第2話
翌朝、土曜日。一度六時前に目を覚ましたけれど、あまりに頭が痛かったので、再び目を閉じた。視界の隅に春子を発見したけれど、声をかけられるのが面倒だったので、目を覚ました素振りは見せないように。
彼女はすでに、ルージュを引き、何が入るんだよと言いたくなるような小さなバッグを持って出掛けようとしている様子だった。――こんなに早い時間に、何? 寝ぼけていたのもあり、私はさほど疑問にも思わず、再び眠りにつく。そんな自分の判断を後悔したのは、それから三時間後、長い二度寝から再び目を覚ましたときだった。そのときには、春子はすでに私の部屋に居なかった。
「あんたのせいで、死ぬのが怖くなっちゃったじゃん」
昨日の夜、春子が泣きながら叫んだ言葉を反芻しながら、私は飛び起きた。
※ ※ ※
昨夜、バラエティショップを出た私たちは、そのまま私の住むアパートの一室へと身を寄せた。女性の一人暮らしに適したワンルームは二人で暮らすにはいささか狭いが、短期間泊めるくらいならどうにかなるだろう。私はグレイッシュベージュの鞄を玄関に放り投げ、春子を招き入れたのだ。
「いらっしゃい、狭いけど遠慮無く」
そう言うや否や、頬にピリッとした痛みを感じた。それが春子の平手打ちだと気づくまでに、案外時間はかからなかった。コイツは頭がおかしいのか? これから家に泊めてもらう家主に対して、その仕打ちは何? そう考える間もなく、私は手元にあったコップの中に残っていたコーヒーを春子の顔面目掛けてぶちまけた。
「……美雨のせいだから!」
そんな私に向かって、びしょぬれになった春子は叫んだ。
「私のせいって、何が」
「あんたのせいで、死ぬのが怖くなっちゃったじゃん。どうすればいいの、私、もう部屋も解約しちゃったし、仕事も辞めた。遺書だって実家に残してきたし、いろんなものも捨てちゃって……」
そう言って春子はその場に座り込み、泣き出した。そうか。この子は今日、死ぬ予定だったのか。私は意外にも、春子の言葉をすんなりと受け入れていた。あのとき買い物かごの中に入っていたのに、すぐに棚に戻された練炭は、酔いの覚めた私にとっては十分な伏線だった。
そもそも春子の高校時代からの口癖は「死にたい」だった。もちろんそれを本当に実行しようとしたという話は聞いたこともなかったし、美貌、家庭環境、そして優秀な頭脳に恵まれた彼女が本気で死にたいと願うわけがないと分かっていたので、私はさほど気に留めなかった。同時に、「そんなことを言ってはいけないよ。生きたくても生きられない人がいっぱい居るんだから」とたしなめるような野暮な真似もしなかった。春子の厄介な気質を知っていただけに、日々の由無し言程度で死にたいと感じるのも無理はないのかもしれないと思ったのもそう、いわゆる「生きたくても生きられない人」の怒りや無念なんて、「生きたいし、生きられる」私が代弁するのは勘違いも甚だしい、と思ったのもそう。
いずれにせよ、死にたがる春子のことを、今までの私は静観――いや、放置してきた。そして、今までは大丈夫だったのだ。しかし今回は違う。彼女は本当に死ぬ気だったのだろう。部屋を解約し、身辺整理を進め、練炭を買う。そんなところに酔っぱらいの私が乱入し、その決心を揺らがせた。
確かに、私は罪深いのかもしれない。
「ごめん、邪魔して。……よく分からないけれど、そういう理由なら、本当に泊まっていってくれればいいから。――死にたいのに死ねないなんて思わなくなるまで」
「死にたい」と思わなくなるのか、それとも「死にたいし、余裕で死ねる」と思うようになるのか、そのどちらに転ぶのかは分からない。春子はただその場で泣き続け、私の言葉にはなんの反応も見せなかった。明日にでも、彼女を近くの病院に連れていこう、そう思った。
その夜、私はいつもどおり自分の布団で、春子はヨガマット(筋トレ用に買ったが、結局ほぼ使っていない)にタオルケットを重ね、その上に寝た。同じ部屋で寝るなんて修学旅行みたいだと感じたけれど、私たちの間には近況報告も、恋バナも、夜更かしをとがめる教師の目を盗む高揚感も無かった。
※ ※ ※
そういう経緯で、春子との共同生活が始まった。だから、私の部屋から彼女が姿を消したと分かったときに「春子が自殺する」と思ったのだ。
焦っても仕方がない。まずは、置き手紙がないか、食卓の上をチェックした。
『美雨へ
一旦、実家に戻って遺書の入ったPCを回収してきます。
勝手に鍵を借りてしまって申し訳ありません。
昼過ぎには戻れると思うので、昼食はその後にしましょう。私が買ってきます
春子』
あるじゃねえか。角張った、大きめの字を見て、ほんのりと懐かしさを覚えた。彼女は結構、男性のような字を書くのだ。同時に安堵する。死のうと考えている人間が昼食の話をするとは思えない。自分が買ってくるとまで言っているのだ、この数時間において心配をする必要はなかろう。
