第21話 龍夜!
かつて比企家先祖が封印した鬼。
現在、一人の身勝手な物欲で封印が解かれ、島を死と暗闇に突き落とした根幹であり――
「元凶!」
迸る叫びと共に龍夜は鬼に飛びかかる。
極限まで絞られた弓より放たれる矢のような速さ。
マジックアイテムなど身につけていない、ありのままの身体能力で明確な殺意を持って日本刀を振り下ろす。
五メートルの開けた距離など無意味。
後退、撤退など両者にはあり得ない。頭の隅にもない。
「せいっ!」
龍夜の剣道着が暗闇で揺れる。
一息つく間すらなく龍夜の日本刀が鬼の左腕を斬り飛ばした。
靴裏に力を込めて制動をかけては身を翻しながら停止する。
『ふっ』
鬼は片腕が斬り飛ばされようと不敵に笑う。
「なっ!」
相対する龍夜は忌々しく舌打ちする暇すらなかった。
動いたと知覚した時には、鬼が左横に立っている。
恐怖が寒気として走る。
近づく過程ですら視認できぬ鬼の速度。
音を置き去りにした鬼の豪腕が斬り落としたはずの左腕から放たれる。
『んぬ?』
銅鑼が砕ける激突音と衝撃波が津波となり足元の瓦礫を粉々に砕く。
龍夜は無事であり、鬼は無傷の姿に首を傾げる。
『珍妙な武具を使いおって』
「折角斬り落としたのに再生しやがって」
恐怖が背中を蹴りつける中、龍夜はただ不敵に笑って返す。
これは単なる強がりと虚勢だ。
運が良かった。鬼がラミコ鋼のシールドのある左ではなく、右に現れていたら、龍夜は今頃ミンチになっていたはずだ。
(まさに正真正銘の化け物だ)
鬼より感じるのは圧倒的な絶望感。
目や皮膚を貫いては脳に至り、恐怖が全身の血液に乗って行き渡る。
死を感じたのは一度や二度ではない。
乗り越えられたのは、勝ち残ったのは仲間がいたからだ。
だが、今戦うのは一人。戦えるのも一人だった。
『最初の威勢はどうした!』
鬼が吼える。両拳を地面に叩きつけては激しく揺らし、瓦礫粉砕しながら迫る。
手元を視覚で捉えられない。
鬼との距離があろうと暴風と疑う拳圧と地震と疑うまでの揺れが龍夜の体勢を崩しにかかる。
『はっははは、骸残さず消えろ!』
鬼が笑う。口端が裂けんばかりに笑う。
来年のことを言えば鬼が笑うとあるが、そんなの人間の妄言だ。
圧倒的な力で潰すことが愉快だからこそ笑う。
「はあああああっ!」
激しく身体が揺らされる中、動けぬ龍夜は力強く、そして深く息を吸き込んだ。
下手に動けば拳圧と振動で体勢を崩され、その身を粉砕される。
絶望はまだ全身を巡っている。日本刀持つ手が震えようと、瞳孔は震えることなく迫る鬼から反らさず捉えていた。
(手元は見えない。だが、肩は、いや肘は見える)
この時、龍夜の中で泉より滴る一滴が見えた。
急激に視界が透明となり、この全域を知覚している感覚となる。
静かな音をたて、日本刀を鞘に収納する。
腰を深く、なお深く落とし、右手を束に添えたまま、頭部を前のめりに倒す。
(ああ、この知覚、久しぶりにきたな)
魔王と死闘を繰り広げた時に感じた透明な視界。
あらゆる動作が緩慢となって捉えられ、斬るべき線が知覚できる。
意識してできるものでも、窮地で出るものでもない。
ただ純粋なまでに意識を斬ることだけに先鋭化させたことで発露するものであった。
(なるほど、あそこなら斬れるか)
死の塊だろうと今を生きている存在。
よって斬れぬ相手ではない。
『死ねえええええっ!』
距離が縮まる毎に増す拳圧が見えざる巨人の手として前面から龍夜を押さえ込む。
それでも龍夜の心に揺らぎはなかった。構えに綻びはなかった。
精神は泉のように静まり、斬るべき対象が迫っている認識しかない。
鬼が嵐となって眼前まで迫った時――
ダン、との鈍い音が嵐を急停止させた。
鬼は龍夜の眼前で立ち止まったまま、血のように赤き眼で両腕を凝視する。
『な、なんだ、と!』
肘より下から消失した両腕に愕然となる。
触れれば砕く拳が、ただの一振りで二つとも斬り落とされた。
