第23話 帝国軍

 赤い欠片には、触れているだけで胸が締めつけられるような感覚があった。この中にも、多くの記憶や感情が詰まっていることが、痛いほどに伝わってくる。あれほど憎んでいた相手だったはずなのに、今となってはその感情すらも薄れていた。


 赤い欠片はほんのりと温かく、まるでクオトラを受け入れようとしているかのように感じられた。しかし、今この場でそれを取り込む気にはなれず、彼は欠片をそっと懐にしまい込む。


 右手には、まだ生温かい血の感触が残っていた。振り払っても消えない感覚。思い出すたびに、心臓が激しく鼓動し、その不快さに耐えられず、クオトラは深く息を吸い込んだ。しかし、胸の奥にある重苦しい感情は拭い去ることができず、彼はその場に力なく座り込んだ。


「クオトラ……」


 隣からは弱々しい声が聞こえた。また心配をかけてしまった……そう思いながらも、フレーリアの方を向く。


「フレーリア……どうしたの!?」


 彼女は苦しそうに右手を抑え、蹲っていた。クオトラは重い体をなんとか動かし、彼女の右手を確認する。


「これは……」


 フレーリアの右手には、まるで鎖が巻きついたかのような蚯蚓脹れ(みみずばれ)ができていた。


「あの……欠片に触ってから、体がずっと気持ち悪くて……」


 確かにフレーリアは、あの蒼い欠片を触っていた。おそらくその影響だろう。クオトラ自身は秘炎核を持っているため耐性があるが、フレーリアにはそれがなかったのだ。


「まずは、一旦休もう」


 辺りを見渡しても、ほとんどの建物は崩れ、倒壊している。ゆっくりと休めそうな場所は見当たらない。しかし、フレーリアが隠れていた建物は一階部分だけがなんとか残っているようだ。


 既に日は傾いており、今からドイシュタイムに戻る体力もない。さらに、夜になれば死竜が現れる可能性も考えられる。選択肢は限られていた。クオトラはフレーリアを抱きかかえ、なんとかその建物へと移動する。


「ごめん……クオ……トラ」


 フレーリアはまだ苦しそうに右手を押さえている。クオトラは、どうしてやることもできない自分に苛立ちながら、ただ彼女を優しく抱きしめた。しかし、その力も次第に弱まり、彼自身も限界を感じていた。


「ごめん、僕も……もう限界だ」


 あれだけの激しい戦闘をした後だ。体は既に限界を迎え、燃え尽きたかのように気力が抜け落ちていく。気を抜けば、そのまま崩れてしまいそうだった。


 次に気づいたとき、クオトラは何か重々しい音を感じた。目を開けると、外はすでに明るくなっていた。




 寝てしまっていた。そう気づくと同時に、クオトラの全身に悪寒が走る。目は覚め、すぐに立ち上がろうとしたが、体が重く、動きが鈍い。


「クオトラ……大丈夫?」


 フレーリアのか細い声が聞こえた。慌てて彼女を探すと、彼女はまだ丸くなって、痛みを耐えているようだった。その姿に安堵するも、クオトラ自身の体もまた限界に近づいていることを感じた。先ほどまで立っていたことが信じられないほどの疲労感が、全身に広がっていた。


「良かった……良かった……」


 自然と涙がこぼれた。彼は再び立ち上がろうと試みたが、腰に力が入らない。膝が崩れ、座り込んだままだった。


「すごく……頭が痛い。だけど、この足音……」


 フレーリアの声は弱々しいが、彼女の言葉に耳を傾けると、クオトラも外から聞こえる重い足音に気づいた。鎧が擦れる音、大勢の兵士が動いているような足音、どうやらこの近くに、大人数が集結している。


「もしかして、帝国軍……? 」


 こんなにも大規模な集団を動かせるとすれば、帝国軍以外に考えられない。だが、なぜここに? クオトラの頭には疑問が浮かぶ。


「でも……私たちを探しているにしては、あまりにも大掛かりすぎるわ」


 フレーリアも疑問を口にする。ドイシュタイム周辺で見つからなかったとしても、ここアルフィグまで探しに来る理由があったのだろうか。それにしても、これほどの大軍を派遣する必要があるのか……。


