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 私はまだ、諦めていなかった。

 中兼から推理を聞かされた、次の日だった。私は、授業にも出ないで、せれな先生のレッスンもサボって、レコード屋の周囲を、じっと張り込んでいた。

 まだ手はある。彼女の適当な推論が、真実だと証明されたわけじゃない。これを覆す方法は、たった一つしかなかった。

 本人に、直接確認を取ること。私は、朝からずっと、老人が現れるのを待っていた。苦情の件もあるから、店員には見られないように、店から離れた位置で見張っていた。誰が入店するのかどうかは、ここにいたって十分にわかった。

 ギターは、置いてきた。学校にも行くつもりは、なかったからだ。それだけで、こんなに身体が軽いとは思わなかった。

 見てろ、中兼……。

 私はずっと、マンダラバンドを聴きながら、彼女に対する憎しみを燃やしていた。

 昼食のために、買っておいたパンを齧っていると、私の待ち望んだ瞬間が訪れた。

 老人が、ここへ通じる道路を歩いていた。認めたときは、声を上げて小躍りしそうにもなったが、私は唾を飲んで、彼を見つめた。間違いない。服装のバリエーションもないのか、前に見たときと、何も変わっていなかった。中兼はボケていると言っていたが、その年齢の割には、ずっとしっかりした歩き方が健在だった。

 彼が入店する。プログレコーナーまでは、二十歩程度。新入荷の棚から、目的のレコードを探し出すまでに十秒もかからない。会計の混雑具合はわからない。そろそろ出てくるだろう。

 そこで計算が狂った。出てくるはずなのに、一向に彼は姿を現さなかった。もしかして、本当にレジが混んでいたのか。それとも、いつの間にか外に出ていたのか。

 どうする。

 中に入って確認してもいいが、店員に変な顔をされるのも嫌だった。出入り口は、他には無いはずなのに。

 確認不足だったか。雑居ビルだ。何処か、裏口に非常階段でもあって、そしてエレベーターが満員にでもなっていて、諦めた彼が、裏口から既に出ていったのであれば、私の見張っている表側に出てこないのも、不思議な話でもない。

 私は動いて、ビルの裏側に回って確かめた。外壁に沿うような形の非常階段は、想像の通りそこにあった。けれど、鎖が掛けてある。見上げると、レコード屋のある階の扉も見えた。これを使って、誰かが外に出るとは思えないが……。

 周囲を見回す。比較的開けているのに、老人の姿はない。何処に行った。私は、焦燥を覚える。置いていかれるような、寂しい気持ちになった。

 表に回った。入店しようか迷っていると、道路の先の方に、老人の後ろ姿が見えた。

 しまった。

 私が裏に回っている間に、この男は出てきたのか。私は、自分の運のなさを呪った。

 急いで、彼を追いかける。走った。背中が大きくなって来る。脇には、レコードを抱えていた。そして声をかけようとするが、彼は私に気づいた。

「な、なんだ君は」

 彼は、身を固くした。

「お前だな! 店員に、あなたのことを探ってる女がいるって、言われたんだよ!」

「ちょっと待ってください! 私は……」

「来ないでくれ! 私のことは放っておけ! 学校に訴えるぞ!」

 そこまで言われて、私はその場から動けなくなった。縫い付けられたみたいだった。

 老人は、気持ちの悪い私から、急ぐように離れていった。すぐに角を曲がって、消えた。何処に行ったのか、もうわからなくなっていた。

 失敗した。

 もう、最後の手段も潰えた。老人は、私を認識した。もうレコード屋にも彼にも、近づくことは出来ない。

 その事実を認めると、どこか心が軽くなるような気がした。そして、同時に学校もレッスンもサボったという自らの現状が、急に恥ずかしくなった。笑いさえ、こぼれてくるくらいだった。

 なにやってるんだろ。

 本当に、何をやっているんだ。

 疲れた。

 横の自動販売機で、私はジュースを買う。炭酸だった。それを、すぐ近くの公園に持っていって、ベンチに座って、封を開けて飲んだ。喉が痛い。その痛みが、手首を切るみたいで気持ちが良かった。

