第三十六節

 初戦はフェデリコたちの快勝に終わった。

 結論から言えば、砦を包囲していた叛乱軍は僅か四百人弱に過ぎなかった。

 フェデリコは騎兵と共に先行したためにその戦力は出陣時の五百人を更に下回っていたが、騎兵を主体とした朝駆けの奇襲は敵を壊乱させた。朝靄が晴れ渡ったころには戦場には敵兵の死体が数多く現れ、戦意を失った彼らの多くが投降した。

 フェデリコは戦勝に沸く部下のうち、未だ気力十分な者たちに命じて逃げ散った敵を追わせ、更に多数の捕虜を得た。


 彼女は砦の守兵と合流すると、捕虜らを砦の中へ入れた。

 事件が起こったのは、その直後のことだった。


「捕虜を殺すなと命じたのを忘れたか!」


 フェデリコが兵を突き飛ばし、陣中は一瞬にして静まり返った。

 傍らには刺殺された捕虜が転がっており、突き飛ばされた兵士が手にした剣からは真赤な血が滴っている。

 フェデリコの怒気に全てが凍り付いた陣中で、滴り落ちる血だけが暖かい。尻もちをついた兵士は、その濡れた剣を手に、真青な顔をしてフェデリコを見上げていた。


「そ奴を縛り首にしろ!」


 彼女の怒気に誰もが息を呑み、周囲を取り巻く騎士らがどよめく。

 真先に動いたのは、極刑を宣告された兵士でなく彼ら騎士たちの方だった。


「今味方を殺してなんとします」

「陛下、ご寛恕を!」


 彼らが言葉を潜めてフェデリコに取り無してから、兵士はようやく我に返った。彼はフェデリコの足元に平伏し、縋りつくようにして慈悲を乞う。


「お許しください! お許しを……!」


 きっかけは些細なことだった。捕虜が兵に怪我人の手当てをしたいと願い出た。兵がそれを取り合わなかった。捕虜が悪態をついた。兵が罵倒した。暴言の応酬が続き、かっとして剣を抜いた――それだけだ。

 誰かが特別に愚かなのでも、悪意に満ちていたのでもない。ただ薄らとした反感と、戦闘後の殺伐とした空気、心の底にある侮蔑感がそうさせただけだった。


 その兵は今、己の短気が招いた結果に怯えている。

 フェデリコの足元に縋りついて震えるその姿を見て、気の毒に思わない者はいなかったろうが、それでもフェデリコは、その兵を許す訳にはいかなかった。

 自らの背に突き刺さる静かな憎悪――それを自覚していたからだ。

 ひと所に集められた捕虜たちは身を寄せ合い、自分たちのこれからについて不安と悲嘆でいっぱいだ。にもかかわらず、その目元にはふつふつと憎悪が沸き立ち、フェデリコや兵士を見つめている。

 縋りつく兵の腕を振り払い、連れて行けと命ずる。

 やや躊躇した兵士たちが彼の下へと駆け寄るが、彼は取り押さえようとする兵士たちの手を逃れて再びフェデリコに取りすがる。

 彼を取り逃した兵士たちが慌てて手を伸ばす。


「陛下から離れろ! 諦めないか!」


 その肩や腕を掴む兵士たちだが、彼が泣き喚きながら許しを乞う様を前にして、非情になり切れないのだろう。

 取り押さえる兵士たち自身が、戸惑いと躊躇を隠し切れていない。口では観念しろ、大人しくしろと喚いているが、取り押さえる腕にもしっかりと力が入っていないようだった。


(無理か……!)


 心の中に地団駄を踏む。限界だった。

 彼女はぐっと怒気を抑え込み、ぎろりと兵士を睨み据える。


「ならば命だけは助けてやる! 棒打ちにしろ!」


 兵士が安堵の表情をあげる。

 助命に礼を繰り返す彼を捨て置いて、フェデリコは背後の捕虜たちを指し示し、彼らにも聞こえるよう大きくアラビア語を発した。


『ただし、棒は捕虜らに持たせる。一人一擲だ。加減は無用! したたかに打ち据えろ!』


 捕虜たちがざわめく。

 フェデリコから発せられた、にわかには信じがたい指示についてお互い顔を見合わせる。だが、その兵が捕虜たちの只中へ引きずられてきたのを見て、彼らはそれが確かなのだと知った。

