淑女の絵
パソコンに向かい、かたかたと文字を打ち込み続ける。真理子はエッセイや小説を書くことが趣味だった。子どもの頃はもっぱら読むことばかりに集中していたのに、いつしか書くことが好きになった。
あれは小学6年生のことだったか。夏休みの宿題、確か作文の宿題だったかと思い起こす。「呪いのメリーゴーランド」という作品を書き、提出した。ストーリーはなにひとつ記憶していないが、下手くそな挿絵を入れたことだけは覚えている。
真理子が本を読んでいたのは、六畳の自室か、父の書斎である応接室だった。自室はだらしなくも万年床の状態になっていて、常に布団に寝転がって本を読んだ。多くは学習マンガだったが、ひとつだけ印象深い豪華な函入りハードカバーの本があった。
『ちっちゃな淑女たち』というタイトルで、おそらくフランス貴族の少女たちと母たちの生活を描いた、子ども向けの本格的な教育童話だったかと記憶している。真理子はその本を開くたび、わくわくした。美しい挿絵を眺めては、心のどこかで憧れた。おいしそうな果物の挿絵を見て、ゴクリと唾を飲み込んだ。少女や母の繊細で美しい服装の絵を見ては、うっとりとしたものだった。
『ちっちゃな淑女たち』は三島由紀夫の妻が翻訳したもので、巻頭に薦めの言葉として三島由紀夫のさほど長くない文章が掲載されている。真理子はこの序文を読むことが、なにより好きだった。自分の布団のシーツのしわの上で広げた本、そして寝転がる自身の姿が、ぼんやりと頭の中に再生されるような気がする。
父が買ってくれたこの本が大好きで、真理子は大人になっても本を手放さなかった。しかし長らく開いてはいなかったので、記憶はぼんやりとかすんでいる。物語のあらすじはほとんど覚えてはいなくて、脳裏に浮かび上がるのはきれいな挿画ばかりだった。
特に桃の絵が忘れられない。ほんのりと頬を染めたような薄いピンク、いやまさに薄桃色といった様子の色合いが、頭の中に染みついている。そしてもっとも目を見張ったのは、かわいい少女たちの頬の色が薄桃色だったことだ。とてもかわいらしかった。
桃と一緒にかごに盛られていたのは、確かぶどうだったろうか。濃い紫のぶどうと薄いグリーンのぶどう。どの絵の彩色も見事で、それほど絵心はないと思われる真理子にも、強い印象を残している。が、真理子は絵を描くのは苦手で、描きたいという気持ちを抱いたこともなかった。
かたかたとキーボードを叩きながら、真理子は『ちっちゃな淑女たち』が読みたくなった。正確に言えば、挿画を眺めたくなった。そのような欲求はあるのだが、いま書いている小説の執筆を止めるのも嫌だった。小説と言っても昔の思い出をフィクションに仕立て上げて、つらつらと書くだけのものだ。誰が読んでくれるかもわからないブログに、時折出しては自己満足して終わっている。意味があるのかないのかわからない作品は、少しずつ量が増えていった。
真理子は小さくため息をついて、椅子から立ち上がる。立ち上がるときに「よいしょ」と声が出た。年を取った。よいしょよいしょと、つい声が出る。きっと同級生たちもそうだろうなと思いつつ、彼女たちがなにをしているのか、真理子はまったく知らない。結婚や離婚をしている間に、いつの間にかつきあいは途切れた。親友だと思っていた人たちも、今では遠い存在だ。
本棚の奥に手を伸ばし、ずっしりと重いハードカバーの本を取り出す。何十年も前のものなので、まんべんなく汚れている。その上ほこりもかぶっていた。真理子は適当にティッシュでほこりを拭き取り、本を開いてみた。
三島由紀夫の巻頭文は美しく、そして時代遅れだった。現代の若い人たちが読んだら、女性差別であるとか、子どもの人権であるとか、そんなことを言い出しかねない可能性をはらんだ内容の文章だった。しかしそこに含まれた普遍性や美意識、三島本人のぶれない信念には誰も敵わないと感じた。この信念に対抗するものなど、真理子は到底持ち合わせてはいなかった。
