迷宮の中で《side:美鶴木科戸》

 このかが屋敷から姿を消したと聞いて、科戸はいても立ってもいられなくなった。

 だというのに隣に立つ青年の横顔に焦燥感は見られず、こうなることが分かっていたかのような落ち着きぶりだ。

「……あの、位空様」

「ん?」

「早くここを出て、このかさんを探しにいかないと」

 位空が鎖を上に引き上げた。片手を上げた状態になった科戸の腰を抱き寄せ、彼はこちらの瞳を覗き込むようにして微笑む。

「このかさんのことなら玄葉さんが対処するから大丈夫だよ」

「……私が大丈夫じゃないんです。自分の目で無事を確認しないと、私が落ち着かないんです。だからどうか」

「そんなにこのかさんが心配?」

「……位空様は違うんですか?」

 ふっ、と位空が微笑んだ。科戸は不安になる。彼の物言いはまるでこのかの安否など気にかけていないかのようではないか。科戸は己の手首を拘束していた氷の鎖の術式を破棄すると、自由になった両手で位空の身体をそっと押し退けた。 

「位空様は……このかさんのお父様に頼まれて、このかさんを守っているんですよね?」

「うん、そうだね。……でもね、科戸さん。これは彼女の父親にも了承を得ていることだけど、彼女をいつ、どうやって守るかは僕の好きにしていいんだ」

「いつ、どうやって……?」

「お姫様のピンチを未然に防いだっていいし、あるいは命の危険が差し迫って間一髪という所で救ってもいい。より感謝してくれそうなのは後者の方だよね」

「……最善を尽くすというやり方ではよくないんでしょうか」

「時と場合によるかもね」

「それは……」

「このかさんを守るのはね、あくまでボランティアなんだよ。友人の遺言を忠実に実行しているだけで、僕に何のメリットもない話だ。だから少しくらい過剰な感謝を集めてもバチは当たらないと思うんだけど。……貴女には異論がありそうだ」

 科戸の心の奥に蒼い炎が燃え上がった。

「このかさんをいたずらに傷付けるのは止めていただけませんか」

「ああ、怒ったの?」

「……怒った訳では」

「じゃあ苛立ったんだ、珍しく。……貴女のダイヤモンドみたいな怒りを間近でよく見せて」

「ぅぶっ」

 有無を両手で頬を挟みこまれ、河豚みたいになった顔を神秘的な碧眼に見つめられるという恥辱。

「いそ」

「ああ……残念。お客さんだ。僕を叱るのはまた後にしてください」

 お客さん?

 彼の言葉を不思議に思った時だった。

 迷路を進んだ先に少し開けた場所があった。まだまだゴールではなく中間地点ということらしいが、そこで艶美な女の声に迎え入れられた。

「お待ちしておりました、九堂様」

 攻撃的ではなく、むしろ好意的な感情を多分に含んだ声だった。

「やぁ、貴島社長。元気そうで何よりだ」

「ふふ、何もかも分かってらっしゃるようですわね」

 貴島と呼ばれた女を見た瞬間、科戸は理解した。

 この人は……大蜘蛛だ。

 踏み荒らしたくなる白い肌は獲物を誘い込む為の罠、蠱惑的な視線は正常な判断力を鈍らせる毒だ。

「九堂様。こちらへどうぞ」

 貴島の指し示す場所には円卓と椅子が置かれてあって、卓上にはお菓子とティーセットまで用意されていた。まるでこれからお茶会でも始まるかのようだ。貴島が椅子を引き着席を促す。

「まだお嬢様には何もしませんわ。近いうちに間違いは正されねばなりませんが……一先ずアレは大切な取引材料ですから」

 間違いを正す。その言葉の不吉さに科戸は眉をひそめた。

(間違い?)

「あの能無しのお嬢様、このままならただのゴミ。廃棄しなければいけませんが、万が一お父上の血を取り込み覚醒するならば話は別です」

「取り込む、ね」

「ええ。無力な人間の身体に吸血鬼の血を注げば間違いなく死に至るでしょうが、もし覚醒することができたなら我々が正しい吸血鬼としての教育を施して差し上げましょう。廃棄か、教育。どちらにせよ、これで正しい道に修正できそうです」

