気がする。

 それなのに――。


「分からない……です」


 深織は視線を落とし、鳩尾の前で組んだ両手をギュッと握りしめる。


「『分からない』?」


 それが正直な答えだった。


 ただ、分からない――。


 自分が好きになった相手は誰だったのだろう? 思い出に残る、あの日々を共に過ごした彼はなんだったのだろう?


 ――今、俺が好きなのは深織ちゃんだ。深織ちゃんだけなんだ。


 そう熱く語ってくれた彼の言葉が嘘だった、と分かった今、何を信じればいいのか……。彼の言葉だけを信じていればいいんだ、と覚悟を決めて恋に落ちたのに。


 ――私……は、恭也のカノジョ。本命、てやつかな。


 瞼を閉じれば、まざまざと思い浮かんでしまう。クリスマスイブの夜、彼の部屋から現れた彼女――『本命』と名乗った女性の姿が。その声が、一度は彼に捧げた心を何度でもずたずたに切り刻むようで。

 きゅっと堪えるように唇を引き結んでから、深織は押し黙った。

 静まり返った店内にジャズの音色がしっとりと流れていた。ややあってから、そのメロディーに紛れ込むように、


「知りたいですか?」

「え……」


 目を見開き、視線を上げた先で、男性はおもむろに立ち上がった。


「隣のハンバーガー屋で待ってます。そこでゆっくり話しましょう」

「話すって……」

「本当の稲見恭弥のこと、教えますよ。僕の知っている限りでよければ」


 眼差しは真剣に、口許だけに笑みを浮かべているような……そんな表情を浮かべてそう言い残し、男性は荷物を手にカフェを出て行った。

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