4

 用事をすべて済ませ、ロファーがジゼルの家に戻ったのは陽が落ちるにはまだ間がある頃だった。


 ドアの前で待っていたジゼルは、たまにはシンザンの機嫌を取ってくる、とサッフォを連れて馬小屋へ姿を消した。出かけるとき馬小屋で見た光景が何ともおぞましく、嫌気がさしていたロファーにとってはありがたい。


 突っ立って目を見開き、目玉をギョロギョロさせながら、きっとシンザンはジゼルのいうステキな夢を見ていたのだろう。よだれを垂らしながら口元をフニャリとゆがませ、時折しっぽをぐるりと回し、足踏みをし、身震いをする。


 それだけでもお腹いっぱいなのに、

「さっさとサッフォを連れてお行きよ」

と不意にジュリが話しかけてきた。


「見てて面白いか?」

面白いわけがない、むしろ恐ろしい。応えようとしてロファーはやめた。馬が人の言葉を話すはずがない、この会話を成立させちゃいけない。ここは悪夢の馬小屋だ。聞こえないふりをしてロファーは、サッフォの手綱を引いて小屋の外に出し、鞍を付けて街の中へと出かけていった。


 ロファーが火にかけたケトルがそろそろ涌くかというころ、ジゼルが部屋に戻った。


「ご苦労だったね。夕方にマーシャがミルクを持ってきたよ、明日の朝は来られないから、と。少なくとも、昼まで家を出てはいけないと街中に触れを出す、は達成されたようだ」

「最初に長老のところへ寄ったからね。すぐに手配してくれたよ ―― お茶は何を淹れる? 珈琲豆が手に入った、飲むかい?」

「長老は素直に応じてくれた? 散々迷わなきゃあの御仁、動かなそうだ ―― 珈琲だなんて珍しいね。大好きなのは知ってるよね、いただくよ」

ジゼルはにこにこ顔だ。


 ミルはその棚にあるけれど、最後に使った時、虎肝の干したのを砕くのに使ったから、よく中を掃ってから使って、と事も無げにジゼルが言う。


「虎肝は強壮薬だから多少入っても問題ないけど、味が落ちるから」

何と答えてよいかわからず、こうなったら分解して掃除するかとロファーが思案していると、急にミルが震えだし、宙に浮くとフルフルと粉のようなものを漂わせ、それが終わると、豆が勝手にミルの中に入っていく。そしてロファーの手に戻った。


「おや、手際が良いね」

ジゼルが笑っている。

「手際がいいのは誰ですか、俺の事じゃないよね」

むくれるなロファー。ここに住み着いている妖精だよ。時々あなたにビンタ食らわせる」

「ビンタって、おまえが呪文を唱えているときに邪魔しようとすると、パチッと頬っぺたに来るあれか? 姿が見えないと思ったら、妖精なのか」


 つい、ミルを動かす手をロファーは止める。

「あぁ……常人のロファーには妖精は見えないか。でも、それでよく、私があなたを叩いていると思わなかったね ―― 早く手を動かして。珈琲飲みたい」

ジゼルが指先をくるくる回す。するとロファーの手が勝手にミルの取っ手を回し始めた。


「俺に術を掛けるな、ちゃんとやるから」

 ジゼルの指が止まる。一瞬止まったロファーの手が動き出す。

「おまえが俺の顔を打つなんてことはない」

「そうだね、恐れ多くてロハンデルト様のお顔を叩いたりなんぞできません。顔以外のところは打ったり叩いたり噛んだり引掻いたり肘打ちしたりするけどね……フランネルの茶漉しはそっちの青い引き手がついた引き出しに入っているよ」

「噛んだり引掻いたり、って……いつのまに」


 あぁ、これか、ロファーは茶漉しを引っ張り出してポットの口に引掛け、挽いた豆を移し替える。そしてゆっくりと湯を注ぐ。


「いい匂い……」

ロファーの傍らに立ちジゼルが笑顔を見せる。

「いい匂いだね」

それにロファーが笑顔で返す。

「私とどっちがいい匂い?」

真顔で聞くジゼルにロファーは声を立てて笑った。


 珈琲を飲みながら今日の報告を始めるロファーを不機嫌(笑われてたいそうご立腹)な顔でジゼルは見ていたが

「あー、もうやめやめ」

と急に立ち上がった。


「話が長くなりそうだ、読んでいい? 手を握って見詰め合えばあなたの心が読める」

「なんか、照れくさいことになりそうだが、まぁ構わないよ」

されるがままにジゼルに椅子から立たせられると、ロファーは言われた通りジゼルを見つめる。ジゼルはロファーの手を取り、一本一本の指を絡ませてから、自分より随分と背の高いロファーを見上げた。