「彼女の身体に瑶一郎の血を注入するってことかな?止めてあげてほしいな、彼女は瑶一郎と愛する奥方の一粒種。大切なお嬢さんだから」

 位空の言葉を聞いた途端、貴島の顔が強張った。

「おぞましい。人間を愛するなど」

 貴島が吐き捨てた。

「そんなものは全て幻、間違いです。吸血鬼は人間を愛したりしませんし、低位の混血はただの道具に過ぎません」

 動揺している。

 それを見てとって、科戸は氷の鎖で貴島を拘束しようかと考えたが……止めておいた。

 敵が彼女一人とは限らない。

 考えなしに動くと、このかとナキを危険に晒すかもしれない。

「……何か良からぬことを考えているようですわね」

 艶やかな声に低いものが混じった。科戸が顔を上げると貴島が冷たい表情でこちらを見下ろしていた。

 その時、シュルシュルシュルと貴島の腕が

「!」

 ほどけた腕は一筋の糸となり、それは科戸の首や腕、足へと巻き付き、身動きかとれなくなった。

 地面に映った自分の影はまるで操り人形だ。

「あなたごときが私をどうにかできると思いましたか?私は吸血鬼族の信奉者ですのよ?その美しさと強さを崇拝している。そんな私が生身の肉体で九堂様の前に立つなんて迂闊な真似……するはずがないでしょう?」

 左肩から先がなくなったというのに貴島の身体からは血の一滴も流れてはいない。

 どうやら目の前の女性は生身ではなく、ただの傀儡らしい。ちらりと位空に視線を投げると彼は面白そうにこちら見ていた。その表情を見て、彼は初めから気付いていたのだと悟る。

「貴島社長。彼女はね、善良なんだ。友人を人質に取られて冷静でなんていられない、一刻も早く助けなければと考える純粋な魂の持ち主なんだ」

「未熟な……。九堂様、なぜこれをお側に」

「うーん?なりゆき、かな。今のところ」

 位空が科戸を拘束する蜘蛛の糸に触れると、堅固な鋼のようだった糸がぶつりと切れた。急に支えを失った身体を位空に抱き止められる。

「九堂様。下賤の者を気にかけるなど」

「ん?ああ……そんなことより、僕をもてなしてくれるんだ?楽しみだな」

 そう言って位空は科戸をその場に下ろすと、円卓に近付き椅子に座った。緊迫感のない和やかな声で会話を続けながら、科戸だけに見えるように指先をちょいちょいと動かしている。指し示しているのは位空の椅子の背後で、どうやらここに控えていろということらしい。

「それにしても貴方のその傀儡の術……見事なものだ。普通の人形ではないね、心の欠片が入っている」

「流石は九堂様。お分かりになりますか」

 貴島は赤い唇をつり上げて、誇らしげな笑みを見せた。

 しかし科戸は内心で眉をひそめる。

「分割した心を人形に入れるというのは傀儡を操るというよりも分身を作るのに近い。そういった術は吸血鬼の領分だろう?教えてもらったかい?」

「ええ。人形を操るのは蜘蛛の一族の得意技ではありますけれど、心の欠片を入れた傀儡を扱えるのは一族でも私ぐらいのものでしょうね」

「そう……吸血鬼至上主義者きみたちはさ、当然と言うべきか、皮肉にもと言うべきか……吸血鬼との戦い方を心得ているよね。僕の前に生身を晒さないし、人質の用意も忘れない。まぁ人質など気にせず思うまま力を使うよう仕向けるのも君達の言うところの、教育……かな?」

「貴方様に教育など滅相もありません。余計な邪魔が入らないようにしたかっだけですわ。九堂様と混血の未来について話がしたかったのです」

「未来ね」

「我々はこの社会の現状を憂いているのです。太古の時代、吸血鬼はその絶対的な力を持って他の種族を治めていました。それなのに今は……本能のまま行う吸血行為は認められず、暴走した混血を静める為にしか血を吸うことは許されない……。なんて窮屈で退屈な世界だとは思われませんか」

「そういうのを窮屈だと思う者もいるだろうね。けど僕は結構楽しんでるよ」

「本当に?昔のように本来の力を示し、他種族を隷属させたいとは思われませんか」

「はは、嫌われそうだな」

 ナキが笑った。意外に思って科戸は目をしばたたかせる。位空でも他人からの嫌厭の情を気にすることがあるのか。誰にどう思われていても平気そうだけれど。

「それで吸血鬼至上主義者共きみたちはどうやって世界をひっくり返すつもりなの?」

「……古く清らかな血の婚姻によって」

 まるで夢見る乙女のようなうっとりとした表情で貴島は言葉を紡いだ。

「我々の主である最古の吸血鬼……。あの方は花嫁に貴方を御所望ですわ、九堂様」


 ……。

 ……花嫁?

