紅い鬼 血桜 上
「
そう言って、おじいちゃんは逝ってしまった。
◇◆◇◆◇
「あぁ、もうっ、うるさいったら! うーるーさーいー!! 猫ぉ? それは私の専門外なの、他あたって、他!」
誰もいない部屋で叫んだ
「おはよー。洋ちゃん」
純香は毎朝、朝ご飯を共にし、お隣さんでもある
洋介は卵焼きをくわえたまま、眉尻を下げて笑う。情けないようにも見えるが、たれ目がちな目元とえくぼができる頬にはよく似合っていた。この柔らかい笑顔が学校でも人気だ。洋介は卵焼きを食べ終えて、あらためて挨拶をする。
「おはよ。今日は一段と大きい独り言だね」
「洋ちゃん。のほほん、と言わないでよ。こっちは困ってるんだからさぁ」
口をとがらした純香は自分にあてがわれている席に座った。箸を持ち、いただきますと言った後、その手で力のかぎりにたくわんをぶすりとさす。母親に行儀が悪い、と言われようがお構いなしだ。
「大変だよね」
「ほんっと、大変どころじゃないのよ。これのせいで何人に変人扱いされたか!」
純香が卵焼きに勢いよく箸をさしたら、母親に手のこうを叩かれた。これは痛い。仕方なく、行儀よく食べることにした。
洋介はどこか楽し気に笑い、口を開く。
「毎朝、怒鳴る癖も治らないよね」
「治らない、じゃなくて治せないの! 今は洋ちゃんのおかげで霊が寄ってこないけど、起きた瞬間から金縛りやら目眩やら、たまったもんじゃないの!」
純香は思いっきり机を叩いて立ち上がる。
すかさず母親が純香の頭をはたき、自分の食べ終えた皿を流しに持っていった。
純香は母親の背中を睨みつけて、しぶしぶと席に戻る。
「俺は見えないからなぁ。純ちゃんは見えまくりだもんね」
「見えまくりって……何その表現」
洋介の呑気な物言いに思わず脱力した純香はいきなり顔を上げた。
「そういえば、今日は寄りたい所があるんだったっ! 洋ちゃん、早めにご飯食べてくれる?!」
「あー、昨日言ってた桜だっけ? りょーかい。じゃ、今から勝負ね」
洋介は頷き、宣戦布告のように箸の先を純香に向ける。
母親は後片付けをしており、洋介の行儀の悪い仕草を見ていなかった。
こういう時に限って、洋介はタイミングを外さない性分を持ち合わせている。
「えっ! 洋ちゃんは半分以上食べてるよ?!」
「ハイ、もんどうむよー。先に食べた方が鈴味屋の桜餅を買うということで」
にこにこと笑う洋介は言い逃れる時間も余裕も与えない。
気の抜けたスタートという声と同時に純香は必死に朝食を食べるはめになった。
◇◆◇◆◇
純香と洋介は丘の上にどっしりと構えた桜の木の下にいた。
桜は満開を迎え、数枚の花びらがひらひらと舞っている。
「えーと、つぼみの時以来だから一週間ぐらいかな。おじいちゃん、久しぶり」
純香は桜に向って笑った。目をつむり、深呼吸をする。瞼の裏に祖父の柔らかい笑みが浮かぶ。記憶が薄れるように、あんなにはっきりと思い出せた笑顔がぼやけたような気がした。
そよ風が純香の髪を撫でていく。
純香は不安を振り払うように勢いよく振り返った。
「さ、洋ちゃん。行こっか」
「あれ、もういいの?」
洋介は不思議そうに首を傾げた。
「いいの。ずっとここにいたら泣いちゃいそうだし」
純香は曇りのない笑顔でそれだけ言うと、丘のゆるやかな斜面をかけていった。
「……まだ一年しかたってないっけ」
洋介は桜を仰いでつぶやいた。
「よーちゃーん。早くしないと桜餅おごるの二個に増やしちゃうよー!」
「……何で負けたかなぁ」
洋介は今度は腕組みをして思案する。もう一度、純香に呼ばれてあわてて坂を駆け降りた。
ざわり、と桜がうなった。
――もうすぐだ……もうすぐ
◇◆◇◆◇
「何?
