第2話 モウ1本多く運べるように

 ハロウィンの飾りが取り払われて、イルミネーションの準備が着々と進んでいく頃、パート帰りの十和子は背中で自分を呼ぶ懐かしい声を聞いた。思わず振り返る。

 「十和ちゃん、今年のボジョレーはどう?」

 「まぁ、まずまずってところかな」

勤め先のスーパーではいつものお客様からの予約が入ってきていた。正直に答えると、目の前で溜息をつかれた。

 「いいなぁ。やっぱり安定しているよね」

 「あら、まだお客様が戻って来ないんだ」

「そうなのよ。名前通りになったまま」

昨年冬、年末の忘年会シーズン到来と共にインフルエンザのシーズンも到来してしまい、人々は閉鎖された空間に足を向けなくなった。

 十和子の目の前にいるのは音無貴羽子(おとなし   きわこ)。元同級生で、中学時代は卓球でペアを組んでいた。2人の名前から「西中のキワトワ」と呼ばれ、市内で知らぬ者はいないほど強いペアだった。だが、40代になり商売が上手くいっていない今は、当時の面影はまるで無かった。

 貴羽子はカラオケ・ボックスを経営していた。先刻名前の通りといったのは、お客様が来ないカラオケ・ボックスは音が無いから自分の名字通り音無だという意味だ。落ちはあるものの貴羽子の生活を考えると、とても笑えない。とわいえ、十和子は経営の経験がないのでどうすることもできない。

 「お客様が来ればねぇ。みのりスーパーからボジョレー取り寄せて呑んでいただくのに」

と言ってくれる優しい貴羽子なのに。中学時代にはどんなに強い相手に対しても、赤いゴムが貼ってある丸いラケットを握りしめて果敢に向かって行ったのに。現在の十和子にできるのは、もし何か妙案が浮かんだらいつでも連絡すると約束し、念のために電話番号が変わっていないか確認することだけだった。

  

 「ただいま、遅くなっちゃってごめんね」

玄関を開けると、百代が飛んで来た。

 「お帰りなさい。お疲れ様」

 「静かね。千里は宿題が忙しいのかな?」

 「ううん。もう終わってお父さんと話してい

る」

「お父さんと?あぁ、今日水曜。早いのか」

島家の大黒柱・壱朗(いちろう)の会社は週の真ん中水曜日だけ16時終業という珍しい勤務形態だ。

 十和子は帰りが遅くなってしまったことが急に恥ずかしくなり書斎に駆け込んだ。

 「ごめんなさい。遅くなってしまって」

 「お帰りなさい。お疲れ様」

壱朗と千里は声を合わせた。

 「何を話していたんですか?」

十和子が恐る恐る聞くと壱朗が苦笑いして答えた。

 「思いもよらなかった大きなことだよ。僕の手には負えない」

今度は千里に尋ねる。

 「どうしたの?怒らないから言ってご覧」

 「防音工事ってどの位かかるのかと思って」

千里はカチコチになっている。

 「防音?楽器でも習いたいの?」

 「いや、歌を練習したいんだそうだ」

 「歌…」

十和子は絶句した。つくづく歌に縁がある日だ。千里が覚悟を決めたように話し出す。

 「僕は中学校から合唱団に入りたい。だから、思い切り歌の練習をして入団試験に受かりたいんだ。でも、今のままじゃ百代の勉強や父さんの読書の邪魔になるでしょ?近所迷惑になるのも嫌だし」

 「それで、お父さんにあの質問をしたの」

「うん。学校の音楽室で独りで歌っていたら、肖像画が怖くて声が出なくなっちゃったし。河原じゃリトル・リーグの子達が打った球が飛んで来て落ち着かないし」

千里なりに工夫してきたのだ。

 「他に思い付く場所もないし。どうしよう」

肩を落としている。十和子が貴羽子のことを切り出そうとしたら壱朗が言った。

 「腹が減っては戦はできぬだ」

 「あの、壱朗さん。今日は貴方が作って下さいませんか?私、思い付いたことがあるので千里と話したいんですけれど」

 「そうか。じゃあ、今日は僕が作ろう。その代り買って来た調味料を試させてくれ」

 「はい、構いません。有り難うございます。宜しくお願いします」

壱朗は喜んでエプロンをしながら台所へ向かった。

 「思い付いたことって?」

とんでもないことにならなければいいなと思いながら千里が聞いた。十和子は貴羽子の事情を話した。

 