あり得ぬ事実が鬼の全身を震えさせる。
『き、貴様!』
さらなる鬼の感情を爆発させるのは、五体満足で抜き身の日本刀を納刀する龍夜の姿。
鬼は鬼だからこそ、龍夜の動きを知覚していた。
この拳が脆弱な肉体を砕かんとした寸前、鞘より抜かれた刃が両腕をほぼ同時に斬り飛ばした。
鬼が口走るは否定。あり得ない。そんなはずがない。ただの人間が鬼にも負けぬ速度で刃を振るうなどあってはならない。
この太刀筋、まるで――
『何故、斬れる!』
「見えたから斬った」
単純な理由だと龍夜は冷淡に返す。
嘘偽りはない。
殺す殺されるの殺し合いで相手に勝つ術など突き詰めれば一つだけ。
相手に斬らせないために相手より先に斬る。ただそれだけ。
ゆっくりとした動作で鞘に納めた日本刀の束に手を添える。
「斬って分かった。身体の構造も分かった。次はそのふぐりを斬り落とす」
静かに宣誓した龍夜は、ただ一歩前に出る。
まるで軽く散歩するような自然な足取りで前に出る。
鬼が知覚するより先、背後に回り込んだ時には、その太き両足を斬り飛ばしていた。
『この太刀筋!』
両足を斬られて前のめりに倒れ込む鬼は絶句するしかない。
人間だぞ。寿命短く、力もない弱々しい人間だぞ。
ただ群れることしかできず、金と権力にしか興味のない脆弱で惰弱な人間に、どうしてここまで押されている。
『この足裁き!』
龍夜の無駄のない足裁きが鬼の記憶を刺激する。
ただ一歩踏み出すだけで腕が飛び、ただ横を向いた時には脚が飛ぶ。
封印による弱体化の影響でうすらぼけていた記憶。
古傷の如く鬼に残る忌まわしき記憶が龍夜により掘り起こされる。
かつて快か、不快かで島に座していた在りし日の記憶。
酒の肴として人間の血肉を貪った愉しき記憶。
悪鬼滅殺と武士の一団に首を切り落とされた忌まわしき記憶。
特に、特に、比企なる武士は圧倒的だった。
一挙一動全てが斬るためにあり、爪痕一つつけることなく首を切り落とされた。
今、目の前に立つのは忌まわしき比企の血を継ぐ人間。
血を継ぐだけでなく、あの時の剣技を欠けることなく継承している。
加えて妙な武具や薬を使い、今一歩追い込めない。
ふざけている。ふざけすぎている。
ここは
我の島だからこそ、その命も、血も全て我のもの。
我が物顔で島に上がるだけでなく、好き勝手に島を荒らした憎き人間の末裔が、不完全といえども鬼を追いつめるなどありえなかった。
『ぐうううっ!』
暗闇に刃音が響いた時、鬼の身体は上下に分断されていた。
「へえ、そう来るか」
鬼のマスラヲを的確に狙ってくるからこそ、鬼は敢えて腹で受ける動きに出た。
龍夜の動作に鬼が慣れてきた証明だった。
「やはり直接、その部位だけを斬り落とさないとダメか」
日本刀を両手で構えなおす龍夜の顔は冷静だった。
島を荒らされて怒り狂う訳でも、親しき人を失い涙を流す訳でもない。
ただ冷たい目で斬るべき鬼を捉えている。
そこに感情の振れ幅は一切ない。
肉体そのものが斬るための器官にまで意識を変容させている。
鬼の目に、あの時、対峙した武士の幻影が龍夜と重なる。
『だが――』
あの時と違うと鬼は笑みを崩さない。
そう違うのだ。
鎌倉から上陸を果たした武士は集団。
今目の前に刃振るうは一人。
社には戦えぬ女子供に老人、山に息を潜めるは不特定多数の餌。
比企の末裔がマスラヲを狙うように、鬼にも狙うべき場所があった。
「あ、どこに行く!」
鬼は純粋な脚力で高く跳び上がる。
逃げたのではない。逃げる必要などない。
あの末裔の手に弓矢はない。遠くから射られる邪魔は起こらない。
『我の島にこんな櫓を建ておって! 我おらぬとも人間同士、戦が好きなようだな!』
着地したのは地震で横倒しとなった三〇階建てのタワーマンション。
巨腕が基部を掴めば、音を立てて持ち上げられる。
鬼に金棒の度合いを超えた超重量物体。
末裔が気づこうと離れた距離からではもう遅い。
