暗転《side: 深際このか》
「和泉さん、九堂様からお電話が入っています」
部屋に閉じ籠もって本を開いているとメイドの花梨の慌てた足音が聞こえてきた。余程急いでいたようで廊下をパタパタ走りながら声を掛けたため、すぐさま和泉に窘められる。
「花梨。品のない足音をたててはいけませんよ」
「す、すみません。至急の用件だと仰っておりましたので」
「九堂様が?分かりました」
……何だろう。
このかは扉から顔を覗かせる。
ものの数分で和泉は戻ってきた。位空からの用件というのは短時間で終わるものだったらしい。
「位空さまは何とおっしゃっていたの」
「ああ……お嬢様」
和泉は何か重大な問題について思索を巡らせている最中のようで、普段の如才のなさが失われていた。どんな心配事があろうとも冷静に対処してきた執事は今は深刻そうな表情で眉間に深い皺を刻んでいた。しかしこのかの不安そうな顔に気付くといつも通り穏やかな笑みを浮かべた。
「いえ、それほど急用という訳ではありませんでした。植物園の開園記念パーティーの後、屋敷に立ち寄るとの事です」
「……」
嘘だ。
彼の眉間に皺を刻んだのは、そのような些末な用件ではないだろう。
自分の命を狙う組織について、このかはこれまでただ守ってもらうだけで、自ら戦おうなんて考えもしなかった。心のどこかで目を瞑って耳を塞いでいれば、いつかは通り過ぎる嵐のように捉えていたのかもしれない。目の前で科戸が傷付かなければ今もそう思っていたのかもしれなかった。
「……ねぇ。本当は位空さまは何て言っていたの」
「先程お伝えした通りです。お嬢様が気に病まれることなど何もありませんよ」
「私の大切な家族や友人に関わる話なら聞かせてほしいわ」
このかの言葉に和泉が目を見開いた。
「私にはお父様のような力はないし、お母様のような聡明さもないけれど、ちゃんと知っておきたいの。もう二度と不用意に人を傷付けないように」
「お嬢様……」
和泉は僅かな間逡巡を見せたが、すぐに意を決したように顔を上げた。
「分かりました。……しかし今は時間ありません」
「位空様から何か頼まれたの?」
「はい。ですがそれが終わったら必ずお話します」
「ありがとう」
「……お嬢様。先程お伝えした、玄葉様が屋敷に立ち寄るというのも嘘ではありませんよ。植物園のお土産をたくさん届けてくださるそうです」
「植物園?」
そこは確かこのかの好きなキャラクター、キレ猫の限定グッズを売っている場所だったはず。そのことを知ってはいたけれど行きたいと言えるはずもなく……。
大切な友人といつか交わした会話を思い出しながら、このかは胸の痛みに耐えた。
助けてもらっておきながら碌に礼も言わず一方的に科戸に別離を告げた。……もうきっと会ってはくれないだろう。
「……お手紙を書かれてはいかがでしょうか」
執事の言葉にこのかは顔を上げる。
「え?」
「美鶴木様を危険にさらす可能性を考えて、もう会えないと告げたお嬢様の判断はご立派です。ですが突然のことで美鶴木様も戸惑われたことでしょう。ですから会えない理由を手紙で伝えてはどうかと思ったのです。いかがでしょうか」
「……でも、もう失礼な手紙を渡してしまったわ」
「私もこれまで幾度となく失礼な振る舞いをしてしまいました。けれど退院された美鶴木様のもとへ謝罪に伺った時……私を責める言葉など一つもなく、ただひたすら……このかお嬢様を心配する言葉だけを。あの方はこのかお嬢様の大切なご友人です。私の見る目が足りなかった、本当にどれだけ謝罪しても足りません」
このかを心配するあまり、この屋敷に近付く全ての人間に敵意を向けていた和泉が静かな声で言った。
「……」
泣いちゃ駄目だ。
まだ何も解決してない。
向けられた悪意は変わらず自分を狙っているはずだ。
けれど心に芽吹いた希望の芽に、このかは嬉しくなった。
「私……屋敷の皆が科戸と仲良くなってくれたら……泣くほど嬉しい。凄く、嬉しい……。話したら分かる、優しい人なの。本当よ……」
「はい。屋敷の者達にも美鶴木様が身を挺してお嬢様を庇ってくれたことはすでに伝えてあります。……お嬢様がまた美鶴木様と穏やかに日々を過ごせるように我々一同、力を尽くします」
「うん……」
鼻の奥がつんとする。このかは無理矢理笑って見せた。
「引き留めてごめんなさい。位空さまの用事を済ませてちょうだい。また詳しい話を聞かせてね」
「はい、後ほど。必ず」
一礼して去っていく和泉の肩が揺れていた。普段なら上半身がブレることなど決してない熟練の執事が。相当急いでいる証拠だ。
「……」
部屋に戻ったこのかが目尻の雫をそっと拭い、ソファーの背もたれに身体を沈めた時だった。
窓の方から艶めいた女の声が聞こえた。
『このかお嬢様』
「!」
このかはびくっとして室内を見回した。
……誰もいない。気のせい?
