第8話 約束
◇◇◇
ラミーと別れて、しばらく——。
「お、どうやら“タイマン”の発動条件を満たしたようだな」
画面は相変わらず出ない。けれど、わかる。筋肉が一段噛み合って、関節の遊びが消える。息が整い、視界の縁がすっと明るむ感覚。基礎値が底上げされ、身体そのものが“軽くなった”。ラミーは完全にターゲットから外れた。気配の糸が、俺一人にだけ括り付け直される。
そしてもう一つ、確実に分かることがある。——俺は、まだ外れていない。
——ギャオオオオオオオオウ!!!
背後で“存在の宣言”。地面の芯を叩く重い足音が、張り付いたまま、律儀に少しずつ詰めてくる。足音と足音の間に、獣の呼気が混じる。熱く、湿って、鉄の匂い。
(ユニークスキル“タイマン”。格上に1対1を挑むと基礎ステータスが倍化——いつも通りの効果。
……でも、学園生活編を上がったばかりの数値を倍にしたところで、あの化け物を前に五分ともたない。いまの俺は、“優等生”じゃないから)
——きっとラミーも、それは分かっている。
◇◇
(——ここは……)
木々が途切れた。丸く抉れたみたいに、ぽっかりと空の抜ける広場。ベタ土に低い草、周縁だけを取り巻く若木。見覚えのある地形が脳裏をかすめる。思い出すより先に、体が動いた。
反転。踵を返し、始まりの災厄——ディノケンタウルフへと真正面から加速する。靴底が薄く滑り、土が後ろに散った。
不意の軌道変更に、巨体がわずかにのけぞる。背筋が波打ち、上体が浅く起きた——わずかでも“隙”。
「さて。……不本意なアカウントとはいえ——試せる時に、試さないと」
口の端が、勝手に上がる。自嘲と、ほんの僅かな興奮。
「なぁ!!」
攻撃に極振りしたままの数値を、純粋な慣性に変えて、渾身の素手を胸骨めがけて叩き込む。拳が鱗を掃き、肉を沈ませ、硬いものを僅かに鳴らした。
——ギャオォン!?
想定外の衝撃だったのか、怪物が間の抜けた声を漏らし、たたらを踏む。上半身のトカゲがのけ反り、狼の胴が半歩引く。
「ステの極振りは育成の定番ですよねっと!!」
反動で距離を取り、呼気を一拍整える。拳に痺れ。皮膚の内側が熱を持つ。
「……あれ、もしかして通ったか?」
(このまま畳み掛ければ——いける……?)
淡い期待が芽生えた瞬間、巨体が“ぶれた”。視界がわずかに、妙な軌道で流れる——次の瞬間、耳まで裂けた両顎が、これでもかと開いて左から迫る。生臭い熱風が頬を焼く。
——バグンッ!
「うわ! っと、危ねぇ!!」
後ろへ跳ねて噛みつきを紙一重でかわす。風圧だけで胸板が軋む。間髪を容れず、上から前脚が振り下ろされた。影が落ち、世界が一段暗くなる。
反射で両腕を上げる。
——ブチブチブチッ!
直後、筋繊維が裂ける音を“内側”で聞く。鋭い爪が前腕を布みたいに引き裂き、体は軽い紙屑みたいに宙へ放り上げられ——空気を掴むように吹き飛んだ。背中に土が刺さり、肺の空気が逆流する。
「っぐぁああぅ……!!」
声とも呻きともつかない音が喉から漏れる。体勢を立て直す間もなく、もう一撃。今度は真上から、脇腹めがけて。
——ドパッ。
革鎧が易々と割れ、ぬるいものが一気に溢れ出す。皮膚の裏側から“熱”がこぼれる。半拍遅れて痛覚が追いつき、視界の色が白く瞬く。
「へぇ。一撃かよ……」
うつ伏せに倒れたまま、乾いた冗談が口から転がった。舌の上に土の味。あばらの一本一本が自分の重みで軋む。
——ドックドックドックドック……
(腹……熱っちい……これ、なんだ。……血か。血って、こんなに熱いんだ……)
脈動が傷口を叩くたび、意識の輪郭が遠のく。耳鳴りが高く細く伸び、森の音が“膜”の向こうへ退いていく。
(……リアルすぎる)
現実で腹を割かれたことはない。けれど、この嫌な拡がり——皮膚の内側で熱が水溜まりみたいに広がっていく手触りは、俺の知らない“死”の形に酷似していた。
「ぃてて……やっぱこいつ、チュートリアルのボスなんかじゃねえな……」
——グギャオオオオオオォォゥ!!!
勝ち鬨の咆哮。けれど、その眼はもうこちらを見ていない。食う価値もないと判断したのか、関心がすっと逸れる。獲物としての優先度が、音を立てずに落ちる。
出血に、意識が遠のく。指先の感覚が順に消えていく。冷えが足から這い上がり、背骨の上で丸くなる。
(まあ——狙い通りだ。アバター死亡で強制ログアウトが発動、のはず……)
その“仕様”に、薄く縋る。縋りながら、まぶたの重さを受け入れる。
◇◇
「ファーストと一緒なら、きっとあたし楽しい冒険ができると思うんだよね〜」
「ねぇ! あたし等さ——これからもずっと2人で、組んでかない?」
恥じらいは見せない。けれど、尻尾は動かない。固まったまま、微細に震えていた。
「俺もお前と一緒なら、退屈はしなさそうだな。……いいぜ」
自然と出た答えは、肯定。
「ッ——やった……やった! 嬉しい! これからよろしくね! 私の“パートナー”!!」
満面の笑み。勢いよく振られる縞の尾。胸の奥の、忘れていた柔らかい場所が温かくなる——ラミー。
◇◇
——嘘だった。
二人で転移門に入り、視界が光で満たされた瞬間、俺はすぐさまログアウトし、ファーストという名前と、そのアカウントを捨てた。
少しでも長く居たら、きっと彼女との冒険に——いや、彼女に、どんどん惹かれてしまうと思ったから。惹かれれば、いつか“守れない約束”が増える。だから、切った。
そして今度は、絶対に死なないという約束まで破った。
「ラミー、ごめ……守れない約束……——」
言い切る前に、意識は断ち切られた。視界の端に、白い花弁が一枚、土に貼り付いているのだけが見えた。音も、匂いも、熱も、すべてがそこでふっと、遠くなる。
◇◇
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