平成サバイブ

ひらめ

第〇話「プロローグ」

「どうしてサラリーマンになるの?」


もし誰かにそう聞かれても、僕はきっと答えられない。胸を張れるような立派な理由なんて、持ち合わせていない。


ただ、普通でいたかった。レールの上を、ひたすら歩きたかった。学校を卒業し、会社に就職する。言われた仕事をこなし、決められた給料をもらう。少しずつ出世して、いずれは結婚し、小さな家を買って、子どもを育てる。大人たちが「幸せ」と呼ぶものを、ひと通り手に入れる。それで十分だと思っていた。それでいいはずだと思っていた。


---


入社式の会場には、黒いスーツの群れが次々と吸い込まれていく。真新しいスーツに身を包んだ新入社員たちは、まるで借りてきた猫のように、ぎこちない笑顔を貼り付けていた。期待と不安が複雑に絡み合い、それが表情の端々はしばしにじみ出ているのがありありと見て取れる。


(クソ喰らえ・・・)


僕の視線は必死に仲間を探していた。せめて一人でもいい。自分と同じような“はみ出し者”がいてほしかった。そうすれば、少しは心が落ち着く気がしたからだ。


しかし、どこを見ても黒や紺のスーツばかりだった。まるで制服のように統一されたそれは、僕をいっそう孤独にさせた。

シャツの第一ボタンまできっちり閉め、髪もミリ単位で整えられている。彼らはまるで、工場から出荷されたばかりの寸分たがわぬ工業製品のようだった。その中に、自分だけが紛れ込めない粗悪品みたいに感じられた。


そのときだった。僕の視線の先に、一筋の光が差し込んだように、一人のショートカットの娘が現れた。


数人の女子と談笑しながら、楽しそうにこちらへ歩いてくる。春の柔らかい日差しを浴びて、彼女の黒髪がつややかに輝いていた。その大きな瞳と、屈託のない明るい笑顔が、曇った会場前の空気を一瞬で変えたように思えた。


彼女の瞳が僕を捉えたような気がした。真っ直ぐで、射抜くような強さがある。まるでこちらの心の奥底まで見透かされているようで、思わず息をのんだ。


胸が、どくんどくんと音を立てて跳ねる。たまれなくなり、視線をらすしかなかった。


慌てて、吸っていたタバコを灰皿に押し付け、火を揉み消す。緩んでいたネクタイを強く締め直し、背筋を伸ばす。いつもの「何食わぬ顔」をつくって、僕は黒いスーツの群れの中に足を踏み入れた。


――このときはまだ知らなかった。このショートカットの娘が、僕の運命を変える存在になること。

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