 彼女は振り返りもせず、そのまま野戦用の天幕を潜った。

 棒で打たれる兵のくぐもった悲鳴が聞こえてくる。言葉を選びかねている部下らの気配を察し、彼女は静かに、しかしはっきりと告げる。


「民衆叛乱の鎮圧がどれほど血なまぐさいか、解らんではあるまい」


 ぐっと顎を引く諸侯と騎士たち。


「今のようなことを繰り返せば、叛乱は永遠に続くぞ。貴卿らは私に、彼らを一人残らず皆殺しにさせたいか」


 その言葉に隠された冷たい怒気に、彼らは背筋を震わせる。諸侯たちの中からテューリンゲン方伯であるルートヴィヒが一歩進み出、胸に手を置く。


「申し訳ありません。今後は兵らにも徹底させます!」

「……休憩が済み次第、進軍を再開する。次の砦を解放するぞ」


 この戦いでの敵兵はフェデリコの想像以上に少なく、この勝利をたやすいものにさせた。もしこれが、敵が叛乱を拡大できずにいることの現れならば幸運だった。

 だがこれが敵に一定の意図があってのものであれば、これからの戦いは一筋縄ではいかない。フェデリコはその懸念を拭いきれなかった。


 はたして彼女の懸念は現実のものとなった。

 彼女らが次なる砦の救援に駆け付けた時、もはや敵の姿はなく、砦からは安堵しきった表情の守備隊が出てきただけだった。それは叛乱軍が一定の戦略的意図に基づいて戦いを展開していることを意味していた。




 叛乱軍を率いるアリーが馬上に兵らを叱咤する。


「戦力を集結させれば我らが有利ぞ!」


 彼の声に叛乱兵たちが答える。彼らの多くは徒歩であるが、山間部で農業に携わって来た農民たちだけあって足腰や体力に問題はなかった。彼らには、脱落しそうな兵を手分けして担ぐほどの元気が十分に残されている。

 彼らが集結を図ったのは、平野部と山間部の間に広がる裾野で、広く木々の生い茂る森だった。シチリア軍の騎兵による奇襲を警戒してのことだった。


「アリー、アルバ村の者が来た」


 今は副将を務める従弟のフサインが現れ、隣に駆け寄る。


「それから伝令の報告では、奴は日を置かず次の砦にも救援に現れたそうだ」

「おまえの読みが正しかったな」

「自分らにとって一番嫌なことを考えただけだ」


 彼らは叛乱初期、方々に援軍を求める傍らで各地の砦を攻略したが、これをあくまで敵に味方の勢いを示すためのものと割り切った。叛乱の火の手は散発的に上がったが、誰もが指揮系統に組み込まれる訳ではない。従って本隊とも言える部隊は無暗に進出させず、その掌握に努めたのだ。

 平野部の砦に対する攻撃はあくまで牽制だった。

 最優先すべき攻略目標ではないが、これを囲めば敵は座視できない。実際、フェデリコは砦の救援に向かってきた。

 動きを察知したアリーはフサインの進言を入れて撤退の伝令を走らせた。片方は間に合わなかったが、もう一方は無事に撤退し、合流を急いでいる。戦術的には一敗を数えるが、戦略的にはこちらが主導権を握り続けていると言えた。


「問題はこれからだな。おまえはどう思う」


 アリーが問い掛けると、フサインは難しい顔を示す。


「現有の戦力でも数的には有利だろうが、こちらは素人だからな。正面からやり合うと何とも言えんと思う」

「ならば退くか?」

「山にか。守るには固いが、我らには援軍の当てが無いぞ? 近隣の同志が集まるのを期待する手はあるが……我々以上に奴らが戦力をかき集めれば本末転倒だ」


 一長一短。そうとしか言えなかった。

 アリーはひとまず戦力集中を急ぎ、戦力が集まった頃に攻撃を仕掛けるか山へ退くかを考える事とした。

 二人が話し合っていると、一人の兵士が小走りに駆けてきた。


「こちらにおいででしたか。アリー殿にお会いしたいという者が来ています。どこぞの商人の遣いという話ですが……」


 戦場に似つかわしくない身分を聞かされて、アリーは少し考えた。商人が戦の匂いを嗅ぎつけて商売を持ちかけるとすれば、武器や食料でも売ろうというのだろうか。彼らには満足な金があるとは言えないが、話を聞くだけ聞いても良いだろうと思えた。


