8月5日
「今日も……」
朝、目を覚まして、少しだけ、頭が痛くなった。少しだけ、あの静那に会いたくないと思った。あの姿を見たくない。そうなってようやく、昨日、静那が念を押した理由が分かった。
昨日の私の心情を、彼女は見透かしていたことになる。それほど、私はわかりやすいということだろうか。
コンコンとノックの音。
「姉貴、入っていいか」
弟の、男子にしては高い声だ。
「かおる?」
「うん。入っていい?」
「いいよ。なんか用?」
ぱたりと扉が開いて、制服姿の弟が入ってきた。
「姉貴ジャージある?」
「じゃーじ? って、えっ、高校の?」
「うん。あれば貸して」
「はあ? なんでよ」
「俺のやつ、母さんが干し忘れたんだって。どうせ色同じだろ? あれば貸してくれよ」
「いやいやいや。ほこり被ってるし、変なにおいするかも」
「いいから一回見せて」
かおるは辟易したように指示した。生意気だ、ほんとうに。
記憶を頼りにタンスを探る。その間、弟は無断でマットの上に座ってぼーっとしていた。ちょっとくらい手伝え。
「姉貴ってさ」
かと思うと急に口を開いた。
「なに」
手を動かしながら促す。
「姉貴って、東京行ってるのに全然かわらねーのな」
「どういう意味よ」
「男の気配がない」
たまたま手に取ったフレアスカートを投げつけておく。
「あぶね」
「ほら、ジャージあったから。とっとと出てけ」
「おーサンキュ」
「ちょっ、あんまにおいかぐな」
「いや、においの話したの誰だよ」
「もう、せめて私のいないとこでしてよ」
「なんかやらしいなそれ」
「出てけ!!」
「ひー、と、とにかくサンキュ」
朝から疲れる。ただ、弟にその気はなかっただろうけれど、元気が出た。少しだけ、ほんの少しだけ感謝だ。あの時と同じ。
「姉貴なんかこれ甘ったるいにおいすんだけど」
いけない、殺意が。
シャワーでも浴びてとっとと静那のところへ行こう。
「ほんとにデリカシーのないやつでさ」
静那は愉快そうにけらけら笑った。
「でも可愛いじゃんか。へー、でもそうか、かおるももう受験生?」
「いや、来年だよ。あいつ受験できる学校あるのかな」
「さ、さすがにどこかしらはあるんじゃ」
「でもあのバドミントン・バカに入れそうなとこなんかないよ」
「今は、でしょ。あと一年で変わるよ。きっと」
「そうかなあ」
「ひかるがお尻叩けばきっと」
「ちょっとなんで触るのよ」
ナチュラルなセクハラはやめていただきたい。しかし静那はにっこりと笑って悪気などまったくないという様子だ。
「そういえば、静那ってきょうだいいたんだっけ」
「えっ」
静那は、ぴくり身体を震わせて私を見た。私も、その表情を見た。気付いた。
(その話はしたくない)
彼女の顔は、明らかにそう語っていた。
「あ、いやその」
「いないよ。きょうだいは」
「……そっか。そうだったね」
「うん」
「あ、そうだ。あのさ、おととい作ったパズル飾れるやつ買ってきたからさ」
「おっ、いいね」
危なかった。よかった。路線変更できて。
言葉というのは契約らしい。お互いの考えを、不完全ながらも了解して、引き返すべき話題だと気付いたなら、互いに、もちろんそれを言葉では言わないけれど、退避する。
それができないと、非常識扱いされるのだろう。
棚の上にウルルのパズルが飾られる。病室とアボリジニの聖地には何の因果関係もないけれど、壮観だ。
「いいじゃん」
「ね。よかった買ってきて」
「ありがとう」
さっきまでの会話をなかったことにして、私たちは笑い合った。
「ねえ、ひかるさ」
「うん」
「生まれ変われるなら、何になりたい?」
唐突な質問。今までの人生で何回かされてきたけれど、ろくに考えようともしなかった質問だ。
「生まれ変われるなら?」
「うん。……私はね、驚かないでよ」
「う、うん」
「私はね、学校の先生になりたい」
想定外、だった。
こういうときはだいたい、鳥になりたいとか、月になりたいとか、実現不可能なことを願うものではないのだろうか。
実現不可能な……いや、そうか 。いや、違う、違うんだ。
「先生って、小学校の? それとも中学校?」
「小学校の、かな。うん」
「へえ……。意外。静那って勉強ど底辺だったし」
