官渡へ
翌日の未明。
鄴城の門兵たちを前々から買収している曹丕は、彼らに城門を密かに開けさせ、官渡へと馬を走らせた。
供は司馬懿、華歆、真。真の部下たちも二十人ほど付き従っている。
「公子様。
「曹洪のクソジジイは、俺が奴の商いを邪魔しにかかることを察しているはずだ。奴も朝早くに鄴城を発ち、官渡城で何らかの異変が起きていないかその目で確かめようとするに違いない。しかし、俺が先に鄴城を留守にしてしまえば、我が父曹操から家族を託されている曹洪は、城から出たくても出られなくなる。俺と曹洪の二人が鄴を不在にすれば、城の守備は手薄になるからな」
「なるほど! さすがは公子様! 相変わらず性格が悪……抜け目が無いですな! 偉い!」
鬼畜将軍を出し抜くことができ、気分爽快の司馬懿は曹丕を褒めそやした。
「それに、いつ
「官渡城ではそんなにも憂いの気がたまっているのですか」
「七年前、クソ親父の曹操は、投降した袁紹軍の兵八万人を官渡周辺の各城に収容した。投降兵たちは監獄の中で命が助かることを祈り続けたが、クソ親父は形だけの取り調べをした後、投降兵の全てを生き埋めにしてしまったのだ」
「なんと
「俺は、官渡の戦から数年ほど、兵たちが囚われていた城を一つ一つ見て回り、患が出現したらただちに浄化してきた。……しかし、曹洪が管理している官渡城だけは、まだ一度も患が現れていない。あの城の監獄には相当な数の兵が囚われていたはずなのだが」
「現在は奴隷商いの『商品』となる民たちが大勢捕まっています。もしも、いま、膨大に蓄積された憂いの気が凝り集まって、患が発生したら――」
「大昔に武帝が遭遇したものよりもさらに巨大な
「い、いかん! これは放ってはおけぬ!」
「だから、こうやって全速力で馬を走らせているのだ。ほら、仲達。もっと急げ。遅れたら置いて行くぞ」
「わ、わ、わ! ちょっと待ってください、公子様! 俺、長いあいだ引き籠っていたから乗馬は苦手で……どわぁ~‼ 早速、落馬したぁ~‼」
* * *
曹丕たちが出立して二時間経った、払暁の時刻。
鄴城の門が開き、曹洪は二十数人の食客たちを率いて官渡へ向かった。
「曹洪将軍~。こんな朝早くに出かける必要があったんすっか~? 俺、まだ目が完全に開いていないっすよぉ~。ああ~眠い」
鼻ピアスのチンピラBがブツブツと文句を垂れる。きのう曹丕にぶっ飛ばされたため、体のあちこちには包帯が巻かれていた。
曹洪は自慢の駿馬を走らせつつ、「たわけ! 子桓のクソガキが城を出るよりも先に出立せねばならんのだ!」と怒鳴る。
「子桓の奴は、儂の商売を邪魔するために弟分の真を官渡へ遣わすだろう。もしかしたら、自ら乗り込んでくる恐れもある。しかし、儂が先に鄴城を留守にしてしまえば、父親から家族を守るように命じられている子桓は城から出たくても出られなくなる。儂と子桓の二人が鄴を不在にすれば、城の守備は手薄になるからな。……儂は一騎打ちで子桓には勝てぬが、真にだったら何とか勝てる! それゆえ、子桓本人がしゃしゃり出て来ぬように機先を制したのだ!」
「さっすがは曹洪様! 相変わらず性格が鬼畜ぅ~!」
眼帯のチンピラAが朝食代わりに蝉をぼりぼり食べながら、主人を褒めそやす。
だが、このチンピラ集団は知らなかった。曹丕が一足早く官渡に向かっていることを……。
* * *
さらに時間が経ち、太陽が完全にのぼりきった頃。
司空府。曹丕の生母、
「あの……お義母様。子桓様が……」
部屋に入って来た
「まったく……。昔は素直で良い子だったのに、どこで育て方を間違えたのかしら。これでは孟徳様に顔向けができないわ。……まだ遠くには行っていないはずよね。
「いませんよ、母上」
「へ?」
傍らでお人形遊びをしていた曹節が、聞き捨てならぬことを口にした。
卞夫人は「いないって誰が……?」と愛娘に問う。
「子廉おじさんです。明け方、いつもの日課で、私が楼閣にのぼって
「ちょっと待って……? つまり、この城にはいま、孟徳様に留守を任された二人がそろいもそろっていないということ?」
くらりと目眩がした卞夫人はよろめき、水仙が慌てて義母の体を支える。
「だ、大丈夫ですか、お義母様」
「ふ……ふふふ……。留守居役が丕と子廉殿という時点で、ものすっごく嫌な予感がしていたのよ。あの馬鹿二人はまともに城の守りもできないんだからッ‼」
卞夫人がヒステリックにそう叫ぶと、曹節は「子廉おじさんは馬鹿だと思いますが、子桓兄上は馬鹿ではありませんよ」と兄を弁護した。
「兄上は、子廉おじさんとは違って、弱い立場の民をいじめたりしません。意地悪そうに見えて、意外と優しいところもあります。気まぐれに見せかけて、困っている誰かを助けることもあります。きっと、今回も兄上なりの正義を為しに行かれたのでしょう。お願いですから、もっと兄上のことを信じてあげてください」
「節……あなたっていう子は……」
「あと、父上や母上に対して親不孝な言動が多いのも、馬鹿だからではありません。純粋にお二人のことが嫌いだからだと思います。嫌われているかぎり兄上の暴走は止まらないはずなので、もうあきらめたほうがいいですよ?」
「…………」
聡明な我が娘を褒めようと思った矢先にこれである。曹節が一言多い少女に育ってしまったのは、誰に似たせいのなのだろうか。
(曹家の人間は問題児ばかりだから、ぜんぜん見当がつかないわ……)
卞夫人は、深々とため息をつくのであった。
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