「会おう」


 彼が答えて、二人は馬を走らせる。

 商会からの使者を名乗る人物は、僅かな護衛と、小柄な従卒を一人だけ引き連れて現れた。

 通り一遍の挨拶を済ませると、彼は懐から一通の封書を取り出した。紐を解き筒を開いて中に目を通したアリーは、怪訝そうな目付きで顔をあげ、手紙を傍らのフサインに回す。


「この書の内容については事実か」


 受け取ったフサインもまた驚きに視線を上げ、使者は二人の反応に満足げに頷いた。


「モリーゼ伯は現在のシチリア王国を深く憂いでおられです」


 彼はモリーゼ伯トンマーゾの名を挙げた。カプアの諸侯会議で糾弾された大貴族の筆頭だ。

 モリーゼ伯がシチリア島に上陸すれば、フェデリコは叛乱軍と諸侯の連合軍に挟み撃ちにされるだろう。手紙にはさらに、彼らの紹介が武具や食料を無償で貸与すること、情報や連絡の便宜を図ることなどが記されていた。これら武具や食料は彼らにとって喉から手が出るほど欲しいものだった。


「伯は現在、内々にフェデリコ王を討つ準備を進めておいでです。彼を打ち倒した暁には、シチリアにおけるあなた方の権利を擁護すると仰っておられる。必ずや盟を結ぶことができましょう」


 使者がとうとうと述べると、フサインが身を乗り出した。


「待て。我等の叛乱はつい数日前のことだ。モリーゼ伯が領地にいるなら、叛乱を知って連絡を寄越すのが早過ぎる。辻褄が合わないではないか」


 彼の指摘に、使者は大仰に頷いた。


「なるほど。やはりアッバード家の方々は聡明でおられる。ご指摘の通りだ」

「ではこれは何だ?」


 手紙を突き出すフサイン。

 使者は傍らの小柄な従者をちらりと見やって視線を交わすと、二人に向き直ってとうとうと語り出す。


「伯は以前より決起の準備をしておったのです。我々は伯と親しく取引をしており、シチリアの情勢を直ちに知らせる体制を整えておりました。あなた方の中にも取引相手はおります。すなわち決起の報も、国王らより早く情報を得ておりました」

「それを王に知らせず、伯にだけ報せたということか」

「ご明察で」


 使者が頷く。

 最初の砦を落とした時、アリーらの奇襲は完全に成功し、叛乱の報がパレルモへ届くのを防いでいた。その時点で彼らが情報を得ていたとすればありえぬ話ではなかった。

 同時にそれは、この眼前の商人らがシチリア王国以上の優れた情報網を有することも示している。


「……となれば、我々の陣営の事情も承知か」


 フサインが問うと使者は自慢げに口元をほころばせる。


「折からの不作で食料は潤沢とは言えますまい。何より、あなた方には武器がない。皆さまの弓の腕は存じておりますが、他の武器がすきくわ、鎧はなめし革を縫い付けた旅装束とあっては何とも不安でございましょう?」


 使者の指摘はもっともで、今更否定しても仕方がない。

 アリーは未だじっと黙って腕を組んでおり、フサインが続けて問い掛ける。


「ならばもうひとつお答えいただこう。この書簡には我々には山で守りを固めよとある。伯はいかな戦略をもってこれを申しているのか」


 使者は変わらず涼しい表情で口端を持ち上げた。


「伯はパレルモを直接攻撃するおつもりです。だが出陣の準備までには今暫くの時間が掛かります。しかしあなた方が山に籠って守りを固めれば、いかに王国軍とはいえ容易くは突破できないでしょう。そうして暫しの時を稼いで下されば、伯が不満を持つ諸侯を糾合し、大軍を率いてシチリアに上陸されましょう」

「保証はあるか?」

「ありません」

「よく言う……」


 語気を強めるフサイン。「しかし」と前おいて、商人が首を傾げる。


「では、いかが致します? 見ましたところ、あなた方は攻めるか守るか、迷っておいでなのではありませんか?」


 フサインもアリーも、その問いには答えなかった。だが商人はその推察に自信を深めたようだった。


「伯は決起するにあたりシチリア島内の同盟者を探しておいででした。伯はあなた方の権利を擁護され、共に手を取りあおうと考えておられた。その矢先にあなた方の叛乱が先行したとという事です。これぞ千載一遇の好機と申せましょう。

 あなた方に利があり、モリーゼ伯にも利がある。お互いに利がある取引です。何を迷う必要がありますか」


 返事を伺う目を見せる使者。フサインがアリーを見やると、ずっと黙ってやり取りを聞いていたアリーも、重々しく口を開いた。


「ならばひとつ問わせてもらおう。貴殿らの利は何か」


 使者がにやりと頬を持ち上げた。


「交易の独占権ですよ」

「貴様ら……ジェノヴァ商人だな」


 アリーが呟く。使者は答えず、曖昧な笑みを返すばかりだった。

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