「!!!!」

「!!!!」


 二人の視線が重なったときだった。部屋の中に閃光が迸り、絡んでいたはずの指が弾き飛ばされた。その勢いで床に倒れたジゼルは呆然とロファーを見上げている。


「なんなんだ? 術に失敗したのか?」

ロファーが問いかけてもジゼルはロファーを見つめるだけで、答えない。

「それより大丈夫か? どこか痛んだりしないか?」

ロファーに助け起こされている間もジゼルはロファーを見るばかりだ。


「おい、何とか言ってくれよ」

呆然としたままのジゼルが心配で、じっと顔を見られ続けるのも苦痛で、ロファーはジゼルを抱きしめた。


「ジゼル……ジゼル?」

 耳元で囁くように呼び掛けると

「……このまましばらく黙っていて」

蚊の鳴くような声で、やっとジゼルが返事を返した。


 うん、うん、と頷くロファー、本当は聞きたいことがあったが、そんなことは後で聞けばいい、と思った。閃光が走った瞬間、ロファーの脳裏に浮かんだ数々の見た事のない景色、胸が張り裂けそうな叫び、あれは……ジゼルの記憶なのか?


 今は黙ってジゼルを抱き締めるしかないロファーを、急にジゼルが押し返してきた。そして言った。

「誰か来た……人の道を通ってくる」

「人の道?」

「あなたがいつも逸れて通らないあの道だよ。だが街の人じゃないな。誰だろう。正体をうまく隠してる」

「いやな客なら、いつもやってるように追い返せばいい」

「それは無理だ。かなり高位の魔導士だ。だが、ギルドの使いでもない。ギルドなら魔導士学校との間に開けた火の道を通るはずだ」


 立ち上がって着衣の乱れを直しながら、

「悪いけど、その部屋に隠れていて」

とジゼルは言って、部屋の片隅を指さした。見ると今までなかったはずのドアがある。


「あなたが中に入ったら、こちらとは遮断するから。あなたのことは誰が来ようとわからない。安心して」

「安心してって、何を言う。おまえと一緒にいるさ。客ってのは……」

誰なんだ? ――


 最後まで言わせずジゼルはロファーの意に反して新しいドアの向こうにロファーを追いやったようだ。


 振り向いても自分が出てきたはずのドアは消えている。悔しいがこうなってはロファーに為す術はない。

「って、相変わらず洒落のきつい」

辺りを見渡すと、ここはロファーの家の一室だ。


 ジリジリとした心持で待っていると夕日が空を染め始める頃、目の前にガーベラの花が浮かんだ。ジゼルのテーブルの花瓶にも活けてあった花だ。


 そっと触ると、ふわっと浮遊感を感じ、それが消えるとロファーはジゼルの部屋にいた。


「やぁ、おかえり」

ジゼルは床に座り込み、手をついて、やっとの事で上体を起こしているようだ。


「おい、なにがあった?」

「なにも……」

抱き起そうとするロファーを制して、ジゼルが答える


「母が私を訪ねてきた」

「母? いたのか」

自分でも間抜けな問いだと思ったが、つい口に出したロファーだ。


「うん、いたようだ。そして初めて折檻された」

「折檻って……魔導士の折檻てどんななんだ? いや、おまえ、いくつだ。折檻されるような年齢なのか?」

「集会に来いと言われて嫌だと言ったら、怒った母上が暴れた、ただそれだけだ」

「母上、っておまえ、どんな家の生まれなんだ?」

「さっきから質問ばかりのロファー、うるさい」

ジゼルの言葉に鼻白むロファーに

「ねぇ、寄りかからせて」

とジゼルが甘え声を出す。


「おまえ、床にへたり込んでいるのも辛いんだろう。ベッドに運んでやるよ」

「ううん、ここにいたい。ここでロファーに寄りかかりたい」

「……」

こんな時のジゼルには逆らえないロファーだ。


「これでいいのか?」

横に座り、ジゼルの肩を抱くと、ジゼルが胸に頬を寄せてもたれてくる。そして指先でロファーの腕をなぞり、最後にはロファーの手を握って止まった。

「うん、これでいい。しばらく黙って」


 しばらく、と言うのはどれくらいなんだろう。そんなことをロファーが考え始める頃、ジゼルがロファーから離れ体を起こした。


「大丈夫なのか?」

気遣うロファーに

「うん、だいたいのところは読み取れた」

とジゼルは明るい顔だ。


「読み取ったって……」

「さっき、弾けちゃってびっくりしたでしょう。あれはね、絆の強い相手には、してはいけない術だったんだよ」

「絆って……」

なんかすごいことを言われたような気がして慌てるロファーを尻目に

「母上もいいタイミングで来てくれた。おかげでそんな時の対処法が聞けた」

と、ジゼルは満足そうだ。


 目を見てはいけない、それぞれの力の均衡、そして直接的な接触。寄りかかったあの体制で条件が揃った。

「ロファー」

「ん?」

「珈琲まだある?」

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