夕実⑤

 あまりにも突拍子もない問いかけに思わず笑いがこぼれてしまいながら、夕実は答えた。

「まさか、そんなわけないよ」


 ──それが『肯定』という意味に捉えられるなんて思いもしなかった。


 夕実のその答えを聞いた松島さんは、先程よりもいくらか苛立ちが増したように眉間の縦線を深くした。それから

「そう。わかった」

と言い残して去っていった。その言動のすべての意図がわからず、夕実はぽかんとしたまま彼女の後ろ姿を見送った。それから、あまり深く考えずに、また物語の世界へと沈んでいった。


 結局休み時間では読み終えることはできず、放課後も教室に残って本を読んだ。そのまま図書館に行ってもよかったのだが、図書館は低学年の子も含めてたくさんの子どもが集まり、いつも騒がしい。誰もいない教室の方が集中して読書ができる気がした。

 教室がオレンジ色に染まり始めた頃、ようやく読み終わった。本当に、本を読んでいると時間が経つのも忘れてしまう。時計を見ると、図書館の閉館時間まであと30分ほどだった。

「やば、はやくしなきゃ閉まっちゃう」

次の物語を選ぶ時間も欲しいし、ひとり呟いて、急いで帰り支度をして教室を出た。

 普段授業を受けている教室は部活動で使われることもない。その教室が並ぶ廊下はこんな時間だから人の気配もない。次に出会う物語のことを考えていた夕実は、鼻唄なんか歌いながらその静かな廊下を歩き、階段を降りて昇降口へと向かった。

 その先の角を曲がれば靴箱、というところで、誰かの話し声が聞こえてきた。今日活動があった部活の人の誰かかな、なんて思いながら進むと、自分の名前が聞こえた気がして、思わず足を止めて身を潜めた。


 「そう言えばさ、夕実、加藤くんのこと、好きなんだって」

聞こえてきたのは休み時間にも聞いた声。松島さんだった。でもおかしい、否定したよね? と夕実が思った刹那、加藤くんの声も聞こえた。

「は? マジで言ってんの? 気持ち悪いんだよな、デブのくせに」

 加藤くんがどんな顔をしていたのかはわからないけれど、心底そう思っているような声が響いた。それから

「だよね、あいつ、デブのくせに。加藤くんが好きだとかありえないよね」

という言葉の後に松島さんの甲高い笑い声がして、それはだんだんと遠くなっていった。


 動けなかった。聞こえた言葉を理解するまでに時間がかかっていた。もう声は聞こえないけれど、夕実はしばらくそこに立っていた。どうやらもう誰もいないようだとわかり、恐る恐る靴箱の方を覗くとそこは人気もなく静かだった。

 彼らはきっと、誰もいないと思っていたのだろう。もしかしたら他に誰かがいても、その人とも先程のような話をして笑っていたのかもしれない。けれどきっと、夕実が聞いているとは思ってもいなかっただろう。

 夕実はノロノロと靴を履き替え、とぼとぼと歩いた。

 図書館には行かなかった。

 あんなにもわくわくしていたのに。行けなかった。いつでも優しい佐藤さんに会ってしまうと、涙を我慢することができそうになかったから。

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