志穂

「二人とも、遅いわよ」

 病室の外で佑子が待っていた。前の開いた白衣から、黒いブラウスと白いスカートが見えている。同じ女性から見ても、ドキッとするほどカッコいい。


「でも、佑子さん。俺だって急いで来たんです。それにまだ、約束の時間まで十分もありますよ」

 小室が腕時計を見る仕草をした。さっきの涼子の真似だ。ちょっとずるい。でも、今度は相手が違う。


「医者を待たせた時点で遅刻なの。それが病院の常識。覚えておきなさい。

 志穂さんは病室にいるわ。もう目覚めてる。点滴の中に少しだけ精神を落ち着かせる薬を入れてるけど、効果はあまり期待しないでね。面会時間は決めていないけど、患者が不安定になったらすぐに打ち切るわ。それと、小室さんは最初は黙っていて。涼子さん、いい。女の子同士。自分の言葉で話すのよ」


 涼子はうなずいた。佑子の言葉を聞くと気持ちが引き締まる。

 部屋のプレートには志穂の名前しかなかった。昨日佑子が、鬼神のことがあるから相部屋にはできないと言っていた。個室の差額分も含めて、医療費は警察から出ているらしい。

 大きな窓にかかったカーテンは開け放たれていて、太陽の光が差し込んでいた。

 ベッドの上で半身を起こした人影が見える。逆光で暗い顔。それでもわかる。志穂だ。涼子が買った水玉模様のパジャマを着ている。


「わざわざ学校をサボって、お友達が来てくれたわよ。まあ、サボらせたのは私だけど。こっちは刑事さん。後で話があるそうよ。顔は怖いけど悪い人じゃないから安心して。ところで、気分はどう。ちゃんと話、できる?」


「大丈夫です、先生。ありがとうございます」

 志穂の左腕はまだ点滴の袋と繋がっていた。上半身を支えるために、枕や布団をベッドと背中の間に詰めるようにしている。右手はしっかりとベッドの手すりを握っていた。


「涼子、ありがとう」


「ううん。私の方こそ、顔見て安心した」

 色々と考えたはずなのに、いざとなると差し障りのない言葉しか出てこない。


「小室さん、そこの折り畳み椅子を出してくれる。三人分。病室で立ち話もなんでしょう」


「あ、ああ。気がつかなかった。悪い」

 佑子に促されて、小室がガチャガチャとパイプ製の椅子を動かし始める。


 志穂は淋しそうに微笑んだ。

「私ね、こんなになっちゃったんだ。こうして支えてないと、お尻が下に滑っちゃうの。踏ん張れないって、わかる。もちろんトイレにも行けない。訓練すれば一人でも行けるようになるって言うけど、それっていつのことなのかな」


「そのうち、そのうちよ。焦らないで」

 佑子が間に入ってくれる。


「でもね、考えるの。山田先輩はもう、どこにもいないんだって。私の足もそう。人を殺したんだから当然だって。わかっているのよ。でも、あの時ああしなかったら足がまだあったんだ。そう考えるとたまらなくなるの。

 涼子、いい。お願いだから今から聞くことに真剣に答えてね。私が殺した人。本当は、山田先輩だけじゃなかったんでしょう」


「えっ」


「気を遣わなくてもいいわ。嘘をつかれる方がもっと嫌。目が覚めてからずっと考えてて、ようやく思い出したの。最初に会った時よりも、山田先輩を襲った時の鬼はずっと大きくなってた。

 人を殺して食べると大きくなるんだって、あの鬼は言ってたわ。そういえばお風呂の排水口の近くに、小さい子どもの歯みたいなものが落ちてた。私、気づいちゃったの。私に取り憑いた鬼が、どこかで誰か別の人も殺してたんじゃないかって。ねえ、涼子。お願いだから正直に教えて。本当のことを聞いたからって恨まない。約束する。殺した人の数も名前も知らないなんて。私、耐えられないの」


「ごめん、私。知らない」


「知らないなんて嘘よ。鬼を倒した人たちと一緒にいたのに、聞いてないはずないわ。先生も、警察だっているのに。まさか涼子まで、私に嘘をつくの」


「本当に知らないのよ。ごめん、志穂。ごめん」

 涼子は本当に知らなかった。考えたこともなかった。でも、鬼が人を食べて大きくなることは知っている。もしかしたら……。浮かんでしまった疑念が胸に突き刺さる。そうだとしたら、たぶん、もう自分には何もできない。


 志穂の目の中に一瞬、見たこともない色が浮かんだ。

「その顔、嘘の顔ね。そう、わかったわ。みんな、優しいふりして、私を騙してるのね。でもね、涼子。他の人はともかく、あなただけは信じてた。同情とかじゃなくて、本気で助けてくれたって思ってた。それも嘘だったのね。ぜんぶ嘘。信じられる人なんて誰もいない」


「志穂、違うわ。信じて」


「辛いの。もう嫌なの。嘘じゃないなら、私を信じさせてよ」


「いい加減になさい」

 鋭い声で佑子が割って入った。


「そうやって決めつけても、何も解決しないわ。仮にあなたの体に棲んでいた鬼が他にも人を殺していたとして、どうしてそれを涼子さんが知ってると思うの。知ってるとしたら警察でしょう。あなたはああ言ったけど、警察はペラペラと秘密を話したりしないわ。

