宋定伯の正体

「ほわぁ~凄い食欲ですねぇ。たくさん食べられるのはいいことです! 風痺ふうひの病を治すためにもっともっと栄養をつけてくださいね、旦那様!」


 空っぽになった鍋をのぞき込みながら、小燕が嬉しそうにはしゃぐ。


 満腹になり、ようやく我に返った司馬懿は、「小燕よ。いまは食い物の話をしている場合ではない。定伯殿にたずねたい大事なことがあるのだ。少し静かにしていてくれ」とキリリとした表情で言った。ただし、左頬に肉切れがついている。


「俺にたずねたいこととは?」


 定伯は葡萄酒を飲みながらにたにた笑っている。自分から怪獣の肉を食おうと誘ったくせに、この男はほとんど食べなかった。本当に何を考えているのか分からない奴だ。


「ずばり、君の正体だ。君の名は宋定伯ではないな」


「おう、やっと気づいたか。頭の回転が速いお前なら、もっと早く気づくと思ったのだがな」


「むっ……」


 悪びれもせず、偽名を使っていたことをあっさり認めた。


 そんな定伯のふてぶてしい態度に、司馬懿はついイラッとして「偽名だということぐらい、最初から気づいていた。ただ、君が何者なのか見破るのに時間が少しかかっただけだ。いまからその正体を暴いてやる」と声を荒げた。


「面白いな。聞こう」


「……君の子分の真は、里の者たちに『我らは侠客だ』と名乗っていた。しかし、あの迅速果敢な騎兵の動きは間違いなく官軍――帝を押し戴く曹家の軍だ。そして、君は曹軍の将兵をあごで使える程度には身分が高いに違いない」


「ふむふむ、なるほど。それで?」


「さらに、りんを圧倒したあの戟術だ。君は、悪来典韋の直伝だと口走っていた。典韋といえば、殷の末期に剛力無双で名を馳せた悪来の再来とまでたたえられた猛将。主君曹操を守るために壮絶な戦死を遂げた忠臣だ。曹操の親衛隊長だった典韋が秘伝の戟術を伝授する相手がいるとすれば……曹操かその子供たちぐらいだろう」


「…………」


「典韋は十年前に死んでいる。曹操の長男曹昂そうこうは恐らく坐鉄室ざてつしつを会得していただろうが、彼は典韋と同じ戦場で散った。次男曹鑠そうしゃくも早くに病死し、四男の曹彰そうしょうや五男の曹植そうしょくは当時十代にも満たぬ幼子だった。あんな高度な武術を幼子が修得できるとは思えぬ。ただ一人、三男は十一歳になっていた。その年齢なら、武術の才能さえあれば、典韋の奥義をぎりぎり修得できたはずだ。つまり、あの技を使った君は……」


「おっと、坐鉄室の継承者が曹操の三男だけとは限らぬぞ。曹彰や曹植だって、いまは立派に成長している。兄から教わることは可能なはずだ。三人は生母が同じで仲がいいからな」


「その可能性はある。だが、噂によると、曹彰と曹植はいま、父曹操に従って遠い北辺の地にいるという。この孝敬里に彼らが姿を現すはずがない。ならば、典韋直伝の技で獜を屠った君は何者か? 答えは自ずと分かる。君の正体は――乱世の奸雄曹操の三男、曹丕だッ!」


 司馬懿はビシッと定伯を指差し、唾を飛ばしながらそう断言した。


「……俺の正体をそう断じる根拠はそれだけか?」


「ああ~ん⁉ まだしらを切るつもりなのか? そんなクッソ高価な葡萄酒を飲んでいるくせに、怪談好きな任侠の親分のわけがなかろうが! この金持ち曹家のボンボンめ!」


 腹が満たされて気力が充実し、葡萄酒でいい感じに酔っぱらい始めていた司馬懿は、十数分前とは違って強気である。もうビクビクなどしていなかった。むしろ酒の勢いでノリノリだった。


 しかし、定伯は相変わらず、憎らしいほど泰然自若。「俺は別に金持ちのボンボンじゃないさ」と言い、空になった竹筒を草むらの上に転がした。


「我が父曹操は贅沢を嫌う。だから、俺たち家族にも質素倹約を強いる。十代の頃は貧乏のあまり、父の従弟にあたる曹洪に借金を申し入れたほどだった。この葡萄酒は、各地から届けられた父への献上品をちょいとくすねただけなのさ」


「我が父曹操……。認めるのだな、君が曹丕だということを」


「ああ。俺は曹丕、字は子桓。曹家の憎まれっ子さ」


 定伯――いや、この物語の主人公曹丕は、ようやく己の名を明かした。


 化けの皮を剥がしてやったぞ、と思った司馬懿は、「曹家の憎まれっ子だと⁉ 君……いや、貴方を憎く思うのはこの俺だ!」とさらに語気を鋭くした。


「貴方は、人里に危険な獣を放ち、多くの民を負傷させるという過失を犯した! この罪を父君に訴えられたくなければ、早々にこの里から立ち去るがいい! 仕官の誘いに応じぬ私に嫌がらせをするためにこんな騒ぎを起こしたのだろうが、私は見ての通り風痺の病で立って歩くこともできぬ身! どんなに脅されても、仕官できぬものはできぬのだ!」