 目をつむった。もう何も見たくなかった。自分の姿が、見えなくなればいい。

 暗くなるまでそこにいて、帰った時には、母親にひどく叱られた。



 部活。隅で、ただ暇を潰すような時間。

 紗良がやってくると、私を心配そうに見つめた。中兼の推理は、サークル内に広まっていた。本当かどうかは確かめていないのに、本当の事であるかのように、扱われていた。

 紗良は、私に言った。

「ねえ、奈津乃。あの老人のバンドメンバーだったって人の家、見つけたんだけど」

 少し前なら喜んでいたのだけれど、もう遠くで響く鐘みたいに聞こえた。

「……紗良は、優秀ね」

「たまたま、知り合いの中に知ってるって人がいただけ」紗良はうつむく。「……行ってみる? 許可は貰ってないけど、奈津乃の気が済むんなら、付き合うよ」

「どんなところ?」

 彼女は、紙に書かれたメモを私に見せた。眺めると、綺麗な字で書いてある。

 私の最寄り駅と同じところだったが、そこからは遠い場所にある、普通の古いマンションらしい。子供の頃に、前を通ったか通っていないかくらいの記憶しかなかったが、何処にあるのかははっきりとわかった。

 ここに住んでいるのはメンバーの、ボーカルだった男性。今や、あの老人と同じくらい老け込んでいるだろう。一人暮らしだと、この紙には書いてあった。何処からこんな情報が出てくるのか、私には見当もつかなかった。

「長い間、そこで暮らしてるみたいなんだよね」紗良が、紙を指しながら、補足した。

「へえ……そうなんだ……」

「行ってみる?」

 迷うまでもなかった。結局、今までと同じだ。そんな情報を得たって、真相になんか近づけない。意味がない。バカバカしいとさえ思った。

「……やめとくわ」

「もう良いの?」

「だって……レポート、しないといけないでしょ?」

「そうか。まあ、由麻の推理で、みんな納得はしてるみたいだし、あれから老人の話題も薄くなったよね」紗良は、何処か嬉しそうに言う。「レポートも、手伝おうか?」

 私は、白紙のレポートを思い浮かべた。結局、何も書いていない。あれから頼み込んで提出期限を、私だけ延ばしてもらったのだけれど、ただ執行猶予がついただけで、そのまま終わりそうだった。内容も決まらない、一文字も、思い浮かばない。いよいよ本当に、単位を落としてでもすっぽかしてしまおうか、と悩んでいるところだった。

「良いよ、自分でやらないと」口ではそう言った。「それに、今日はギターのレッスンがあるの。最近サボり気味だったから、出ないと」

 そうだ。

 銀川せれな。

「奈津乃、頑張ってね」

 銀川せれなという強力なカードが、私にはあった。



 せれな先生の家に行くと、彼女はいつもと同じような、だらしのない格好で私を出迎えた。

 けれど、すぐに私の様子に気づいて、レッスンに使っている部屋ではなく、リビングに案内した。そして、慣れた手付きでコーヒーを淹れる。

「奈津乃ちゃん、疲れちゃった?」

 私の前に腰掛けて、コーヒーにも手を付けないでせれな先生は、その妙に美しい顔を私に向けて、にこりと微笑んだ。

「先生…………」

「良かったら、あの老人のことを、私にも話してくれる? ずっと調べてたんでしょ?」

「調べてたんですけど……先を越されたんです。部長に……」私は俯きながら、ミルクを入れたコーヒーの水面を睨んだ。ぐるぐると交わる液体を見ていると、動物同士が交尾をしているのを、じっと眺めているような感傷を覚えた。

