ブレークポイント
愛してないの?
「愛してないの?」
どうしてそんなことを言われるのだろう。
「何を言ってるんだ」
僕は笑う。朝食を食べながら。気持ちのいい朝だ。
「愛してないの?」
「愛してるよ」
いつも通り、返す。
しかし。
美咲の表情は硬い。いや、硬い、というよりは……?
「愛してないの?」
「いや、愛して……」
表情。変化がない。ただ繰り返しているだけだ。愛してないの、愛してないの、愛してないの、愛してないの。
汗をかく。僕何かしたか? 浮気の類いは一切ない。そりゃ、確かに裸も見飽きるような関係にはなったが、しかし気持ちは冷めてない。
「愛してないの?」
テーブル。面と向かって座り合っている。じっと見つめてくる。僕は返す。
「どうしたんだい? 何で急にそんな……」
「愛してないの?」
強情。愛してないの、の一点張りだ。これだから女性は。
……と、思っていた時だった。
あれ? 指先が濡れてる。あれ? 何かがポタポタ……。あれ? 痛いぞ?
手を見る。手首。
ざっくり裂けている。
あ、そうだ。僕は……。
*
朝。
目を覚ます。
手首を見る。傷跡。懐かしい、とさえ思う。
ベッドから出てふらふらとキッチンへ。
水を一口飲んで、思う。
いったいいつこの悪夢から解放されるんだ。
錠剤を飲む。不安に駆られたら飲みなさい、と医師から言われているものだ。一日一錠。だが僕はほとんど飲まない。飲むのはこういう日。朝から辛い日。
一日一錠と言われた薬を十錠飲む。それから少しの間、僕はリビングのソファに座って床を眺めていた。
どれだけそうしていたかは分からないが、少なくともフローリングの木目に規則性を見出すくらいになってようやく、薬が効いてきた。頭がじんわりしてくる。感情という感情がなくなる。怖くもないし寂しくもない。心が痺れるんだ。辛くない。辛くない。
「愚か者」
声がする。薬のせいかなぁ。
「愚か者」
再び、声。
薬のせいじゃ、なかったか。
諦めたようにため息をつく。と、それを合図にしたかのように。
部屋が赤く染まる。朱色。聖なる色。魔除けの色。
「分かっていないようじゃな」
目の前に、獣。獣ということは分かる。暗い影に包まれているから様子は見えないけど、多分獣。だって四本足だから。あれ。人間にも足が四本あったっけ。
「自分を傷つけるのは何の解決にもならんと知ったはずじゃ」
「ええ、でも……」
「死の真似事をすれば妻に近づける気がするのか?」
そう、そうだ。僕の妻は死んで……。
「うわああああ」
声が出る。叫びともつかない。ただの声。頭を抱える。
「愛していないのか」
あのお方の声。何を言ってるんだ。愛してる。愛しているんだ。
「其方が死ねば願いもなくなる。余は仕事が減るから困らんが、其方は……」
慌てて縋る。
「困ります。お願いです」
あの方はつーっと鼻先を上に向け、冷淡に続ける。
「彼方から此方に近づいておる」
「ごめんなさい。気をつけます」
「今の其方はまともな考えができん」
「眠ります。そうすればまた……」
と、口をつぐむ。また、会える。そう思ってしまった。
「くぐれ」
ふと、気がついて、振り向くと。
背後に鳥居があった。真っ赤な鳥居。いくつもいくつも並んでいる。異世界へ誘うように、いくつも、いくつも。
「作法は心得ておろう」
「はい」
「よいか。女のことを考えるな。亡者は帰っては来ないのじゃ」
「はい」
「……分かっておるな」
この確認が何を意味するか、僕には分かった。分かっているつもりだった。
「はい」
「二度とあのような術は使わぬと誓ったな」
「誓いました」
「今其方を苦しめているのはその代償であるということも話したな」
「はい」
「ではくぐれ。話は終わりじゃ」
獣が……あの方が鳥居を示す。僕は振り返ると真っ直ぐに歩き出した。頭の中に響く。美咲の声。
愛してないの?
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