8月24日 前編

「行ってきます」

「ひかる」

「なに?」

「……気を付けて帰ってくるのよ」

 母はお腹の前で、祈るように手を組んでいた。

 私はくすりと笑った。

「大げさだよ。お母さん」

 母は一つ息を吸い込んだ。

「そうね」

 悲しげに笑んだ母の表情。そういえば、上京するときもこんな表情をしていた。



 昨夜から降り続いた雨は、強さを増し、ざあざあと降っている。

 バスに乗り込んで目を閉じると、そういえばこんな雨の日に二人きりで歩いた日があったと思い出す。

「静那、風邪ひくよ」

「いいのいいの! ひかるもこっちおいでよ」

 積乱雲が頭上にのしかかり、大雨が降った夏の日のことだ。

 高校の昇降口で、雨が止むまで待とうと言った私と、いいじゃんいいじゃんと笑う彼女。

「そんなびしょ濡れになっちゃだめだよ!」

「気持ちいいよ!」

「あっ、ちょっと!」

 手を引っ張られて、静那と雨の下、二人踊る。

 ブラウスを瞬く間に濡らしていく。

「わあぁ……もうびちょびちょだよもう……」

「生きてるって気がする!」

 静那は私の手を掴んだまま手を挙げた。

「生きてる?」

「うん。五感ですべてを感じてる」

「五感……」

 たしかに、雨のしずくが降り注ぐのを見て、肌を打つ感覚を楽しみ、地を打つ音を楽しみ、独特の香りを心地よく吸い込む。生を実感するには、ちょうどいいかもしれない。

「いつまでもやまなきゃいいのに」

「私は、晴れの日の方が好きだけどなぁ」

 暗がりの中で生きてきた私には、太陽の光が何よりもほしかった。長い時間を経てついに地上に戻ってきたとき、太陽は私を笑顔で迎えてくれた。鋭い眩しさにやけた瞳から涙が伝ったあの日を、私はきっと忘れないだろう。

「晴れの日も好きだよ。ぽかぽかして心地いいもんね。でも、生きてるって感じるのは、雨なんだよ」

 あの頃から、静那は生について思いを馳せていたんだと思う。それはつまり、死について考えることでもある。病にかかってしまった自分はどうなっていくのか。私には想像もつかないほど苦しんだあなたがふと生を掴んだそれが、雨だったんだと思う。

 車窓に映る雨は、あのときほどは降っていない。

 今でも、静那はこの雨に生を実感するだろうか。



 病院につき、部屋に入ろうとしたところで、「ひかるちゃん」と呼び止められた。

「友香さん」

「少し、お話してもいい?」

 どきんと心臓が跳ねる。

 友香さんは見たこともないくらいに疲弊していた。瞳に生気がない。

 私はゆっくりと頷き、扉にかけた手を、ひっこめた。



「自己決定権」というものがある。自らの意志で自らの生き方について、自由に決定する権利である。患者の意思の尊重のために、医療の世界では治療の仕方をきちんと患者に伝えなければならない。

「昨日、ひかるちゃんが帰った後、話したの。私と克也、そして静那」

 何を話したのか。答えはすぐに出た。

「もう、ゆっくり過ごしたい」

 静那はそう言ったという。その言葉だけで十分だった。もうわかった。友香さんの声はもう聞こえなかった。



 静那は病室で本を読んでいた。

「あっ、ひかる」

「うん」

「今日は、雨だね」

「うん」

 泣くな、と私は自分に訴える。

「虹、また、見えるかな」

「どう、だろ」

「虹、きれいだったね。この前の」

「そうだね」

 泣くな。

「腕が、軽いや」

 静那にずっとつながっていた点滴が、外れている。それはつまり、そういうことだ。

 静那の口元を覆っていたマスクが、外れている。それはつまり、そういうことだ。

「静那」

「聞いた、んでしょ」

「……」

「私ね、外に行きたいの」

 以前、言っていたのを思い出した。

「雨を浴びたい」

「高校の、時みたいに?」

 そういうと彼女は輝かんばかりに笑顔を見せた。

「覚えてたの!」

「思い出したの。静那、雨が好きだったね」

「ひかるは、私の、ことほんとに、よく、わかってる!」

 わかってる……ううん、わかってないよ。静那。だって、ほんとに静那のこと理解できていたら、私はあなたの決断を後押しするもの。

「ひかる?」

「やだよ……静那」

 私は、もはや、溢れ出る想いを止められなかった。

「い、いやだ……。静那は、もう……私……」

 静那は私を見つめている。澄んだ瞳だ。

「行かないでよ。せ、せめて、ああ、ちがう、ちがう、ちがうんだ、ちがうんだよ。静那。静那、行ってほしくない。死んでほしくなくて……、あ、ちがうのちがうちがうちがう……」

 私は膝から崩れ落ちてしまった

 どうして、私の傍から離れていってしまう道を選んだの。自分から選んで私から離れるなんて。ひどいよ。なんて、ひどい。いや、ひどいのは、私だ。静那が生きることを、自分のために望むなんて、もの扱いも甚だしい。でもいやなんだ。離れてほしくないんだ。すぐに離れるとしても、離れてほしくないんだ。

「ひかる」

「ごめんね……私、変なことばかり」

 ペタリと音がした。視線をわずかにあげると、白い足の指先が私を向いていた。しゃがみ込むと同時に、膝頭がのぞく。

「ありがと。ひかる」

「えっ……」

「話してくれて、ありがとう」

 そういうと、静那は倒れ込むように私に抱き着いた。ウールのように軽いその身体は、あたたかくて安らぐ。

「私、ひかるの、傍に、いるからね」

「静那……」

 頭を撫でられる。

 心地よかった。

 私は、泣いた。静那の肩を抱いて、子どものように泣いた。

「ひかる、こんなに、泣き虫、だったのね」

 静那はおどけて笑った。ああ、愛おしいな。ほんとうに、愛おしい。

 そしておろかだ。あとひと月。そう言われたときから、別れが来るのはわかっていたのに、こんなに眼前にそれが迫るまで、私は、油断していたんだ。私は救いようのないくらい、おろかだ。

「行かないで……」

「もう……」

 静那にとって、なんて酷な言葉だろう。けれど、このときの私にはそんなことは考えられなかった。


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