「まあ、奈津乃ちゃんは気負いすぎるから。ほら、深呼吸して」

 言われたとおりに、深く息を吸って、内臓でも吐き出すくらいに出した。

「落ち着いた?」先生は頬杖をついて、私を覗き込んだ。

「はい……。なんだか、だいたいのことが、もうどうでも良くなりました」

「じゃあ、調べたことを、私にも話して? それから、部長の推理も」

 私は、これまでのことを、詳細に説明した。何処から話せば良いのか、わからなくなってきたけれど、せれな先生が聞きながら、わかりやすく整理してくれたので助かった。

 話を聞き終えた先生は、腕を組みながら、ふーんと鼻を鳴らした。その表情は、少しも暗い部分を見せなかったので、私は期待してしまう。

「部長さんの推理も、悪くはないし否定できないけど、結局のところ、確実な証拠はないわ。孫なんていないとなったら、一発で崩れるもの。それを信じるのは、早計よ」

「じゃあ……何か、他にあるっていうんですか」

 私が尋ねると、先生はコーヒーを暇つぶしに飲んでから、とんでもないことを言った。

「会いに行って見ようか、その人に」

「え……? 誰に?」

「マンダラバンドのレコードを買い続ける老人よ」

「知ってる人なんですか?」

 このよくわからない先生なら、もしかしたら、そんなツテでもあるのだろうと、一瞬本気で考えたのだけれど、すぐに先生は首を横に振ってから、口を開いた。

 レコードプレイヤーの方を、指で示しながら。

「知らないけど、レコードは持ってるわ。マンダラバンドのセカンドアルバム。これを売ると、その人が来るんでしょ?」

「それ使って釣るんですか?」その手があったかと思いながら、私は言う。「でも、どうやって連絡を取るんですか。見張るんですか? 私、顔が割れてますから近づけませんよ」

「そうねえ……」せれな先生は少しだけ考えて、答えた。「私が行っても良いんだけど、もっといい方法があるのよね」



 せれな先生がレコードを売ろう、と言い出した日から数日が経った。

 その間、私は毎日、彼女の家を訪れていた。せれな先生が言うには、老人から直接電話がここに掛かってくるのだと言うが、どういう仕組みになっているのかを尋ねても、意味深に微笑むだけで、具体的なことは何も教えてくれなかった。

 今日も学校が終わって、先生の家に向かった。本当に、電話なんか掛かってくるのか、未だに私は疑っていた。

 先生の家に上がると、リビングの固定電話で、彼女は電話をしていた。まさかとは思ったが、すぐに頭で否定した。そんなわけない。中兼でさえ、直接に老人とコンタクトを取るなんていう方法に、成功したわけではない。

 先生は、電話を切った。その顔を見るだけで、私は電話の相手が誰だったのかを、窺い知れるほどだった。

「さ、行きましょう、奈津乃ちゃん」

「さっきのって……」

「ええ、あの老人からの電話」

 先生は、今まで着ている所を、一度も見たこともないような上着を、部屋の隅から見つけてきて、それを羽織った。

「近くの公園で待ってるって。あんまり待たせちゃ悪いわよ」



 O駅の近辺、せれな先生の家がある住宅街から、ずっと登って行ったところに、小さめの公園があるというのは、私でも知っていた。実際に、そこで遊んだことがあるわけではなかった。