「どてっ……あのさ、たまにひかるってデリカシー皆無人間になるよね」
「ごめんなさいね」
「絶対思ってないだろ」
「えーでも小学校の先生か。うーん、静那が先生だったら、明るいクラスになりそうだね」
想像してみる。自分が小学生で、教壇に静那が立っている。そして、朝の会、挨拶が終わると真っ先にこういうのだ。
(今日の給食は、なんときなこ揚げパンですって)
「ふっ」
「何笑ってるのさ」
「いや、向いてそうだなあって小学生、……じゃなかった小学校の先生」
「ねえ今のほんとに言い間違えだよね?」
「もちろん。ふふっ」
「くっ……高校時代だったら五回くらい殴ってるのに」
拳をにぎって悔しがる静那は、あきれたようにため息をつき、私を見た。
「で? ひかるは」
「ん?」
「ん? じゃないわ。生まれ変わったらなりたいモノ」
「あー、そうだなあ。うーん……」
改めて考えると、なりたいものなんてないものだ。そもそもそれがあれば、大学なんて通っていない……というのは偏見だけれど、少なくとも私はそうだ。
「熟考するね」
「いや、せっかくだから真剣に考えたい」
「うっ……そ、そうだね。よく考えてみるがいいよ」
悪役みたいな台詞を受け流し、じっくり考える。
あれはどうだろう、いや違う、じゃあこっちは、いやいや……などとひたぶるに考えていたら、信じられないことだが、夕方になっていた。
「あのね? じっくり考えるのにも限度があると思うのよ」
「ごめんね」
「じゃあ今日の宿題ね。明日までに考えてきなさい」
「はい静那先生」
「よろしい。じゃあさようなら」
「はいさようなら」
おどけて頭を下げあった私たちは、顔を上げて、吹きだした。高校時代の休み時間とまったく変わらない、二人だった。
「また明日」
「はい、また明日」
斜陽が差し込んで、静那の横顔を照らしている。後光がさしているようで、美しかった。
リビングでぐうたらしていると弟が帰ってきた。
「姉貴、ジャージありがと」
「ん。どういたしまして」
「はちゃめちゃに甘い匂いしたけど、助かった」
「一言余計だけど役立ったならよかったわ。どうせほこりかぶって虫に食われて朽ち果てる運命だったし」
「じゃあ、俺貰おうかな」
「勝手にどうぞ」
「まじかよ。そこは断固拒否じゃねーのかよ」
「疲れてるのー」
ぼんやり点けっぱなしのテレビのニュースは今日も感染者数を伝えている。少し前の私はこの数をみるたびに体調を悪くしていた。二週間前の自分の行動とその数を照らし合わせて、もしかしたら、もしかしたら、と。
感染者の多い東京で一人きりだったのもよくなかった。摩耗する、とはああいうことを言うのだろう。やっと一人暮らしの寂しさと気楽さに慣れてきたころだった。私はすり減っていったのだ。
だから、今。
静那のことを考えると、胸が詰まるけれど、ひと月後のことを思うと、背筋が凍るけれど。
そうだけれど、あの時より、私は「生きている」気がしている。部屋にこもって、ただ食べて寝てを繰り返していたときよりも。会話って大切だ。
「かおる」
「うん?」
「かおるは、生まれ変わったら何になりたい?」
「生まれ変わったら? 俺が?」
「うん。ぱっと思いついたのでいいよ。真夜中なっちゃうから」
「うん? よ、よくわかんねえけど、生まれ変わったら俺、兄貴になってみたい」
「兄貴?」
「姉貴の兄貴。なってみてー」
「……」
「なんだよ。姉貴がぱっと思いついたのでいいっつったんだろ」
「そうだけどさ……まあ、でも面白いわね。ふうん」
「なんなんだ」
かおるはぶつぶつなにか言っていたが、やがて二階に上がっていった。
私はうつらうつらしながら、宿題を考えていた。ただ、ようやく、一つ、本当になってみたいものが見つかった気がした。聞きようによっては気を遣っているようにも思えるけれど、私の本心だ。
「こらひかるっ! だらだらしてんじゃないの!」
母のカミナリで一瞬頭から飛んでいきそうになったが、それを心に押しとどめ、私は部屋に入った。明日は、少し早く行こうかな。そう思った。
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