4-2. 帰れない

 電気が、消せない。

「おい」と暗闇の中で声をかけられた。びっくりして明かりをつけたけど部屋の中には誰もいない。誰もいない。誰もいない。三回確認した。ベッドを出て恐る恐るクローゼットを覗いたり、廊下を覗いたりした。でも誰もいない。誰もいないんだ。だけど確かに声は聞いた。あれは間違いなく男性の声だった。

 家中を歩き回る。空耳? いや、聞いた。確かに聞いた。あれは間違いなく男性の声だ。「おい」。確かにそう聞いた。幻聴や聞き間違いの類じゃなく、確かに、ハッキリと……。


 枕元のスマホを手に取る。警察? でも何て言う? 寝てたら頭上から声がしました? 頭のおかしい女だと思われる。でもどうしよう。声は明らかに聞こえたし、誰かに助けを……だけどもう遅い時間だ。友達に電話なんてかけても出ないかもしれない。それにもしかしたら、電話をかけた途端、あの声が耳元で……なんて……。


 気のせいだ。気のせいだと思うことにして、ベッドに入り、電気を消そうと思った。でもリモコンを持つと。

 あの暗闇。頭上から聞こえてきたあの「おい」という野太い声。

 それを思い出して手が止まる。

 どうしよう、と三回逡巡してから、電気を消さずベッドに沈んだ。明るい内は平気。そう思い込むことにした。でも目を瞑ることができなくて、結局朝までパッチリしたまま過ごしてしまった。


 眠れなかったから眠い。でも仕事には行かないといけない。

 ふらふらする頭で身支度だけ済ませて家を出ようとした。いや、出た方がいい気がした。もしかしたらこの家は危険だ。何が危険、とは言い難いけど、いや、間違いなく危険だけど、どう言ったらいいのだろう。とにかく私は、家から出て仕事に向かうことに、妙な安心感を覚えながら歩いた。


 その日は散々だった。

 まず眠い。とにかく眠い。何度か寝落ちた。夢と現実の間を行き来した。幸い勤務態度をとやかく言われることはなかったけれど(自分で言うのも何だけど普段はすごく真面目だから)、自分で自分の働きぶりが嫌になるくらいにはダメダメだった。


 しかし、そんなひどい仕事が終わると。

 家に帰らないといけない。家に。あの家に。私は同僚を頼った。

「ねぇ、今日風香の家泊めて」

 同期社員の小島風香はびっくりした様子で応じてきた。

「えっ、いいけど何? 何かあった?」

 実は……と、話し出す。風香は驚いた顔を見せた。

「何それ? 怖……」

 心霊? と訊いてくるが心当たりがない。風香は心配したような顔をしてこちらを覗き込んできた。

「とりあえずうち来ていいよ。でもそれ、早く何とかした方がいいよ」

「けど引っ越してまだ一週間も経ってないし……」

「不動産屋さんに文句言った方がいいよ。それ絶対事故物件だって」

「開示義務とかなかったっけ? そういうの一切なかったんだけど」

「悪徳不動産屋とかに当たったんじゃないの?」

「どうだろう。大手不動産会社の紹介だけど……」

「地元の不動産屋買い上げたとかで、変なところに当たったんだよ、きっと」

 そうなのかな。契約した時の担当者のことを思い浮かべる。三橋さん。感じのいい男性で、私の提示した条件も丁寧に検討してくれた人だけど……。

「明日仕事休んで不動産屋行ってみる」

「うん、そうした方がいいと思う」

「ひとまず今晩泊めて」

「いいよ。汚いけど勘弁してよ」

 そういうわけで一晩風香の家に泊まった後、一度不動産屋に行くことになった。確かに多少散らかっていたとはいえ、風香の家の、何と居心地がよかったことか。

 その夜は眠くなるまでガールズトークをして過ごした。同僚の何とかさんはレストランで店員にため口利いてそう、とか。上司の何とかさんは夜がねちっこそう、とか。



「心霊現象?」

 不動産屋。担当者の三橋さんはぽかんとして私の話を聞いた。私は淡々と起こったことを話した。気づけばどこかしらの電気がつけっぱなしになっていること。電気を消すと「おい」と野太い男性の声が聞こえてきたこと。

「ちょっと、確認してみますね……」

 と、三橋さんはカウンターの向こうに消えてしまった。時間にしてどれくらいだろう。それなりに待たされた後、三橋さんは中年の男性を連れて戻ってきた。開口一番、三橋さんは謝罪した。

