第9話 わんこ
図書館で働いていて、なんとなくいいなあ、とか思う瞬間がある。
それは誰もいない薄暗い書庫を歩いている時だ。
昼なお薄暗い、背の高い書架が規則正しく佇立する中を歩く。
みんなより遅くなった昼休み。書庫には本当に誰もいない。今の時間、書庫に待機しているスタッフは2フロアーある書庫の下の階が担当なのだろう。今日は平日だから書庫出納も少ない感じだから、本当に静かだ。
慣れ親しんでいるはずの場所だけど、ちょっと暗いだけで探検気分を味わいながら書架の間を歩く。このほの暗さは省エネ目的でフロアーの電気を消しているからなんだけど、奥に小さく明かり取りの窓があって、そこから差し込む光が書庫に少しだけ影をつくっていたりする。
いやあ、なんか、いいね。
昼休みの時間、書庫出納の業務の邪魔にならないようにだったら自由に閲覧することができる。とは言っても読みふけったりすることはない。背表紙を眺めて、興味の出たものを手にとってぱらぱらめくるだけ。下の階に行けば端末があるので、どうしても読みたいものは貸し出し作業を自分でして休憩室で読む、のだけど、あまりそんなことはしたことがない。
こうやって眺めているだけで、なんか気分がいい。読まなくて十分堪能できる。出納のときの勉強になったりもする。
今日はでも、ぶらぶら歩きをするために来たのではない。ちょっと本を探している。というか、さっき貸し出していた本を書架に戻す排架のローテーションだったんだけど、その中の二冊の本が気になって見にきたんだ。さっき自分が排架したものだから場所はすぐにわかる。
このフロアーの一番奥まった場所。窓からの明かりも届かない、まるで本が眠っているような場所。
その本たちの目的にはまったくそぐわない場所。なんでこんなところに所蔵しているのか疑問に思う。
ここは絵本たちの棲家だった。
暗く滲んだ空間に色彩のトーンダウンしたカラフルな本たちが圧倒的な物量をもってそこにあった。
二冊の本は絵本だった。二冊ともある動物を題材としていた。
わんこ……、犬だった。
表紙に犬の絵があった。
ちょうど排架している時に、小さい頃飼っていた雑種のミミーのことを思い出していた。この絵本を見て思い出したのか、それともその前からだったのか、何かの兆しがボクの脳細胞を刺激したのか……。その時からずっとこの本が気になって仕方なかった。
ミミーには悪いことをした。小学三年生の頃から飼い始めて、情緒不安定だった中学高校を経た頃に死んでしまった……。犬の寿命は短いけど、通常よりも短いように感じる。それはやっぱりボクのせいかもな。
あった。一冊目は表紙に単色で描かれた寂しそうな犬がこっちを向いている。ちょっとぱらぱらめくってみる。もうダメだ。初めの段階で、犬が捨てられる場面で目が潤んできた。
ダメなんだよな。こういうのを見ちゃ……。最近涙腺が半端なく緩いんだから。
でも最後はハッピーエンドで良かった……。そんな最後にまで涙が溢れそうになってくる。
ぐっと我慢の男の子だ。いやオッサンだけど。
気を取り直して、もう一冊も見てみる。
さっきの本は壁に寄りかかって見てたけど、今度の絵本の配架位置は下の方だったので、堅い体で便所座りの姿勢で読み始める。
こ、これはアカンヤツだ……。とってもダメだ。
さ、最後まで見れない。もう最初の段階から涙の予感しかしない。少年と飼っていた犬は同じようにだんだんと成長して、だけど犬の方だけがいつしか少年を追い越して歳をとっていって老いていって……。
ダメだ。もうダメだ。涙が……、留めていたけど、もう限界にきている。涙が落ちそうになる。まずい、耐えなければ、耐えろ、耐えろ。
「先パイ」
!!!!!!!!!!!!!!!!!
い…、あ…、と…、な…、なんで……?