 砂場と、ベンチと、滑り台。たったそれだけしかない空間に、あの老人が、静かに座っていた。

 本当に、餌にかかったのか、と私は思った。

 せれな先生は微笑みながら、彼に近づくと、軽い会釈をした。彼も私の姿を見つけてなにか言いたげだったが、とにかく黙って頭を下げた。

「すみませんね、こんな所で」と先生は、申し訳無さそうに言った。「喫茶店にでもしようかと思ったんですけど、不味いコーヒーを出されるのも嫌ですから」

「…………どういうことだ」

 老人は、脇にレコードを抱えていた。また買ってきたのか、と呆れそうになったが、どうやらせれな先生が売ったもの、なのだろうか。

 彼は紙を一枚取り出して、せれな先生に尋ねた。

「どうして、捜し物のことを、あんたが知ってるんだ」

 紙を、せれな先生が受け取る。手元を、私は後ろから覗き込む。

 書かれていた文面。

 ――捜し物のことでお話があります。以下の番号に連絡をください

 これを一緒に挿入して、店に売ったのか。

「いえ、その確認がしたかったんですよ。えっと、お名前は? 私は銀川せれなです」

「…………杉岡だ」

 せれな先生は彼の名前を聞いても、どうでも良さそうに話を続けた。

「悪いんですけど、どうして同じレコードを買い続けていたのか、あなたの口から聞かせてもらえませんか?」

「…………くだらん話だ。言いたくもない。教えて何になる。どうせ、馬鹿にするんだろう。馬鹿な大学生の間で、私がおもちゃにされてるって、店長が言っていたぞ」

「写真を探していたんじゃありませんか?」

 ――。

「どうして、それを」

 杉岡と名乗った老人の、表情が揺らいだ。

「推測ですよ、勝手な」せれな先生は、指を一本立てて、言う。「まず、あのレコードはさほど出回るわけでもないですけど、プレミア品ではありません。これを使って、転売で儲けるっていうのも、遠い話かなって思いました。では、マンダラバンドのセカンドアルバムに思い入れがあって、愛ゆえにできる限り買い集めたかったのか? それも違うんでしょう。この子、奈津乃ちゃんが言っていました。あなたは、レコードを床に落とした所で、さして慌てる様子もなかった、と。思い入れのある、大好きなアルバムを買ったっていう人の反応とは、どう考えても違いますよね。それに、あの店の商品の扱いは、かなり悪いです。美品を狙って買いたいなら、違うお店にするでしょう」

 老人は俯いて、何も言わなくなった。

「そもそも、ネットオークションや、フリーマーケットサイトに流していることから、その線は消えます。そこで考えられるのが、あなたにとって、レコード自体は何の価値もないっていう仮説です。あなたは、レコードが欲しかったわけではありません。ジャケットが欲しい? 違います。じゃあ、同封されているものが欲しい? 小説が一緒に入っていましたね。そのせいで、取り出すとごちゃごちゃして、仕舞うのが面倒になるんですけど、でも、これも違う。これだけ抜き取る意味なんて、ありません。で、考えられる可能性は、あとひとつ」

「…………」

「レコードに、間違って封入してしまった、なにかです。それも、自分のレコードじゃありません。誰か、他の人のレコードでしょう。自分のレコードであれば、気づいた時にすぐに買い戻すか、店の人に言うかすれば、それで解決でしょう。となると、人から借りたもの。そして、それを持ち主に返す際に、間違って、その大切なものをジャケットの中に封入したまま、返却してしまった。さっきも言いましたが、小説や解説書の冊子が一緒に入っていて、ややこしいレコードなんですよね、これって」

「……人から借りたものなら、頼んで返してもらえばいい」

「出来なかったんですよ。絶縁してしまったんです。あのバンド、メンバー間の不仲が原因で、解散してますよね。バンドをやっていた時期にレコードを借り、そのまま返却したはいいが、まもなく絶縁してしまい、バンドは解散した。その相手は、おそらくボーカルの男性。隣の駅に、未だに住んでいます」

 杉岡老人は、何も言えなくなって、口を結んでいた。

「あのレコードに入れてしまったのは、間違いない。でも、それを本人に返して貰うわけにも行かない。きっと、ボーカルの男性も気づいていないんでしょう。彼は、プログレなんて趣味じゃなかった。ずっとあなたが、そのレコードを買い続けていたのが、その証拠です。プログレに興味なんて無い男が、あのレコードの中身を触るはずがないし、邪魔になればそのまま売ってしまうはずだ、という確信があった。この街でレコードショップなんて、あの店しかありませんから、中古レコードを売る際に、あそこに流れ着くのは自明の理です。だから、ここでマンダラバンドのセカンドを買い続ければ、いつかは目的のものが入ったレコードが、手に入るんじゃないかと思って、今日まで、あなたは買い続けてきたんですよ」

「そんな、プログレに興味がない男が……マンダラバンドなんて、そもそも持ってるわけがないだろう。そんな奴から、借りることも出来ないはずだ」

「ええ。その男性の趣味ではありませんが、彼の家に、自分のレコードを置きっぱなしにできる人物の持ち物だったんじゃないんですかね。あなたは、それを借りたに過ぎない」

「……それは」

「例えば、バンドメンバーの女性」

 空気が、凍るようだった。

 構わないで、せれな先生は続けた。

「憶測になるんですけど、ボーカルの男性とこのメンバーの女性、二人は付き合っていたんですよね。他のメンバー、つまりあなたも知っていたことでしょう。そして……あなたも、その女性に好意を寄せていた。あなたは、話のきっかけなのか知りませんけど、マンダラバンドをその女性から借りました。彼女とは、プログレ趣味が合ったのかもしれません。けれど、女性はボーカルの男性と同棲していた。レコードが戻るのは、二人の住んでいた家です。つまり、今も彼が住む、あのマンションですよ。もし仮に、二人の仲が駄目になって、もしかしたらレコードは、女性が自分の家に持って帰ったのかもしれない。そうだとしても、あなたはそれでも、あの男の家にマンダラバンドがずっとあって、いつかは、売りに流す可能性に賭けていた。そうまでして、あなたが欲しかったものは」