 下女殺人事件をネタに何らかの脅迫を受ける前に、こっちから脅して追っ払ってやろう。司馬懿はそう企んでいた。


 お坊ちゃまというのは「父ちゃんにお前の悪戯をチクるからな!」と言ったら、「ええ~! やめてよ~!」と弱気になるのが定番だ。俺様キャラな曹丕とて、父ちゃんにチクっちゃうぞ作戦にはビビるに違いない。そう甘く見ていたのだが――。


「仲達よ、見損なってもらっては困る。これは嫌がらせでも何でもない。俺の嫌がらせは、もっと恐い」


 おもむろに身を乗り出し、甘く囁くように曹丕は言う。白皙端麗はくせきたんれいな顔が近づき、恐怖と甘美が同居した不思議な声が司馬懿の耳をくすぐった。ぞくり、と背筋が凍る。


「数刻前にも言っただろ。俺は我が屋敷に友人を招いて獜の肉でもてなすため、知り合いの方士に獜の捕獲を頼んだ。しかし、途中で逃げられてしまい、あの犬っころはこの里にたまたま迷い込んだのだと」


「し、しかし、いまこの場で俺と一緒にその肉を食べてしまったではないか……」


 曹丕の微笑から不穏な気配を敏感に察し、司馬懿はおずおずとそう言う。つい一分前の勢いは消え失せていた。司馬懿の酔っ払いイケイケ攻勢はあっ気なく終了してしまったようだ。


 曹丕はハッハッハッと哄笑し、「そこが人間の運命の面白いところなのだ!」と語った。


を拉致し、獜の肉を無理やり食べさせようと計画していたら……なんとその男がいる里に食材自ら足を運んでくれたのだ! これは都合がいい! 拉致という乱暴な手段を使わなくても、俺が出向けば獜の肉をそいつに食べさせられる! 早速、孝敬里に行ってみよう! ……というわけで俺はここに来たのだよ」


 友人になる予定の男。そいつは誰のことか――などと馬鹿なことは司馬懿も問わない。話の脈絡からして、自分のことに決まっているからだ。


「お……俺に化け物の肉を食わせて、それでいったい誰が得するというのだ」


「皆が得をする。父曹操も、お前自身も。なぜなら、たったいま食べた肉は、お前が我が父に仕官できぬ原因を取り除いてくれる素晴らしい健康食だからだ」


「健康食……あっ‼」


 司馬懿は絶句し、顔を青ざめさせた。


 たしか、曹丕は獜の肉を食べると「ある病」に効能があると言っていた。その「ある病」というのは……。


「ま、まさか……。俺が食べた肉は……ふ、風痺を……」


「お察しの通りだ。獜の肉には、風痺の病をたちまちに癒す効能がある。お前、歩行が困難だと言っていたよな? でも、もう大丈夫。あれだけ獜の肉をたらふく食べたのだから、立って歩くどころか逆立ちもできるぞ」


 曹丕はそう言うと、にたぁと口の端を歪める。そして、「華爺さんも、あの獣の肉の効能を認めている。経験豊富な名医のお墨付きだから安心しろ」とさらに追い打ちをかけてきた。


「え? え? 旦那様、病気が治ったのですか⁉ わーいわーい! 旦那様の病気が治ったぁ~!」


 主人の命令に従ってずっと黙っていた小燕が、喜びのあまりはしゃぎだし、バンザイした。「ねえねえ、旦那様。早速、立って歩いてみてください。私、旦那様が元気に立ち上がるお姿を見てみたいです」と司馬懿の肩を揺すり、無邪気におねだりをする。


(く、くそっ……。そういう魂胆だったのか。うっかり全部食べてしまったぞ)


 いつの間にか、真とその配下たちが無言で司馬懿の後ろに立っていた。背後から殺気がプンプン漂ってくる。この期に及んで「いやいや、僕ちゃんまだ病気治っていませんので」などと司馬懿が言えば、即刻斬り殺されそうな予感がする。


「さあ、選べ。覚悟を決めて立ち上がり、曹家の天下統一の事業を助けるか。そのまま座り続けて最悪の結末を迎えるか。……お前はどっちがいい?」


 曹丕が耳元で悪魔の囁きをする。


 司馬懿はキッと睨み、「俺はあんたが大嫌いだ……」と怨言えんげんを発した。曹丕は嘲笑い、「よく言われるよ」とどこ吹く風である。


(我が進退窮まれり。もうこうなったら、やってやるしかない。俺だって男だ。曹操なんて恐くないぞ。ましてや、息子の曹丕など……!)


 意を決した司馬懿は、すぅ~と深呼吸をして、拳に力を込めた。


 そして――そのまま、よっこらしょっと軽やかに立ち上がる。


「わ……わぁ~。本当だぁ~。何年も立つことができなかったのに、こんなにも簡単に立てたぞぉ~。これで曹操様に仕官できるぅ~。曹丕様に感謝しなくっちゃなぁ~(棒読み)」


「やったーッ‼ 旦那様が立ったーッ‼」


 かくして、司馬懿は曹丕という未来の主君と最悪な邂逅を果たし、ほとんど罠にはめられたかたちで無職を卒業する道を選んだのであった。


 そんな歴史的事件に、少女の幽鬼と犬型UMAが大きく関わっていたのだが……そのことを史書は記していない。






            ~第二章につづく~

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