8月25日
快速電車で二駅。静那の家を訪ねるのはずいぶん久しぶりだった。
小さな庭付きの二階建ての家。ポストにピンク色の縄跳びがくくりつけてある。その傍には色あせた水色のキックボードが佇んでいる。
なぜか少しためらいながら、インターフォンを鳴らす。
「はい」
「ひかるです」
「ああ、ひかるちゃん」
友香さんの声だ。
「静那に会いに来ました」
少しの間があった。思わず首をひねったとき、玄関の扉が開いた。
「友香さん」
「いらっしゃい。ひかるちゃん」
「おじゃましても、いいですか」
「もちろんよ。ただ」
友香さんは目を伏せて、小さく言う。
「今日は、目を覚ましていないの」
和室の布団の上で、静那は眠っていた。
静那の部屋は二階にあったはずだけれど、二階から持ってきたのだろうか。まわりには、静那が好きだったぬいぐるみたちが置かれている。白雪姫と小人たちのようだった。
「静那はね、布団が好きなの」
唐突に友香さんは言った。
「一人部屋あげたときに、ベッド買ってあげたんだけど、結局床で寝ててね。ベッドで寝なさいって言っても聞かなかった」
「静那らしいですね」
友香さんはクスクスと笑った。
「ほんとにね、可愛い娘よ」
眠る静那は、すうすうと息を続けている。
「薬、なにも飲んでないんですか」
「鎮痛剤だけ。喉がふくれちゃったり、お腹がキリキリしたり、節々が痛んだりするらしくて」
寒気がする。私に笑顔を向ける一方で、彼女はたくさんの痛みに苦しんでいたのだ。
「あ……う、とう、さん」
静那の呼吸が荒くなる。
「静那……」
「ときどき、寝言を言うの」
「あっ……あぅ……」
静那は苦しげにうめく。
「静那……」
ふと、ゆるり瞳が開いた。
「……静那」
「……」
静那は私を見上げた。
「あ……つ……ひ、……」
「静、那?」
「ああ……」
友香さんを向くと、彼女は小さく首を横に振った。
こんなにも短時間で、人は衰弱するのだろうか。
唖然とする私の服の裾が、握られていた。
「静那……」
「……ひ……」
彼女の唇の端が浮き上がる。笑っていた。彼女は、幸せそうに。
「静那」
「あぁ……」
静那はちょんちょんと私の服の裾を軽く、ほんとうに軽く引っ張った。
身体を寄せる。それでもなお引っ張るので、もっと近づいて、ついには口元に耳を寄せた。
吐息が漏れる音。しかし、その音はたしかに言葉を紡いだ。
――来て、くれ、たんだ。
「あたりまえでしょ」
—うれしい、な。
「毎日来るって、いったじゃん」
――へへへ。
「もう。信じてよね」
―—信じる、よ。ひかる、の、こと、誰、より、も。
「うん」
静那は、また眠ってしまった。今度は、裾を掴んだままだ。
「静那は、にぎやかな、子ですね。ほんとに」
「そうね」
「もう」
私は、静那の額に、自分の額を当てた。温度が伝わってくる。吐息が鼻先をくすぐる。生きている、と感じた。
この日、静那は目を覚まさなかった。それでも、穏やかに眠っている彼女を見て安堵した。
けれど、時折もらす寝言は本当に苦しそうで、その安堵を覆い隠すように暗雲が立ち込めていた。
「ひかるちゃん。しばらく、泊まっていかない?」
「え?」
「静那の部屋、使っていいから、どう?」
「で、でも、迷惑じゃ」
「いいの。ひかるちゃんさえ、よければ」
友香さんはやんわりと微笑んだ。静那はどう思うのだろう。静那はなにも応えず眠っていた。
「……母に、聞いてみます」
昔の、お泊りのときのような雰囲気に、少しだけ戸惑う。あのときとは、何もかもが変わってしまったのに。
それから、一週間。私は床梨家の居候になった。
ベッドに横たわる。静那があまり使わなかったというベッドは、どこか新品の匂いが残っている気がした。
「静那……」
静那の部屋には、思ったより本があった。写真立てにはウルルのジグソーパズルが、隣には、体育祭のときに撮った写真が飾られている。日焼けして、鉢巻をバンダナのように巻いている静那。そうだ。このとき、喉を嗄らして天龍源一郎みたいになっていたんだ。
「もう歌えない……」
そう言って泣いた静那は、ほんとうにおもしろかった。
「笑い事じゃない!」
「だって、声が……」
「本気で応援した人のこと笑わないでほしい」
「そこに笑ってるんじゃないの」
「もう」
三日ほどできれいな静那の声は戻ってきた。
写真をよく見る。静那は誰かの手を握っている。色の白い手。私の手だ。私の手を、握ってくれた。引っ張ってくれた。こうやって、私は誰かとともにいる温かさを知っていった。小学生以来失っていた感情を取り戻したのだ。だったら私ができることは一つだろう。
最後まで手を離さないこと。静那の傍にいるんだ。結末はわかりきっているけれど、目をそらさずに、私は静那の傍にいる。改めて、私は決意した。窓の外、上弦の月が、私を見下ろしていた。
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