「…………」

「昔、あなたが持っていた、その女性の、写真ですよね」

 杉岡老人は、そこではっきりと強く頷いた。

 過ぎ去ってしまった、後悔が占める割合のほうが多い、あの日々のことを、彼は今、思い出しているのだろうか。



「あんたの言ったとおりだ。憶測にしては、真実に肉薄してて驚いた。ボーカルのやつと、好きだった女が同棲をしてるのは、あいつらとバンドを組んだ当初から知っていた。ボーカルのやつとは、腐れ縁だった。いつも、私よりもずっと先を歩いてるようなやつで、それが気に入らなかった。もともとは、別のバンドであいつも活動してたが、私も対抗してバンドをやっていた。それが……お互い駄目になって、やる気のあるメンバーで、合併することになった」

 老人は俯きながら、ぼそぼそと語り始めた。

「メンバーの集まりは悪く、あいつは、とうとう自分のバンドに彼女を連れてきたんだよ。最初は不審に思っていたが、彼女は、我々とは違って、少し難しい音楽が好きだったんだ。プログレッシブ・ロックが好きだ、とはっきり言った。実は、そのときはプログレなんて、私はちゃんと聴いたこともなかった。流行っていたけど、わけのわからない音楽だとしか思えなかった。ハードロックのほうが、ずっと高尚だとしか思えなかった。けれど、その変わった魅力がわからないほど、私は盲目でもなかった」

 風が吹いた。

「彼女は、自分の彼氏より、どこか私と話が合うっていうのを、感じていたみたいで、度々、音楽の話で盛り上がった。プログレについても、あまり知らなかったが、どんどん詳しくなった。それを、良いと口にできる人間が、私くらいしかいなかったのだろう。ダメだとはわかっていたけど、気がつけば好きになっていた。彼女があいつのものだと思うと、無性に腹が立つし……無性に欲しくなった。自分を抑えるのに必死だった。未練がましく、一枚だけ写真を撮らせてもらったことがある。それが……探している写真なんだよ」

「……いい写真だったんですか?」

「普通の写真さ。ただ、笑って立ってるだけの……。最初にレコードを借りた、その日に撮らせてもらったよ。不自然な流れだったと思うけど、彼女は了承した。家に、カメラはあったから、こっそり持ってきてたんだ。借りたレコードを家で聴いて、何だこりゃって思ったさ。変わった音楽だなって。それから私は、プログレを聴き漁ったよ。彼女に近づきたかったから……それに、ボーカルのやつや他の普通の奴らとは、違う自分を認識したかったからだ」

 その気持ちが、わかるような気がした。

「メンバー間の仲が悪くなったのは、何回目かにレコードを返却して、すぐだった。私と彼女が変に親密だから、ボーカルのやつが怒った。昔から短気だったんだが、結局、そのまま解散までは早かったな。既に活動がうまく行っていて、デビューもしていたから、事務所にこっぴどく叱られたよ。で、それからだよ、写真がないことに、気づいたのは……。間違いなくレコードに間違えて入れて、返してしまったと思った。直前に借りたのは、マンダラバンドのセカンドアルバムだった。あのレコードについてる冊子を見ながら、彼女の写真も触っていたから……」

「……見つからないんですか」

「見つからない……あいつが、もう写真に気づいて燃やしてしまったか……別れて、彼女がレコードを持って帰ったか……よくわからない……幸せに、暮らしてるんだろうか。彼女のことは、耳に入ってこないが、怖くて誰にも聞けなかった」