ぱらぱらと挿絵を眺める。かわいらしい少女たちの横顔。家柄のよさそうな美しい母親たち。きれいなドレスや靴。絵もろともフランスから輸入されて本になっているのかと思っていたが、意外にも挿絵を描いたのは日本人の画家のようだった。ミュシャのポスターのように繊細で、美に満ちている。瑞々しい桃やぶどうの絵と、瑞々しい少女たちの薄桃色の頬。そっと指を伸ばして触れたら、きっと柔らかくあたたかい。
絵を描いてみたいとは、真理子は思わない。だが母は、とても絵が好きだった。若い頃から絵を見るのが好きだったようだが、60歳から本格的に水彩画を習い始めた。まさに「六十の手習い」である。見る目に自信のない真理子から見ても、母の絵は美しかった。この『ちっちゃな淑女たち』の挿絵とはまったく趣きが異なるが、手に取ることのできるような果物の絵を描いていた。
高齢になってからは、絵の具と絵筆を使うことが疲れるようになり、もっぱら色鉛筆での小さな絵を描くようになった。中でもりんごやさくらんぼの絵が秀逸だった。コピーして絵はがきとして使っていたが、自宅のコピー機の発色が悪いため、それもしなくなってしまった。
母はほんのわずかな時間で、急速に老いていった。今では自分の子どもたちのことも、わかる日とわからない日がある。調子のいい日に施設へ行くと、とても喜んでくれるが、調子が悪いと「誰だ」と誰何されたり、自分の妹かなにかと間違えられる。娘と認識されないことは、真理子にとってとてもつらいことだった。だが兄の雄一は、「そのほうが本人は幸せなのかもしれない」と語ったことがある。自身が老いたことすらわからなくなり、ただぼんやりとし、施設職員の指示どおりの規則正しい生活を送る。しばしばやってくる娘や息子と、わかっているのかわかっていないのかよくわからない会話をする。そんな毎日もいいものなのか。
施設の職員に「母は絵を描くのが好きです」と伝えたが、今となっては色鉛筆にもなにひとつ興味を示さない。あんなに好きだった絵に、なにも感動していない。しているのかもしれないが、真理子にはわからなかった。
本の中の美しい桃とぶどうの挿絵をじっと眺める。絵を描いて、母に見せてみようか。ふと思ったことを、すぐに頭の中で取り消す。どうせなにもわかってはくれないだろう。
今日は母に会いに行く予定ではなかった。仕事の休みが取れたので一日ゆっくりして、好きなことをしようと思っていた。
真理子は本を閉じて立ち上がる。また後で読もうと、テーブルの上に置いたままにした。外出の用意を始める。
できるだけたくさん、母に会っておこう。認知症介護のあまりの過酷さに、家で母をみることがかなわなくなり、雄一と相談しつつ奮闘して母を施設へと導いた。負担は減少したが、どこかに罪悪感が残った。娘としての責任を放棄した気持ちになっていた。それは雄一も同じだったろう。
思えば母は、『ちっちゃな淑女』だったなと思い起こす。美しいものを好み、昔風の「女とはこういうもの」という感覚を持った、意外と育ちのいい女性だった。この本を持って見せてみようか。とても重い本だが、真理子はバッグの中にハードカバーを突っ込んだ。
スリープ状態のパソコンをシャットダウンして、軽いコートをはおって家を出る。外は春のはずなのに寒かった。春というものは、寒い。明日は雪が降るかもしれない。ずしりと重いバッグを肩に、真理子は玄関の鍵をかけた。
母にはせめて、愛したはずの「美」を感じてほしい。今日はこの本の挿絵を見せて、機嫌がよければ読み聞かせてみよう。そう考えながら。
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