 衝撃的な言葉に科戸は固まった。


「正しい血統のお二人が結ばれ、血を繋いでいく……それは吸血鬼族に大いなる繁栄をもたらし、他種族を正しく導いてくださることでしょう」

「あは。僕が妻役なんだね。まぁ確かに老若男女愛でられるけれど、一応僕の性自認は男なんだよね」

 確かに吸血鬼は変幻自在に姿を変えられるし、年齢も性別も思いのままだから位空を花嫁に迎えるのは不可能ではないのだろうが……。

『こんなもんががリビングにいたら家の景観が損なわれるだろ』

 ナキの呆れ声の幻聴が聴こえた気がした。

 その時、貴島がちらりと科戸を見たので不思議な気持ちになった。恐らく彼女は外見を重視する価値観を持っていて、こちらに投げる視線には侮蔑が含まれていた。しかし彼女は一度攻撃を仕掛けて以降はそもそも科戸を視界に入れず、いないものとして扱っていたはずだ。話す価値がないと判断されたのだろう。それなのに、こちらを見た?

「ねぇ貴方……」

 クスッと貴島が毒を含んだ笑みを浮かべた。

おきながえらくご執心でしたわ」

「!」

 科戸の細い身体に巨大な蛇が巻き付いたのはその時だ。いや蛇ではない、黒光りする身体には蠢く無数の手足がはえている。

「久しぶりだな小娘……」

 科戸の顔に自分の顔をくっつけんばかりに近付けて百足野郎が言った。頭部だけが老人というおぞましい姿は以前病院で見た時と同じだったが、その表情は憎々しげに歪んでいた。

「卑怯な手でわしの呪いから逃げだしおって。お陰でわしは組織の笑い者だ」

 老人の濁った眼は怨毒で満たされ、声は怨嗟で染まっていた。

「罪を償わせてやるぞ」

「……罪?」

 思わず自身の声に困惑が滲む。何の罪だろう。百足はギリギリと科戸の身体を締め上げてくる。

「我々はこの世界の秩序の番人だ。お前のような取るに足らぬ小娘が愚かな浅知恵で秩序に歯向かった、その罰を受けろ」

 不思議なことを言う人だな。

 ……そんな感想が真っ先に浮かんだ。


 でも、それは特に口にはしなかった。


 科戸はじっと老人の顔を見つめた。科戸は反論しない。この世の中には話が通じない人というのが存在していて、そんな人との議論の時間は無駄でしかない。

 議論ができないとなると解決方法は一つしかない。暴力だ。勝った方が正しい、まけた方は悪。シンプルで野蛮だなと思うけれど、仕方ない。

「ひひっ、恐怖で動けないのか?」

 老人の頭部の近くには顎肢がくしと呼ばれる器官がある。百足はここで獲物に噛みつき毒を注入するのだ。以前科戸が噛まれた時も顎肢で噛まれ、呪いを受けた。

「……」

 科戸は微笑んだ。

「小娘、恐怖で気が触れ」

 言いかけた言葉は途中で途切れた。

 科戸が操った氷の鎖が百足の頭部や胴体を切断して、口も真っ二つに切ったからだ。

 文字通り口ごと、言葉も途切れた。

「な……っ」

 驚いた声を出したのは貴島だった。彼女は急いで立ち上がり、地面に落ちてまだピクピク動いている欠片を見て身体を硬直させた。

 一方位空は……地面を見ていなかった。科戸を見ていた。

 翠色の瞳の中に微かな揺らぎが見えて、それがとても美しかった。

「……」

「……少しは力も使えるようですわね。しかし何度同じことを言わせるのです。我々は生身ではなくただの傀儡。傀儡を幾つ壊した所で痛くも痒くもありません」

 貴島の言葉に科戸は頷く。

「勿論覚えています。流石に生身の人間を細切れにはしませんよ」

 科戸は手を振った。指先から蒼い光が放たれ貴島に直撃した瞬間、彼女は氷付けになった。

 傀儡の身体をほどく暇は与えなかった。

 それからゆっくり屈んで、必要なモノを手に取る。

「科戸さん」

 位空の声がした。

 その声が……何だろう。気のせいではあるだろうけど、ほんの少し……悲しそうに聞こえて、科戸は不思議に思った。不思議な気持ちのまま、呪いの毒がたっぷり仕込まれた顎肢を自身の掌に食い込ませた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る