「どうしたんですか? こんな薄暗がりで……」
まあ、そうなるよね。不審に思っていた顔がますます不審になっている。
当たり前だ、もう四十も越えたオッサンが顔を赤くして泣きそうになってるんだから、何事が起きたと思うだろう。はっきり言ってキモイだろう……。
でも、まあ、内心はどうあれ、同じスタッフでバイトの大学生の女子は、いつものようにアンダーリムの眼鏡を少し持ち上げただけだった。
「先パイが泣くなんて」
「泣いてなんかないよ。ちょっと……」
「ゴミでも汗でも花粉症でもないでしょ」
「はい……」
もうなんというかなにも言えない。さっきから目元に溜まっていた涙がどうっと流れて慌ててシャツの袖で拭いている。
後輩であるうら若き女子は、きつめに縛ったポニーテールを揺らして小首を傾げる。
「先パイが絵本を見て……、驚天動地ですね」
「聞き捨てならんね。なんかボクのことを冷酷無比な人間とでも思っているのかね。ボクなんてきわめて純真無垢な心を持った……」
「はいはい……」
四文字熟語の倍返しなどさほど気にするわけでもなく、興味はボクの手元にあるみたいだ。
まだ持っているのだ。握っているのだ。絵本を。
「今日は遅出のシフトなのかい?」
「ええ、そうですね。挨拶しようと、ちょっと探していたんですよ」
「気になるかい?」
「……はい。とっても……」
そこだけ力強く言われてもなあ。別に図書館の本なんだから誰が読んでもいいんだけど、ついさっきまで読んでいたものだからなんとなく気が引ける。自分の思考を読まれそうで。感情の起伏が何によってもたらされたのか、知られるのはなんか恥ずかしい。
でも、まあ、いいか。
ひょいとその絵本を手渡した。
「ありがとうございます。大学で絵本の授業をとっていて、あの、その大人の人が泣くほどの絵本に興味があって」
「言い繕わなくていいよ。オッサンが泣くなんて、だろう?」
「はい……」
おいおい。そこの返事はもう少しオブラートに包もうよ。と思ったら、早いものでもう読んでいる。
ぱらぱらとボクより早いスピードで、もうボクが読み進めた先までいっている。
その真剣な眼差しで食い入るように貪るように見ている。真面目だなあ。外見もそうだけど中身も真面目なんだよな、この子は。
なんて思っていると、急に鼻の頭を赤くし出した。眼鏡のレンズが白く曇っている。
「ふぐ……、うぐ……、ううっ……」
ちょ、ちょっと、どうした?
いや、わかるけど。この本読んだらわかるけど。
もう決壊は早かった。猛スピードだ。
号泣だった。涙は止めどなく溢れ流れ落ちていく。
嗚咽が、割と大きな泣き声が静かなだけの書庫に響いていく。
どうしよう。まずい。女の子の慰め方なんてよく知らないんだけど……。
「ちょ、ちょっと、大丈夫か」
「ず、ずびばぜん。へぐ、あぐ、あ、の、この、まえ、ふぐぅ、カプちゃんが、死んじゃって」
「カプ、ちゃん……?」
「か、飼って、い、た犬なんです。ず、っと、あうぅ、一緒に、いた」
そ、それは悪いことをした……。
いや、これは不可抗力というか……。
「それは、ご愁傷様というか」
「ああ、ううぅ、うぐ……」
「なんか、ごめん……」
ボクの言葉のせいじゃないだろうけど、その後堰を切ったように大声で泣き出してしまった。
もう、いったいぜんたい、どうしたらいいのやら。
やっぱりボクのセイなのか? こんなに泣かせてしまって……。
いーけないんだ、いけないんだ、せーんせーいに言ってやろう。
その泣き声を聞きつけて、スタッフとか職員とかが集まりだしてきた。
まあ、もういいや。しょうがない。
案の定、というか、まあ、そうなるだろうね、というか、チーフに怒られた。ボクは割と必死にボクのセイという線で事態が収拾するように弁解した。チーフの顔を見るとなんかわかっているみたいだけどね。どんなことでも泣かせたボクが悪いということだ。それでいい。噂にはなるかもしれないけど、そこは仕方ないし、チーフがなんとかするだろう……。まあ、二人とも休み時間だったのが幸いだった。
今回は、なんか、反省した……。
世の中にはこんな爆弾があることを、心に留めておかないと……。本当に用心しないと……。
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