 私は、ボーカルの男性が現在一人暮らしであることを、飲み込んで忘れた。

「私は、それから、好きな人なんて出来てない。音楽も止めてしまった。あいつは、音楽で多少なりとも収入を得ていたと聞いた。いつも、あいつは私より優れていく。私の先を、ずっと歩いていくんだ。私は、あれほど嫌いだった音楽をろくに聴かない一般人たちと、何ら変わりがない生活に、陥ったっていうのに……あいつは……」

「私も……わかりますよ、その気持ち」とせれな先生が口を開いた。「私も、昔自分より実力のある人間に、思い知らされたことありますから」

 それから先生は、老人の顔も見ないで、視線をそらせて言う。

「写真、見つかるといいですね」

 そのまま、話が続かなくなった。老人も、もう何も話すことなんてなくなってしまったのだろう。

 せれな先生も、彼を気遣って立ち去ろうとしているが、私はそこで、初めて老人に声をかけた。

「あの……、杉岡さん」

 彼は、私に顔を向けた。私に向かって、恐れを見せたあの時の視線とは、もうまったく違っていた。

「マンダラバンドのことは……プログレのことは、ちゃんと好きだったんですか?」

 老人は、また顔を伏せて、呟くように漏らした。

「わからんな……プログレは、自分は、他人とは違う音楽を聴いている、という事実で好んでいたに過ぎないのかもしれん……。好きだったのか、もう思い出せもしない。彼女とのことで、嫌な思い出が積み重なりすぎたのか……。いまでは、もう聞くことはない……。結局、その程度なんだ……好きでもなかったんだろうな、本当は……」

 ――あいつらとは違う。

 そう思い込んでいた自分の先にあるものが、何なのかわかるような気がした。

 私はいたたまれなくなって、老人も、せれな先生も置き去りにして、一人で駅に向かって逃げていった。



 翌日、真相を紗良に教えると、彼女は驚きながら、部員に言いふらしに消えた。

 聞かせたのは、せれな先生の考えた推理だということを、彼女に伝えるのを忘れていたので、部室に入った時には大変なことになっていた。

「網城! 凄いじゃん!」

「探偵だよ探偵!」

「奈津乃、サイン頂戴」

 なんて、名前も知らない奴らに取り囲まれることになった。さんざん私をコケにして、興味だって持たなかった人間たちが、こうして私を好んでいた。

 悪い気分じゃなかった。

 そうして、私は初めて部活内で受け入れられている、という実感を得ていた。

 そうだ。

 私は、やっぱりこいつらとは違うんだ。

 そんな錯覚を、打ち消すことが出来なくなっていった。せれな先生の威を借りているだけだと言うのに、そんなことは忘れてしまっていた。いや、考えたくもなかった。この気分の良さは、麻薬みたいだった。

 私は、あの老人のように、欲しい物を、好きな女を、地位を、手に入れられないわけじゃないんだ。過去に捕らわれて、朽ちて死んでいくような、あの老人とは、絶対に違うんだ。

 だけど、

 肝心の中兼由麻は、どこか興味がなさそうな顔をしていた。

 その顔を見ていると、

 私は、とてつもなく虚しいことをしているような気がして。



 放課後。学校を飛び出して、せれな先生の家へ行く。当たり前だが、今日もレッスンだった。

「こんにちは。奈津乃ちゃん、いらっしゃい」玄関先で、いつもと同じように、せれな先生は迎えてくれた。「真相、聞かせたんだって? みんなは、どうだって言ってた?」

「興味なさそうでした」

「そう。奈津乃ちゃんの気は晴れた?」

「はい」

 口にしてから、大嘘を吐いたことを自覚した。

 そうして、私はレッスン室に招かれて、ギターの弦が、ちぎれんばかりに力強く弾いた。

 この力があれば、ちゃんとやっていけば、何ができるのか、何も出来ないのか、そんなことすらどうだって良かった。

 けれど、ちらつく。

 ベンチに腰掛けてうつむく、あの老人の姿が。

 虚しさを覚える身体を、自覚しながら押し殺した。

 何も考えるな。

 何も考えなくていいのに。

 あのくたびれた姿が、頭から離れない。

 ああ。

 こんなスモッグみたいな気分は、何処かへ捨ててしまえればいいのに。

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