 ほら、小室さん。あなたが知っていることがあったら、この子に教えてあげて。嘘はつかなくていいわよ。どうせ最後まで隠しきれないことは、最初から隠さない方がいいんだから」


「まだ、裏付け捜査の途中なんだが」

 小室は苦しそうに言った。


「神三郎が聞き出してくれた。その、君の意識がないうちに、鬼神が子どもを二人喰ったそうだ。昨日、遺品の一部が見つかった。行方不明になっていた七歳と五歳の兄妹だ。貯水池の近くで遊んでいたところを襲われたらしい」


 志穂の顔面から血の色が消えていった。

「えっ、二人も……」


「君に責任はない。全部鬼神がやったことだ。もちろん、このことで君が罪に問われることもない。捜査記録でも、架空の猟奇殺人犯がやったことになる。

 君はその男に拉致されてから、犯人の乗る車で事故に遭った。犯人は死亡。君は両足と記憶を失った。過去の記憶は戻ったが、拉致されてから事故までの記憶が戻ることはない。そういう筋書きだ」


「みんなに、嘘を言えってことですか」


「嘘じゃない。鬼が猟奇殺人犯に変わっただけだ。それに君は騙されただけじゃないか。自分の意思で殺した人間は一人もいない」


「知ってるわ。そういうの、詭弁きべんっていうんでしょう。自分に都合のいいように関係ないふりをして。みんななかったと思えってことですよね。でも、私は前の私じゃないわ。みんな、私がどうされたか知っているんでしょう。何人もの男の人に乱暴されて、あんなことや、こんなこと……。

 私は、もう綺麗な体じゃないのよ。結婚もできない。それにもう、二度と自分の足で歩けない。生きていても一生、お母さんに苦労をかけるだけ。

 そんな私が三人も殺したのよ。そんな大きな罪、背負いきれると思いますか。なかったことにして、にっこり笑えって言うんですか」


「でも志穂は、あの時、人間に戻りたいって言ったわ」

 涼子は、思い出させるように言った。


「人間に戻って、罪のこともそれから考えるって。だから神三郎さんも、紫苑さんも必死になって助けてくれた。佑子先生もそう。みんな、一生懸命だった」


「それには、凄く感謝してる」

 志穂の声のトーンが少し落ちた。涙を自分の指で押さえる。


「でももう駄目。限界なの。もちろんみんなにはお詫びをするわ。お母さん、お父さん、弟、妹。友達のみんな。それに私が殺した人の家族にも、みんな謝る。もちろん鬼のことは絶対に言わない。もう歩けないけど、這ってでも行く。涼子、手伝ってくれるでしょう」


「うん、それは約束する。私が車椅子を押して連れて行く」


「ありがとう。そして最後の人に謝ったら、死ぬわ。人間として死ぬ。それでおしまい。私の人生もそれでおしまいにする」


「志穂……」


「頑張ってなんて言わないでね。耐えろとか、そういうの無理。佑子先生、ごめんなさい。せっかく助けていただいたのに無駄にしちゃって。でもそれでも、感謝してます。私を鬼から救ってくれたっていう探偵さんにも、式神さんにも。後で必ずお礼に行きます」


 涼子は何も言えなかった。言葉がない。志穂はもう決めている。

 佑子がベッドの横に座った。体を傾けて手をつく。医者というよりもは、まるで女優のようだ。こんな時だけれど。うっとりとするほど美しい。


「これから自殺しようって人に感謝されても、医者は喜ばないものよ。自分の言葉には酔わないことね。それで、どうやって死ぬつもり。楽に死ねる薬もあるけど、あなたにはあげられないわよ」


「もちろん先生にご迷惑はかけません。手首を切るか、高い所から飛び降りるか……、ううん。それは無理ね。足がないんだから、階段も登れない。バスにも電車にも乗れない。足がないって、思ったよりずっと不自由なんですね」

 涼子はハンカチで志穂の涙を拭いてやった。動揺が収まりかけてきている。今はむしろ、それが怖い。


「どう、提案なんだけど。どうせ死ぬなら、あなたの体を私にくれない。あなたを助けた式神は、まだ体の半分しかないの。体が戻れば、もっと強くなるわ。あなたみたいな人に取り憑いた鬼神を狩るのに、きっと役に立つと思う」


「私に、あの式神に食べられろってことですか」


「嫌かしら。もしそうしてくれるなら、痛くないように麻酔くらいは射ってあげるわ。わかってるとは思うけど。私たちは、あなたを無駄に死なせるために助けたわけじゃないのよ。兄さんは国に睨まれたし、小室さんだって、そのせいで減給になってる。せいぜい紫苑の餌くらいにはなってくれないと、割に合わないわ」


 涼子は一瞬、生き血のことかと思った。いや。でも違う。血は処女でないと効果がない。志穂は鬼神に取り憑かれる前に集団で乱暴されている。それはさっき志穂も、自分から語っていたことだ。

 まさか、本当に。涼子は佑子の目を見た。志穂の覚悟を見極めようとしているのか、視線はじっと動かない。


「わかりました。私の体が少しでも役に立つなら、鬼を殺すために使ってください。みんな先生に差し上げます」


「鬼神に食べられたら、骨も残らないのよ。死んだ体は役に立たないから、頭は最後。腕から腰、お腹、それから胸。あなたに、その覚悟はあるの」


「はい」

 その時志穂は、確かに微笑んだ。


「私を残さずに、綺麗に食べてください」

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