実際、十二時ちょっと前に鍵の音が鳴り、春子は帰ってきた。
春子の買ってきた昼食は、ここから一駅ほど先の駅ナカにある店のオーガニックサラダだけだった。
「これだけ?」
「え?」
「……別に」
ふとした瞬間に、自分の女子力の無さを恥じる。私にとって、お昼にサラダ一品で済ませる行為はダイエット以外の何ものでもないわけだが、春子にとってはこれが普通なのだろう。彼女の折れそうな程にほっそりとした手首を眺めながら、私はプラスチックの容器を開ける。パリパリの皮がついた鳥もも肉の乗ったシーザーサラダ。目に飛び込むロメインレタスの鮮やかなグリーンと、プチトマトの赤。口に運べばブラックペッパーが弾け、クリーミーなドレッシングとよく合っていた。こういうとき、本当に私って適当だよなあと感じる。自分の女子力の無さを恥じた三秒後には、心の底から食に対する幸せを享受することができる。もう少し痩せようかなと思った十秒後には、「でも私、二重瞼だしまだ大丈夫」と呑気に開き直ることができる。ついでに言えば、今だってそう。こんなにも適当な自分の性格を「だから病んだりしないんだろうな」と楽観的に捉えている。
「美味しい。……春子、買ってきてくれてありがとう。結構高いでしょ、ここ。あとで払うからレシートちょうだい」
「泊めてもらってる身だし、今日は奢る」
「じゃあ、お言葉に甘えます。旨かった!」
春子がわずかばかり呆れたような表情をした気がする。こういうとき、私はあまり遠慮をしないのである。「気持ちよく食べてくれた方が嬉しい」という先輩の竹下先生の言葉を真に受けて、社会人になってからずっとこのスタイルでやっている。
「春子はご実家に行ったんだっけ、今朝」
「……え、何?」
「朝、実家に戻ってたんでしょ」
「うん、そうだよ。端的に言えば死ぬって書いた手紙だから、家族にうっかり見つからないうちに大慌てで回収した」
「実家って、都内なの?」
「いや、埼玉」
「ふうん、じゃあそこまで遠くないんだ」
かつての友人が私のせいで自殺を思い止まり、遺書を保存したPCを実家から回収してきたという話を、なんの疑いもなく、なんの驚きもなく聴いている。そんな自分のことが、自分でも信じられない。たぶん、私は他人にそこまで興味がないのだ。彼女の辛さに共感することもなく、「まあ、そういう人もいるんだろうな」と、自分に関係の無い国で起きた暴動のニュースを見るような感覚で捉えている。
「デパートに行こう」と言い出したのは、春子の方だった。
「ほら、私全部持ち物を捨てちゃったから……それこそスキンケアとか、コスメとか、その辺全部」
「そこから?」
「え、何?」
「生活を立て直すのに、化粧品なんて二の次じゃない?」
「そんなことない。――ノーメイクで外を歩くなんて、信じられないから。私、明日の朝はバイトの面接と、ハローワークに行かなきゃだし」
それ、別にドラッグストアで良くない? なんていう疑問は無意味だ。春子はそういう子なのだ。私がゴリゴリの芋女子として生活していた高校生時代からきちんと化粧水や乳液を使っていたのを思い出す。高校二年生の修学旅行、春子は私と同じ部屋だったのだ。図抜けてお洒落で、美意識の高い春子のことを、当時私と仲良くしていた友人グループは、どことなく敬遠していた。そう聞くとなんだか春子がキラキラしすぎて、皆が遠慮がちだったように聞こえるが、実際は違った。「暇なのかな」「やっぱり中学が共学出身の子は私たちと違うよね」と、偏見たっぷりに、どことなく軽蔑していた。
私と春子は、決して一番の親友というわけではなかった。私はいわゆるスクールカーストの真ん中くらいに位置するグループに属していた(今でもその子たちとは月に一度くらい、一緒に食事をしたりする仲だ)。一方で春子はというと、その洗練された印象から、私たちのような平凡なグループに属することもなく、しかし華やかなグループの人間からは疎まれていて、つまりは浮いていた。――いや、「浮いていた」なんて生ぬるいものではなかったな。少なくとも私と春子が同じクラスにいた頃、彼女はいじめに遭っていた。
そうだ、あれはいじめだった。
「ねえ、行くの行かないの」
「行きます」
春子に強めに返事を催促され、私は頷いた。渡りに船、ではないけれど、正直助かった。例のキラキラリップが欲しかったものの、春子を見張っていなければならないと気構え、半ば諦めていた。リップなんて今時ネットでも買えるし、それはそれでいいかなと思っていたところだったのだ。
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