一緒に帰るために洋介を待っていた純香は嫌な奴に会ったと思いっきり顔をしかめてやった。
あいにく、洋介はそばにいない。
「あら、じゅんちゃん。つれないわねぇ」
葉子と呼ばれた女性はわざとらしくおどけてみせた。
そんな態度の葉子に純香は態度を和らげない。
「何よ、年増」
「あら、私達の中じゃあ、純ちゃんの方は乳臭い赤ん坊よぅ?」
「うっさい、化け狐」
純香は極力小さい声で悪態をついた。
それでも葉子は目と口に弧を描いて笑っていた。
「あら、そんなこと言っていいのかしら? 今はようすけ君いないのよぉ」
「用件をさっさと言いなさいよ」
純香は人の神経を逆撫でするような語尾を延ばす口調に嫌悪感を抱きながら、話を元に戻した。
「そうねぇ、私もそろそろ会議が始まる時間だしね。じゅんちゃん、桜の木に近づかない方がいいわよ。そろそろ出てくる気がするから」
「何が出てくるっていうのよ」
純香が怪訝な顔で言うと、葉子が答える前に後ろから声がかかる。
「あ、
「あら、ようすけ君。こんにちは。私のことは葉子先生って呼んでくれれば良いのにぃ」
「そうにもいきませんよ」
そう苦笑いしながら言った洋介は木暮葉子の正体が狐だということを知らない。
いわゆる
「じゃあね、じゅんちゃん、ようすけ君」
葉子はひらひらと片手を振って二人の目の前から去っていった。洋介の力のせいで長時間、洋介の近くにいることができないのだ。
「もう来なくて結構ですー」
純香は葉子の背中から顔を背けて言ってやる。
それを見ていた洋介は苦笑していた。
◇◆◇◆◇
――待っていろ……必ず……――
学校からの帰り道、純香は何か聞こえたような気がして後ろを振り向いた。純香の視線の先にいたのは洋介だけだ。
「ようちゃん、何も言ってないよね?」
「ん? 何も言ってないよ」
純香は眉間にしわを寄せ、霊はいないはずなんだけどなぁ、とぼやいた。
「あ、あれじゃない。前さ、まさじぃが桜と話せるって言ってたし」
二人はしだいに近くなる桜の丘を見上げた。
洋介の言う、まさじぃとは純香の祖父のことである。
純香と洋介は小さい頃からよく祖父に面倒をみてもらっていた。
「そう言えばそうだね。おじいちゃん、私にくれた勾玉を木に当てて何かブツブツ言ってたっけ」
「そうそう、あの血みたいな勾玉」
「血みたいって言わないでよ」
純香が不満そうに口を尖らして言い、今も身につけている勾玉を服の上から押さえた。
「あ、いや、あの勾玉が生きてるみたいに輝いてたから、血みたいって言っただけだよ?」
「なんか、気味悪いでしょ」
「そうかなぁ」
「そうかなぁって……あ、ようちゃん。桜餅忘れてたっ!」
純香は呆れた顔で言った後、朝の勝負のことをふと思い出した。
「思い出さなくてもいいのに」
「残念でしたぁ」
純香は笑い、桜の方へ駆けていった。桜がある丘の向こう側に目的の和菓子屋があるからだ。
葉子が忠告が思い出されたが、今は洋介がいる。人ならざるものは近寄れないはずだ。純香は深く考えずに桜の横を通りすぎる。洋介がすぐ後を駆けてくるのが感じられた。
桜がざわりと騒いだ。
急な突風と共に、純香の視界が桜の花びらで埋まる。
洋介は桜吹雪に思わず目をつむった。
洋介が次に目を開く時、幼なじみの姿はなかった。
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