 柚子胡椒を付けながら食べるおでんは好評を博した。まだ10歳にもなっていない百代には食べにくいかも知れないと心配しながら作ったが、一番喜んで食べたのが当の百代だった。

 「苦手な算数の宿題がもっと早くできていたら手伝えたのに!」

と、悔しがっている。千里はここぞとばかり切り出す。

 「まぁ、そうブー垂れるな。歌の上手い兄ちゃんが、新しい使命を与えてやろう」

1時間前は書斎で固まっていた少年と同じ子だとは思えぬ程の上から目線だ。

 「新しい使命?ランダムじゃあるまいし。なんなの、それ?」

 「映えある職務、牛乳当番だ!」

千里はここぞとばかり声を張り上げる。合唱団入りを目指すだけあって迫力あるいい声。

 「それは、いっい〜。うしどっし生まれにぴったりだぁ〜」

壱朗が調子に乗って歌うように言う。千里の美声は父である自分譲りだといわんばかりだ。

 「まぁ、確かに私のえとは丑だけどさ。お兄ちゃん、どうしたの?あきちゃった?」

兄が何の前ぶれもなく自分から始めた手伝いをやめると言い出すのが百代には不可解だ。

 牛乳当番というのは、週一回家から4〜500m離れた牛乳屋さんの奥にある保管庫から1000ml入りの紙パック牛乳を6本家まで運ぶという役目を指していた。代金は十和子がパートに行く前に1ヶ月分まとめて手渡している。

 千里は8歳・今の百代と同じ年の時に壱朗からこの当番を代わっていた。体育の授業で腕力の無さをクラスメイトに指摘されて悔しくなったかららしい。この当番のおかげもあってか、このところ指摘のきっかけとなった鉄棒はもとより、ポート・ボール等球技も得意となり張り切って取り組んでいるようだ。その兄が自らさらに鍛えられる機会を手放すとは思えないのだが…。

 「違うよ。挑戦したいことが出来たんだ」

 「なぁに?」

意外な真相に気が抜けて間抜けな声が出た。

 「合唱団の入団試験を受けるんだ」

 「へ〜ぇ」

思いもよらなかった。一緒にドラマやランダムなどのアニメを見ていても、主題歌を覚えて歌いたがるのは専ら百代の方だった。聞く専門だと思っていた兄が人前で歌う団体に入りたいとは。

 千里を変えたのは、半年前にカブ・スカウトに入団してきた崎元天音(さきもと あまね)だった。両親共に世界的に有名な声楽家の次男で、兄の将来のために方々駆け回るのに忙しくて天音に構えない親に、強引に入団させられたと嘆いていた。しかも、その3ヶ月後何だか良く分からない理由で急に辞めさせられていた。何故か千里はその父親に気に入られていたので友達関係は続けられていたが。カブ・スカウトが天音に取った態度がきつかったので熱が冷めてしまい、千里も退団していた。

 天音の願いは、兄を指揮者の道へ進ませてあげ自分が声楽家を継ぐことだった。でも、面と向かって父に言うのは怖かった。そこで、千里は周りから薦められる形を取る提案をした。天音は合唱団への入団を思い付いた。

 「一緒にやらないか?」

と言われた時は驚いたが。でも、試しにその日の音楽の時間に習った「星の世界」を2人で歌ってみたら楽しく思えた。千里の中学での目標が決まった。孤独な友達の側でその夢に協力するのだ。

 十和子は、貴羽子との日々を思い出しながら千里の話を聞いていたのかも知れない。息子にも同じような体験をして欲しいと。

 千里の説明を百代はじっと聞いていた。いつもはツンとしていたりからかうように話す兄が、真っ直ぐ前を向いて低い声で語っている。それだけ熱くなれる物が見付かったのだなと思った。だから、千里の話が終わった途端

 「分かった。やってみる」

という言葉がスッと出た。

 「来週、一緒に行ってやり方を教えてね」

 

 次の日、十和子は貴羽子に電話した。貴羽子は何度も何度も有り難うと繰り返した。電話の向こうで頭を下げているのが分かった。

 「ただね、いくつか協力して欲しいことがあるのよ」

 と言って、メモを取るように頼んだ。

 十和子は帰宅した千里にメモを渡した。千里は

 「速記みたいだな。貴羽子さんて早口?」

と呆れながら念のために読み上げた。

 「必ず私服で来る。裏に回ってインター・フォンを押す。指定された部屋を使う」

 「そう。何でか分かる?」

 「未成年が出入りするとPTA とかうるさいから?ってことは、中学に上がって制服着るようになっても着替えて行っていいってことだよね。合唱団入って仲間とも行きたいなぁ」