『ここですわ、お嬢様』
「……!」
気のせいじゃない。メイドの声でもない。
顔をひきつらせたこのかが人を呼ぼうとすると、再び声がかかった。
『窓を見てください』
「な、なに」
迂闊に近付くことはせず、その場からおそるおそる窓の方を見た。そして更に顔をひきつらせることになる。
窓枠にちょこんと鎮座していたのは……黄色と黒のストライプが生理的嫌悪感を煽る、一匹の蜘蛛だった。
「やだ……っ」
『お嬢様。怖がらないで下さい。私です、覚えておいででしょうか?貴島です、昔何度かあなた様の洋服を仕立てた事があるのですが』
「……。き、貴島……?」
パニックになっている頭でも記憶を紐解くことはできた。
「お……覚えているわ。久しぶりね……、どうしてそんな姿でそこに?」
『申し訳ありません。人の姿では屋敷に近付くこともできず、この姿でもこれ以上お屋敷に入れないのです。恐らく九堂様の力だと思うのですが』
「位空さま……?」
『家人に招き入れてもらわないと入れない仕掛けになっているのですよ。それで仕方なく蜘蛛を操り貴方にコンタクトを取っているという訳です』
位空がそんな術をこの家に施しているなど知らなかった。
『ここ数日、以前より更に強固な結界と暗示が施されていて近付けません。近付こうとすると迷ってしまうのです。けれどどうしてもお嬢様にお伝えしたいことあって、無理をして参りました。……どうか、九堂様にはお気を付け下さい』
「……どういう意味?」
『あの方は貴方を世間から隔離し、言いなりにしようとしているのです。貴方のお父様は事故死などではありません。殺されたのです』
「……」
一瞬、頭が真っ白になった。
「殺された?」
『ええ』
「何を、馬鹿な」
『信じてください、お嬢様。九堂様こそが貴方のお父様を殺した犯人なのですよ』
「なんですって?」
『この一年間貴方は屋敷に閉じ込められていた。それで状況が良くなりましたか?屋敷の外に出ては行けないというのはいつまで?貴方の身に何か危険なことが起こったことがあるというなら、それは九堂様の自作自演です。本当は外の世界に危険などないのですよ。貴方を囲い込むための嘘ですわ』
「……」
このかは位空のキラキラとした胡散臭い、一分の隙もない笑顔を思い浮かべる。
溜め息がでた。
「確かに……本当の事ばかり話しているわけではないでしょうね、あの方は。隠し事も多そうだわ」
『聡明な貴方は勘づいていらっしゃると思っておりました。九堂様の不正の証拠があるのです。私を屋敷の中に招いてください』
「でもね」
このかは幼くても屋敷の主だ。
このかが誰を信じるか、誰の言葉を聞くかで屋敷の者達の生活が……人生がかかっている。
「あの方はね、お父様とお母様が私のことを考えて選んでくれた後見人なの。私は二人を信じるわ」
位空は全く信用ならないが、父と母のことは信じられる。
脳裏によみがえったのは幼い頃父と交わした会話。位空の胡散臭さについて訴えた時、父は困ったように笑いながら娘を諭した。
「うーん、流石我が娘。見る目があるなぁ。確かに彼はふざけた嘘から悪意ある嘘まで幅広く取り扱う大嘘つきだ」
フォローする気があるのかないのか、のんびりした口調で父は言った。
「甘い蜜のような言葉で人を溺れさせては破滅に導く……うん、吸血鬼というか悪魔みたいだね」
悪口にさえ聞こえる台詞にこのかは呆れた。
「まあ位空が破滅させるのは世にいう極悪人だけどね。けどその方法が回りくどくて……何て言うのかな……本来数ページで終わるはずの物語をわざと引き伸ばすようなことをするんだ。彼の演出に巻き込まれて善人が被害を被る時だってある。……どうしてそんなことするかって?それは彼がより大きな感謝を得る為だったり、人心を掌握する為だったりするんだろうね。例えばこのかが悪漢に襲われたとして、逃げて逃げて死ぬと思ったその時に助けられたらさ、助けてくれた人のこと神様だと思うんじゃないかな?そういうことを彼はよくする。気まぐれに誰かの神様になっては笑ってる。悪い吸血鬼だよね」