『はははは、戦場に戦えぬ者を置くからそうなるのだ!』
まずは忌まわしきエンジュの社ごと人間を叩き潰す。
忌まわしいエンジュの木が聳えし社は鬼とて迂闊に踏み込めば、折角集めた力が霧散される。
故に外部から干渉する。
後は力の限り、神社に向けてタワーマンションを投擲した。
『ぬっ!』
その手から離れる寸前、右手の甲に突き刺す痛みが走る。
矢だ。末裔が持たぬはずの矢が突き刺さり、一瞬だけ力が緩められる。
タワーマンションは鬼の手から滑り落ち、その先端を神社からほんの少しずれる形で地面と激突する。
轟音と共に瓦礫が舞い、衝撃が島を揺らす。
『どこに弓矢を隠し持っていた!』
人間が潰れる悦がたった一本の矢で阻害された。
鬼は突き刺さった矢を抜き取れば、怒りに震える手で砕く。
末裔が追撃をかけなかったのは遠距離から止める手段を隠し持っていたからだ。
『おのれ!』
行動を誘発され、手の平で踊らされたと鬼は吼えた。
「優希、みんな無事か!」
土埃舞う中、龍夜は力の限り叫ぶ。
鬼がタワーマンションを金棒代わりに振り下ろした。
あの規模の質量、生身の人間に耐えきれるはずがない。
心臓は破裂せん勢いで鼓動を刻み、恐怖が龍夜の喉を急速に乾燥させる。
「な、なんとか無事よ!」
「なんか知らないけど、ギリギリズレた!」
「やっべ~ションベンちびった!」
「俺、屁出たわ!」
「昭和のギャグじゃね~んだよ!」
「や~いノーコン、ヘタクソ!」
照明潰えた暗闇の奥より、優希の声を筆頭に勇たちの騒ぎ声がする。
声からして多少のパニックはあるようだが、飛散した瓦礫の直撃を受けていないようだ。
「タツ坊、こっちは大丈夫だ! 社が潰れようと人がいれば再建できる! お前は鬼を斬ることに集中しろ!」
荒木が龍夜に発破をかける。
見えずとも無事な姿は知覚できる。
だから力強く頷けば、背後に降り立った鬼に振り向き際、抜刀していた。
鬼の豪腕が吼え、龍夜の刃が鳴る。
『よくも我を弄んでくれたな!』
「慣れねえもん金棒代わりに使うから、外すんだよ!」
再度、鬼の腕が舞う。
舞おうと鬼の腕は瞬時に生える。
鬼の五指が龍夜を直に握り潰さんと開く。
その時既に刃音が過ぎ去り、五指は地面に落ちては消える。
ただ斬り落としては生え、斬り落としては生えての繰り返し。
『どうした? 息が上がってきているようだが?』
鬼は龍夜を上下する肩と胸に笑う。
対して鬼に呼吸も乱れはない。
人と人ならざるものの差が開き始めていた。
だから龍夜は一気に勝負をかける。
一瞬だけ、とある方向に目を向けて戻せば、弾けるように駆け抜ける。
日本刀の切っ先を鬼の胸の中心に突き刺した。
『ぐぬううううっ!』
鬼は全身が怖気立つような声をあげる。
ただあげるだけ。今までの変異体のように突き刺しリビルドを流し込むも死の塊たる鬼に効果は薄い。
『その程度、か!』
鬼の五指が龍夜の右腕を握り潰す。
ばきぼきと骨砕け、血肉零れる音が龍夜から右腕を奪う。
「ぶはっ!」
腕が引きちぎられる激痛に顔をひきつらせようと龍夜は動く。
左腕を日本刀に伸ばそうと鬼の右膝が動くのが先。
胸部を重撃が貫き、内臓を守っていた骨が、ばきぼきと音を立てて砕け、突き飛ばされる。
避けようとして身を捻らせたようだが無意味。
血が逆流し、口から吐き出した。
『これで終わりだ』
鬼は笑う。笑い続ける。
少し離れた先の瓦礫に龍夜は転がり落ち、呻き声がする。
うつ伏せになろうと、まだ足掻き藻掻いている。
『ああ、気持ち悪い。うっとおしい』
鬼は嫌悪を吐きながらゆっくりと迫る。
胸に突き刺さった日本刀を抜かず、むしろ無駄だと見せつける。
もぞもぞと芋虫のように這う姿は滑稽だ。
『珍妙な薬など使わせぬぞ』
まず頭を潰す。次いで心の臓を潰す。残りの手足をこの口で咀嚼する。
その次は社や山にいる人間どもだ。
エンジュは入りづらいだけで入れないわけではない。
血肉喰らえると思えば楽なもの。