「砂越さん。申し訳ありません。僕の確認不足でした。お話の件、詳しい人を連れてきたので少し話を聞いてもらえないでしょうか……」

 と、三橋さんに連れられてやってきた中年男性は「仙田です」と名乗ると話を始めた。

「実は砂越さんがご契約された物件ですね、前回契約された方も、その前に契約された方も、非常に短い期間で引っ越しをなさってるんですよね」

「は、はぁ」

「詳しいことは訊いても答えてくれなかったので、弊社としても具体的な状況を把握できていなかったわけですけど、三橋から話を聞く限りだと、つけっぱなし……?」


 そうなんです、と私は三橋さんに話した内容を繰り返す。仙田さんは深刻そうな顔をして話を聞いていた。

 やがて私の話が終わると、仙田さんはカウンターにあったパソコンをかたかたと操作して、何やら情報を調べたようだった。それからまた深刻そうな顔をすると、こう返してきた。

「前回と前々回のご契約者様が短期間でお引越しなされてますね。その前のご契約者様は比較的長い期間住んでいたようですが、それにしても前回前々回の方が気になりますね……」

 弊社としては、と仙田さんが続けた。

「何か特殊な事態……その、自殺とかですね、が発生していたわけではないことと、得られる情報が極端に少なかったので、弊社としても情報を開示することができませんでした。この点に関しましては誠に申し訳ございません」

 深々と、仙田さんと三橋さんが頭を下げる。私はそんな、と手を振ってから、話を続けた。


「私はどうしたらいいでしょう。できればすぐにでも引っ越したいのですが……」

「もし砂越さんさえご不快でなければ、私共の方で新しい物件を探させていただきます。しかし大家との契約や諸々の手続きの関係上、どうしても一週間ほどは時間がかかってしまいますので……」

「一週間」

 どうしよう、と迷った。一週間。風香の家に泊まるにしても限度がある。どこかホテルを……とは思ったが、そんな金銭的余裕もない。ごねてみようか。そっちの責任なんだから一週間避難するホテル代を出してくれないか、と。

 しかしこちらの言いたいことをすぐに感じ取ってくれたのだろう。三橋さんが提案してきた。

「一週間の避難場所にお困りでしたら、ウィークリーマンション等のご紹介もできます。ホテルに宿泊するより割安で済むかとは思います」

「た、助かります」

「いえ。この度は弊社のせいでご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ありませんでした」

 深々と、また一礼。そしてこの頃には、私の中である決心が固まっていた。ちょっと古い人脈になるけど、もしかしたら今回の件、そういう昔の縁を取り戻すきっかけなのかもしれない。

「あの、私、こういうトラブルに詳しい知人がいるので……」

 きょとん、と二人の表情が落ちる。私は膝の上でぎゅっと拳を握ると、話を続けた。


「今後、あの部屋を借りる人たちのためにも、ここで一度すっきりさせた方がいいと思うんです」

「は、はぁ」

「知人、と言ってもしばらく連絡を取り合っていない人なんですけど、でももしかしたら、解決してくれるかもしれないので……もちろん、あの部屋からは引っ越します。引っ越しますけど、でもお互い綺麗にこの件を終わらせるためにも、一度本格的に手を打ってもいいのかな、って」

「そういう方をご紹介いただけるのでしたら私共としても嬉しいのですが……」

「私もこの件、できることはないか考えてみます」

 すっと、カウンターから立ち上がる。頼っていいのか分からない相手だけど、でも何もしないよりずっといい。

「詳しいこと、分かったらご連絡します」

 そう告げて、不動産屋を後にした。風香の家に向かう途中で、電話する。


「……もしもし、狐井くん?」

 すると懐かしい声が返ってくる。多分私が相手だからだろう。沈痛な、暗い声。

「……久しぶりだね。どうした?」

「ちょっと相談したいことがあって。美咲に手も合わせたいし」

 私は思い浮かべる。

 親友。雪川美咲。彼と結婚してからは狐井美咲になったけど、でも私の中では、美咲はずっと、雪川美咲。

「……美咲に相談するようなことだったら、僕にできることは限られている」

 狐井くんが重たい口調で返してくる。私は頷く。

「うん。狐井くんに霊感がないことは知ってる」

「だったら……」

「でも美咲が、『彼はちょっと変わった方法で除霊する』って」

 電話口でも、彼が明らかに狼狽したのは察することが出来た。しかし一瞬の間の後、彼は静かにこう告げてきた。

「美咲が働いていた神社は分かるな」

「うん」

「来てくれ。そこで待ってる」

「うん」私は小さく頷く。

 それじゃあ、と言いかけた彼に、私は伝える。

「狐井くん……コンさんって呼んだ方がいい?」

「できればそっちで頼む」

「じゃあ、コンさん」

 ありがとう。

 私がそう告げると、電話口でもハッキリ、彼が困るのが分かった。

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