 「頑張ってね」

 「うん。裏に回ってインター・フォンっていうのも目立たないようにする工夫だよね。部屋を指定っていうのは?」

 「今、お客様が減っているからどの部屋も使われていない時間が長いのよ。機械を調子良くしておきたいから『今度はここを使って欲しい』というところを千里に指定していくんだと思う」

 「なるほどね。なんか、役に立っているみたいで嬉しいな」

 「保守担当って面があるから、カラオケ代は普通の半分にしてくれるって。お小遣いもそれに遣うなら相談に乗るわね」

 「分かった。喉に負担がかからないように通うね」


 次の水曜日の朝6時10分、百代は千里と牛乳屋さんの奥に向かった。寒さと緊張でブルブルする。兄さんはずっとこの寒さに耐えていたのかと思うとちょっと尊敬した。牛乳屋さんに着いた。自分に出来るかドキドキしてくる。保管庫は銀色に光っている。千里が扉を開けた。中は冷蔵庫のように仕切られている。上から3段目に島様と書かれた札があった。千里が腕を伸ばし、牛乳を素早く取ってかごに入れた。1本、2本、3本。

 「持ってみるか?」

 「うん」

ずっしりきた。歩けない。

 「ごめん、無理」

千里が1本サッと抜いた。

 「これでどうだ?」

 「うん、平気」

そのまま一旦家まで帰った。

 また保管庫の前に戻って来た時千里が

 「扉を開けてみるか?」

と言った。

 「うん」

開けてみた。思ったより軽くてホッとした。

 「取ってみるか?」

 「うん」

腕を伸ばした。やっぱり冷たい。お兄ちゃんって凄いな。今度から私がずっとやるんだなと思った。少し大人になった気分で、しっかりと牛乳をつかんでかごに入れる。1本、2本、3本。無事入れられた。急いで扉を閉める。千里が手を当ててきちんと閉まっているか確認してくれた。次からは、これも自分でやるんだ。

 「何本持つ?」

 「2本」

 「よし、頑張れ。玄関は開けてやる」

 「ありがとう」

家に着いたら十和子が

 「有り難う。良く出来たね。良かった」

と言ってくれた。

 「僕ん時言ってくれたっけ?」

千里がスネている。

 「言ったと思うけれどなぁ〜」

十和子が珍しくおどけたので笑った。

百代は無事初めての牛乳当番を終えた。手伝ってはもらったが、落としたり間違えたりせず一連の動きを確認出来たのが自信になり、次の週からは自分だけでやってみることになった。

 

 次の水曜日が来た。百代は違う曜日より目覚まし時計を15分早めてきちんと起きた。顔を洗って髪をとかしてジャンパーを着て、独りで牛乳屋さんへ向かう。遊びに行く時はあっという間に通り過ぎる保管庫が今朝は妙に遠い。ドキドキ、ドキドキ。やっと着いた。扉を開ける前に深呼吸をする。スッと吸ってゆ〜っくり吐いた。扉を開ける。島様の札の下に、ちゃんと6本の牛乳がある。ホッとした。素早く2本取り出してかごに入れる。扉を閉める。閉まっているか確認して家へ向かう。

 家に着いたら十和子が

 「ご苦労さま」

と出迎えてくれた。

 「あと2回ね」

 「分かっているわよ。急がなくていいわ」

 「うん。行って来ます」

 「気を付けて」

6時30分までに無事済んだ。本当にホッとした。牛乳を取りに行かれるのは各家決まった曜日の朝6時からの30分以内で、6時30分を過ぎると牛乳屋さんの方で引き取って割引の販売に回されてしまうのだ。たとえ取り損ねたとしても代金は1ヶ月分支払うという決まりになっていたので、百代がミスをすると家計の負担となる。距離は短いが中々重要な役割なので、兄さんが「使命」とか「職務」と言っていた意味も今なら分かるような気がする。

 百代が牛乳当番を引き受けたのは、千里がもし入団試験に受かって合唱団に入ったら朝の練習が始まるからという理由からだったが、十和子には別の思惑もあった。今の内に朝何らかの作業をこなす習慣を付けておくと後々楽になると思っていたのだ。