老体は骨と肉が不味い。だから殺す。
活きが良く新鮮な女子供は生かしたまま喰らう。
『生娘は犯し尽くして血を啜ろう。ガキは丸飲みだ。舌先で転がし泣き叫ぶ声は格好の酒の肴となる』
鬼は笑う。嗤い、眼下で這い蹲る龍夜を見下ろした。
『比企の末裔よ。我の勝ちだ!』
後頭部を踏み潰さんと右足を上げる。
例え弓矢を隠し持とうと、片腕失えば矢を番えることすらできない。
後はただ脚を下ろし、踏み潰すだけ。
ああ、数多の人間を踏みつけたが、この末裔から如何様な音が脳漿と共に飛び出るだろうか。
被虐の愉悦が胸を沸き上がらせる。
斬、と。
その愉悦はたった一つの刃音により断ち切られた。
『ぬ?』
鬼は何が起こったのか、知覚するのが一瞬だけ遅れる。
暗闇を舞う鬼のマスラヲ。
眼前に立つのは日本刀を振り上げた末裔。
砕いたはずの右腕が何事もなく存在している。
『わ、我の、我のおおおおおおおおおっ!』
下腹部から頭頂部にかけて鬼に激震が走る。
次いで、暗闇にガラス砕ける破砕音が島に響いた。
帳崩壊の始まりの合図だった。
『ば、バカな、末裔の武具は、我、なぬ!』
胸に突き刺さったまま。引き抜かれてなどいない。
答えなど眼前にあった。
そこに倒れ伏すのは仮初めの器として使ったもう一人の末裔。
瓦礫に落ちるは空っぽの小瓶。
この末裔が使っていた日本刀を握り、マスラヲを斬り落とした、
龍夜が逆転の一発勝利を得るには分の悪すぎる賭けだった。
白狼が所持する完全回復薬と日本刀を利用する。
体力が有限だからこそ、最悪の状況に陥ろうと最善の策として腹をくくるしかない。
鬼は用済みとばかり白狼の身体など視野の外に捨てている。
後は、わざと鬼に右腕を潰させた。その身を白狼がいる地点に蹴り飛ばすよう身体を向けた。
一歩間違えば死に至る賭け。
そして勝利に至る要素は全て揃った。
「はあああああああっ!」
マスラヲを斬り落とされ激震する鬼に龍夜は刃を左薙ぎに振るう。
全身全霊、鬼の腕が上がるよりも速く、鬼の五指が開くよりも先に、日本刀の刃を黒き首に打ち込んだ。
首は古木のように硬く、刃は中程まで食い込ませて止まる。
『ぐ、ぐおおおおおおおっ!』
鬼の手が動く。動き、最後の抵抗といわばかり刀身をへし折りに来る。
『き、斬られて、斬られて、たまるか!』
金属が軋む。悲鳴を上げる。
「そうか、ならよ、その刃、くれてやる!」
あろうことか束握る手を離す。
『拳で我の、首が!』
バカの一つ覚えだと吼えた瞬間、右からの刃音に鬼の視界は反転していた。
首が身体より離れ、反転した視界で鬼は元の日本刀を持つ龍夜を映す。
胸に突き刺さった日本刀が抜き去られ、鬼の首を斬った。
魔王を討ちし刃が、今度は鬼を討つ。
『バカな!』
島を恐怖の闇に落とした元凶の最期だった。
まだ終わっていない。まだ鬼は生きている。
龍夜はストレージキューブから壷を取り出した。
後は瓦礫に転がる鬼の首を掴み上げれば、バスケのダンクシュートよろしく壷の中に叩き込んだ。
「しぶといんだよ!」
首の入った壷が激しく揺れ動く。
檻の中の猛獣が暴れていると錯覚するほど激しく動いている。
時と共に揺れ幅は小さくなり、ついに動かなくなった。
「お、終わった……」
壷の表面は墨汁のような黒き波紋を描いている。
龍夜は全身の力が抜け、膝から崩れ落ちた。
「終わった。終わったよ。サト姉、勲おじさん……」
静かに目を閉じる。瞼の裏には斬らねばならなかった人々の顔が浮かぶ。
「龍夜!」
必死に走ってくる優希の声に龍夜は振り返る。
疲労と達成感に染まる顔は自然と綻ばせた。
「後ろ!」
壷に顔を戻した時には遅し。
黒き波紋より無数の黒き手が伸び、瞬時に龍夜を掴み取った。
『がははははは、我の首を壷に入れた程度で終わったと思ったか!』
最後に笑うはやはり鬼。
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