ブレークポイント

愛してないの?

「愛してないの?」

 どうしてそんなことを言われるのだろう。

「何を言ってるんだ」

 僕は笑う。朝食を食べながら。気持ちのいい朝だ。

「愛してないの?」

「愛してるよ」

 いつも通り、返す。

 しかし。

 美咲の表情は硬い。いや、硬い、というよりは……?

「愛してないの?」

「いや、愛して……」

 表情。変化がない。ただ繰り返しているだけだ。愛してないの、愛してないの、愛してないの、愛してないの。

 汗をかく。僕何かしたか? 浮気の類いは一切ない。そりゃ、確かに裸も見飽きるような関係にはなったが、しかし気持ちは冷めてない。


「愛してないの?」

 テーブル。面と向かって座り合っている。じっと見つめてくる。僕は返す。

「どうしたんだい? 何で急にそんな……」

「愛してないの?」

 強情。愛してないの、の一点張りだ。これだから女性は。

 ……と、思っていた時だった。

 あれ? 指先が濡れてる。あれ? 何かがポタポタ……。あれ? 痛いぞ? 

 手を見る。手首。

 ざっくり裂けている。


 あ、そうだ。僕は……。



 朝。

 目を覚ます。

 手首を見る。傷跡。懐かしい、とさえ思う。

 ベッドから出てふらふらとキッチンへ。

 水を一口飲んで、思う。

 いったいいつこの悪夢から解放されるんだ。

 錠剤を飲む。不安に駆られたら飲みなさい、と医師から言われているものだ。一日一錠。だが僕はほとんど飲まない。飲むのはこういう日。朝から辛い日。


 一日一錠と言われた薬を十錠飲む。それから少しの間、僕はリビングのソファに座って床を眺めていた。

 どれだけそうしていたかは分からないが、少なくともフローリングの木目に規則性を見出すくらいになってようやく、薬が効いてきた。頭がじんわりしてくる。感情という感情がなくなる。怖くもないし寂しくもない。心が痺れるんだ。辛くない。辛くない。


「愚か者」

 声がする。薬のせいかなぁ。

「愚か者」

 再び、声。

 薬のせいじゃ、なかったか。

 諦めたようにため息をつく。と、それを合図にしたかのように。

 部屋が赤く染まる。朱色。聖なる色。魔除けの色。


「分かっていないようじゃな」

 目の前に、獣。獣ということは分かる。暗い影に包まれているから様子は見えないけど、多分獣。だって四本足だから。あれ。人間にも足が四本あったっけ。

「自分を傷つけるのは何の解決にもならんと知ったはずじゃ」

「ええ、でも……」

「死の真似事をすれば妻に近づける気がするのか?」

 そう、そうだ。僕の妻は死んで……。


「うわああああ」

 声が出る。叫びともつかない。ただの声。頭を抱える。

「愛していないのか」

 あのお方の声。何を言ってるんだ。愛してる。愛しているんだ。

「其方が死ねば願いもなくなる。余は仕事が減るから困らんが、其方は……」

 慌てて縋る。

「困ります。お願いです」


 あの方はつーっと鼻先を上に向け、冷淡に続ける。

「彼方から此方に近づいておる」

「ごめんなさい。気をつけます」

「今の其方はまともな考えができん」

「眠ります。そうすればまた……」

 と、口をつぐむ。また、会える。そう思ってしまった。


「くぐれ」

 ふと、気がついて、振り向くと。

 背後に鳥居があった。真っ赤な鳥居。いくつもいくつも並んでいる。異世界へ誘うように、いくつも、いくつも。

「作法は心得ておろう」

「はい」

「よいか。女のことを考えるな。亡者は帰っては来ないのじゃ」

「はい」

「……分かっておるな」

 この確認が何を意味するか、僕には分かった。分かっているつもりだった。

「はい」

「二度とあのような術は使わぬと誓ったな」

「誓いました」

「今其方を苦しめているのはその代償であるということも話したな」

「はい」

「ではくぐれ。話は終わりじゃ」


 獣が……あの方が鳥居を示す。僕は振り返ると真っ直ぐに歩き出した。頭の中に響く。美咲の声。

 愛してないの? 









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