 百代がもうすっかり水曜日の朝の寒さに慣れてきた頃、新しい年が明けた。なんだか次の目標が欲しくなった。1度に運ぶ本数を増やしてみようか。思い切ってかごに3本入れてみた。バランスが悪い。サンダルが脱げそうになった。あわてて扉を開けて1本戻す。怖かった。悔しかった。兄さんはいつから3本いっぺんに運べるようになったんだろう?男の人の方が力が強いって本当なんだな。3歳しか違わないと思っていたのに差ってあるんだな。色々なことを思った。

 3本いっぺんに運ぶアイデアは思わぬところから見付かった。その週のランダムだ。海王星人から「お餅が食べてみたい」という願いが届き、ランダムがつきネリがこねた。丸めたお餅を海王星行きロケットに乗せる直前、ネリがお餅が固くならないようにともう着なくなった洋服でお餅がのってラップがかけられたお皿をくるんだのだ。百代は思った。そうだ。牛乳全体をくるんで運べないだろうか。

 

 次の水曜日が来た。百代はジャンパーを着ている。いつものように扉を開けて牛乳を2本かごに入れた。それから、思い切ってジャンパーのファスナーを開けて、牛乳を1本入れて歩き出す。歩きにくい。立てていてはだめだ。ファスナーをまた開けて、牛乳を横向きにしてみる。冷たい。でも、収まりは良くなった。寒い時期はそれを続けた。兄さんはこの方法を試したことがあるだろうか?自分しか思い付いていないかも知れないと思うと、何だか嬉しかった。

 

 すっかり慣れて楽しくなった牛乳当番だが、1回だけとても悲しい事があった。2月中旬の奇しくも百代がもうすぐ9歳になる頃にそれは起こった。いつものように扉を開けると島様の札の裏に何か白い物が見えた。引っ張ってみると簡単に取れた。絵が

描いてある。ロボットのようだ。どこかで見たような?あ、ランダムだ!百代は嬉しくなって紙を大切にかごの底にしまった。あとでゆっくり見よう。まずは牛乳だ。いつものように2本をかごへ1本はジャンパーにすべり込ませる。家に戻った。牛乳と一緒に紙も十和子に渡す。後でゆっくり見るからテーブルに置いておいてと言いながら。十和子は

 「あら、ランダムね。良かったね」

とニコニコしている。長い間一緒に見ていたので、お母さんも覚えたんだなと嬉しくなった。

 無事牛乳を冷蔵庫にしまって、手洗いうがいをして、やっとゆっくりランダムが見られる。一番上にいつもお疲れ様と丁寧な字で書かれ、ランダムが大きく描かれている。細かいところまで正確に描かれていて凄いなぁと思う。宝物にしようかな?ところが、その真下に書いてある文字を読んだ時、あまりにもショックで百代は震えてしまった。そこにはこう書かれていた。

 「千里君 いつも寒い中牛乳を取りに来てくれてありがとう!ランダムは好きかな?喜んでくれると嬉しいな 飯綱 美雪(いいづな みゆき)」

牛乳屋のお姉さんからだった。でも、自分宛じゃなかった。悔しくて泣いてしまった。もちろん、お兄ちゃんが悪い訳でも、美雪お姉ちゃんが悪い訳でもない。でも、悔しかったし、悲しかった。また、涙が出て来た。気付いたお母さんが手紙を読んで、抱き寄せてくれた。でも、しばらく泣きやまなかった。


 次の水曜日、家を出る前に十和子が百代を呼び止めて聞いた。

 「大丈夫?行かれる?今日だけでも代わろうか?」

 「ううん。大丈夫。行ってくるね。冷蔵庫前で待っていて」

 「分かった。気を付けて」

 扉を開けると、また札の裏に紙があった。ランダムが描いてある。かごの底に入れる。牛乳2本と1本、所定の位置に入れる。運ぶ。2回繰り返す。牛乳が収まった。手を拭いた。うがいをしてテーブルに戻る。ランダムと再会だ。また、ランダムの下にメッセージがある。驚いた。今度は、百代は歓声を上げた。

 「百代ちゃん 飯綱牛乳、そして牛乳当番へようこそ!いつも頑張っていますね。悲しいことがあったらこのランダムを見て下さい。お姉さんもランダムが大好きです!これからもよろしくね 飯綱美雪  」

 今日、牛乳当番をして良かった。お姉ちゃんもランダムが好きだったんだな。嬉しいな。百代はまた泣いてしまったが、お母さんは笑っていた。

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