どうしてそんな人と友達なの。そう聞くと父は朗らかに笑った。
「んーそうだな、もしかしたらバチが当たる所が見たいのかも。死神に接吻を受けている最中だって笑っているような彼が心底後悔する瞬間が見たいから友達なのかもね」
父もまた世間一般の友情からはやや外れた境地からの物言いだった。友達の後悔する姿が見たいだなんて。しかもそんな日が来るとは到底思えない。
「いや、私の直感が正しければ彼は近々己の行いを後悔する時がやってくるよ。必ずね。この世でただ一人、永遠の誠実を捧げなればならない相手と会った時に」
『く……っ』
笑いを噛み殺す声が聞こえた。
『そこまで馬鹿ではないようですね』
これまでの声音とはガラリと変わった貴島の声。このかは目を細める。
「……どうかお引き取りを、貴島社長。もう私が貴方の所で品物を頼むことはありません。センスの悪い冗談も嫌いです」
『何も知らないんですねぇ。私はね、冗談など言っておりませんよ。貴方のご両親は殺されたのです』
「事故よ。暴走した車が突っ込んできたの。でもその運転手が
『そう……あの憐れな運転手。自分の意思に反してアクセルペダルを踏み続けるのはさぞかし怖かったでしょうね』
「……何ですって?」
『私の可愛い蜘蛛に操られて……アクセルを踏み抜き、真っ直ぐ貴方のご両親の乗った車に突っ込んで即死したあの可哀想な運転手ですよ』
「……」
……何?何て言ったの、今。
事故じゃ、ない?
操られた?
殺された……?
「嘘よ」
『ふふ……お嬢様。瑶一郎様は貴方のせいで死んだのですよ。貴方がこの世に生まれていなければ、あの女が吸血鬼の血を汚していなければ……殺されることはなかった。流石に私共も吸血鬼が人間のペットを持つことくらいは許しますわ。ただ……結婚などど愚かなことを口走しり、高貴な血を貶めた彼には罰を与えなければいけません』
蜘蛛の体の何処から声を出しているのか。朗々と語り上げるその声はこのかの鼓膜を揺らすだけでなく、脳味噌をも揺さぶった。
「嘘……そんなの」
『吸血鬼の誇りを失い、人間の女に誑かされ、汚らわしい半妖をこの世に産み落とした……万死に値する罪ですわ』
「いい加減にして!」
『お父様に会いたいですか?』
「……何ですって?」
『会わせてあげましょう』
「……?」
『死んだ瑶一郎様の身体から血を抜いたのですよ。貴重な貴重な吸血鬼の血を、貴方に見せてあげましょう』
「……!」
カッと頭に血が上った。窓際に詰め寄り、怒りのままに手を振り上げた。蜘蛛を叩き潰そうとしたのか、それとも払い落とそうとしたのか自分でもよく分からない。とにかく視界から消したかった。
このかの手が蜘蛛に触れる直前、蜘蛛が白い糸を吐いた。
「……っ、やだ!」
糸がこのかの手に巻き付いた瞬間、身体が引っ張られていた。外に投げ出されそうになり、咄嗟に窓枠に手をついた。
「……や、何!?」
チクッと針に刺されるような感覚。
見ると指先にほんの小さな赤い点があった。
噛まれた?
蜘蛛を払い除けようした時、突然身体が平衡感覚を失った。よろよろと後ろに下がる。
「……あ、っあ」
息が上手く吸えない。
しかしグラグラするのに、このかの身体は倒れなかった。指先から広がった痺れが瞬時に脳にまで届いてぼんやりする。
『お嬢様。こちらへ』
貴島の声が聞こえた。
声に導かれ足が動く。右、左、右、左。
『さぁ、私を受け入れてください』
カクン、と頭が垂れた。
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