「王族の人間に気をつけなさい……か」


 ユスティレイが残した警告が頭をよぎる。もし、この行軍の目的が僕たちだとしたら……。


 一度深呼吸をし、冷静になるよう努める。考えすぎかもしれない。そう思いつつも、耳を澄ますと、何かを掘り返すような音が聞こえてきた。瓦礫を動かし、何かを探している。明らかに、この場所に用があって来ているようだった。


「彼らの目的は……」


「もしかして……僕たち?」


 クオトラは自分の思考を整理しようとしたが、はっきりとした答えは見つからなかった。だが、このままでは彼らに見つかるのも時間の問題だ。そして、相手は帝国軍の一個師団ともなれば、戦いになれば勝ち目はない。


 捕まった場合、何が待っているかもわからない。フレーリアが体調を崩している今、ここで隠れ続けるのは危険すぎる。


 頭の中でいくつもの可能性を巡らせながら、クオトラは外の会話に耳を傾けた。声が遠くから途切れ途切れに聞こえてくる。


「教会には……無かったのですか」


「いや、見落としだ……この辺りにあるはずだ」


 彼らが探しているのは、僕たちではない……か? それでも、彼らの探しているものがこの場所にあるのは間違いないようだった。


「……無かったのか」


「いえ、まだ全てを確認したわけでは……」


 声は遠くで、ぼそぼそと話している。だが、足音が次第にこちらに近づいてくるのを感じた。明らかに、何かを探しながらこちらに向かっている。クオトラは様子を探るため、そっと外を覗いた。


 ――彼らは何かを掘り起こしている。


 それが何かを理解した瞬間、クオトラの全身に戦慄が走った。そして、体中の血液が一気に熱くなるのを感じた。


 クオトラは気づけば、彼らとその穴の間に割り込んでいた。三十メイルほどの距離を一瞬で詰めた自分に、クオトラ自身も驚いていた。


「やめろ!」


 突然の出現に、兵士たちは一瞬驚き、動きを止めた。だがすぐに、その驚きは消え、兵士たちは一斉に武器を抜き、クオトラを囲んだ。


「何者だ? 随分と機敏な少年だが……一体何のつもりだ」


 兵士たちはクオトラを怪訝そうに見つめる。だが、彼らがここに来た目的は僕たちではないのか? クオトラは頭の中で問いを巡らせたが、冷静になる間もなく、集団の中から一人の男が現れた。


「そこの穴は君の仕業かい……? 」


 男は長身で黒い長髪を靡かせる。銀色の鎧を身にまとい、柔和な表情を浮かべながら、ゆっくりとクオトラに近づいてきた。


「君が何者であろうと、怯える必要はないよ。我々はただ、故郷を失った者たちを保護しようとしているだけだ。君たちも、故郷に帰りたかったのだろう?」


 男の顔からは何も読み取れない。彼の言葉が本心なのか、それとも意図的なものか、分からなかった。だからこそ、クオトラは何も明かすわけにはいかないと感じた。


「そうだ。だけど、僕たちが街を抜け出しただけで、どうしてこんな大集団で追いかけてくるんだ?」


「おや、そうか。我々は君たちのように、故郷を失った者たちを保護しているんだ。特に君のような年齢では、過去の悲劇がフラッシュバックすることも多い。さらに、一度悲劇に見舞われた土地には危険な生物が住み着くことも少なくないからね。たまたまこの地を通る用事があったので、ついでに君たちを保護しに来たというわけだよ」


 男は微笑を浮かべながら、ゆっくりと語った。言葉の裏に含みは感じたが、明確な嘘は見受けられない。だが少なくとも、こんな大軍が子供二人を探しに来る理由としては疑問が残る。


「そう……か」


 怒りで燃えていた頭が冷えていく。今、この集団を敵に回しても勝てるわけがない。足元にはユスティレイの墓があり、背後には疲れ果てたフレーリアがいる。


 どうするか……。


 クオトラは冷静さを取り戻しつつ、別の意味で頭が熱くなっていく。目の前の男は微笑んでいるが、周囲の兵士たちは武器を下ろす気配がない。


 どうする……。クオトラは一歩、後ずさった。

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