五 夏のはじめの話───我らが店の常連さん
カラリと戸を引いて、入り込んだ風に、
深く息を吸い込み、胸いっぱいを満たすのは初夏の風だ。
それまでより活き活きとして、はっきりと青みを帯びて感じられるようになった爽やかな風。
戸をすべて開け放つと、透雨は箒を手にした。
まだ出入りのない早朝、透雨は店先に姿を現すことがあった。
玄関でもある店の入り口を掃いていく。もう少ししたら
⋯⋯そうして、作業が終わろうという時だった。
ふと、透雨は手を止めて、顔を上げた。
変わっているところはない、よく見る、ふつうの雀だ。だがその雀は、ひたと透雨の方へ視線を据えていた。
じっとこちらを見て動かない。
透雨も見つめた。そのまま、静かな時間が過ぎる。
──さあっと風が吹いた。
「⋯⋯そっか。有難う」
そう、透雨は口にした。すると雀は軽やかに飛び立っていった。
まるで会話をしたかのよう⋯⋯というか実際に雀の言葉を聴き取っていた透雨は、見送って、店の側に佇む大樹を見てから、遠く向こうの景色へ顔を向けた。
風が、透雨の長い髪を揺らす。
見つめるのは、もっと、別の。
「⋯⋯⋯⋯あの人、今日来るんだ」
しとせ屋は、その日⋯⋯も、ぼちぼちの入りだった。
開店して直ぐの妖狐のふたり連れと、一時間程経ってからの
それからは、ぱったりと客足が途絶えた。
しとせ屋ではすっかり「まあいつものことだ」という意識が定着しており、焦る気配は湧き起こらず、昼を経た今は、閑散した空気が広がっていた。
のんびりしていた。
天気がいいのも
──と、そこに。
また新たにやって来たのは⋯⋯。
「こんちはー」
やや癖のある黒髪に、少々吊りめの
袖をまくった白のワイシャツとグレーのズボンは、何処かの制服のようで。肩には紺の鞄が掛かる。
彼の名は、
近くの
どこからどう見ても、誰が見ても、まったくの人間である。
**
「──あれ。久し振りだね」
統理が小上がりに座ってショルダーバッグを下ろしていると、
統理の方は勝手知ったる自由さである。
「
「そーそー。あと、まあ、色々」
答えている間に、暁生も出て来た。統理の顔を見るなり、「げ」という空気で、明からさまにしかめっ面になる。
だが、統理は気にしない。
店を訪れる度こうなので、慣れたものだ。
「間空けたから此処に来るのちょっと心配だったけど、来れて良かったよ。相変わらず奇妙な入り方してんだな」
「俺達の方からだと、それはよく分からないんだよなぁ」
──しとせ屋のある此処、
探しても出てこない。これは統理はやったことがあるので、実感として断言できる。
そしてこの町は本来、「桜場」と言うところである。統理の通う高校はそこにある学校だから桜場高校なのだ(安直だなぁといつも思う)。
以前、春依に訊いたところによると、帳ノ宮はむこうの地名らしい。
普段は無闇やたらと人が入り込まないように結界が施されているのだとか。
──隠された町。
しとせ屋は、そこに行きたいと願った者にしか辿り着けない場所だ。
「えー⋯⋯っと、念の為に確認するけど、何か依頼があって来た⋯⋯という訳では、ない?」
「あ、うん、ないない。いたって平和」
春依の問いに、あっさりと、そしてはっきりと否定を示す統理。⋯⋯そこに。
「お、透雨も元気そうだな」
姿を見せた彼女は、一瞬ぴくりと身を竦ませ、春依の後ろに半身を隠しつつも「⋯⋯こ、こんにちは」と小さな声で返した。
前髪で顔を遮りながらも、透雨が姿を現し、逃げもせず言葉を返すというのは非常に珍しいことなのだったが──統理はよく分かっていなかった。
そして、
「ど⋯⋯どうぞ」
統理の目の前に差し出される冷茶のグラス。⋯⋯差し出しつつも、ぎゅっと目を瞑り顔だけ背け、ぐぐぐっとせいいっぱい両腕を伸ばしているのは、人見知りな透雨の距離のとり方だろうと思われる。
「良いの? 有難う」
きょとんと見返した統理は、すんなりとグラスを受け取った。直後に透雨は春依の背に戻っている。そんな彼女の様子に、気分を害すこともなくグラスに口をつける。
慣れている、というか。
確かに、透雨が人見知りであることは知っているのだけども。
もっと別なのだ。
──柘 統理、透雨に会う為にしとせ屋を訪れるという、それはそれは稀有な人間だった。
「おい、春依。今日来るって妖狐からの予約入ってなかったか?」
「とっくに来たよ。暁生はその頃二階にいて気付かなかったんだろ」
春依がテーブルの上にあった紙をひらりと見せる。来客⋯⋯顧客名簿なのだろうか?
「⋯⋯来るって分かってるヤツが来たら、後はもう分からんな」
「それでもいつもより来てる方だよ。今年は
のんびりお茶を飲んでいた統理は、顔を上げた。
「⋯⋯うじがみまいり?」
聞き慣れない言葉に問い返せば、「ああ」と春依がこちらを見る。
「三年に一度ある、あやかしや人外のお参りだよ。帳ノ宮の土地一帯のあやかしや人外が、氏神さまの元へ参るんだ。簡単な言い方になるけど、
統理は首を傾げた。
「神様が、神様のお参りすんの?」
──あやかしや人外って、位の差はあれど、そもそもそのほとんどが様々な恩恵を与えてくれる神様なのだ、と聞いたことがある。無論、此処で得た知識だ。
「うーん⋯⋯」
春依はおもむろに、開け放たれた入り口──外を指差した。
「この町の中心地に、広大な桜の森があるんだけどさ。かつて──はるか昔はそこに、大きなお
「ふぅーん⋯⋯」
それだけ格が違う、ということだろうか。
「まあ当人──当神様?は一番古いだけだって言ってるけどね。頼りにされても大して力はないって」
「へぇ⋯⋯」
と統理は頷き。
「⋯⋯なんか、知り合いみたいに言うんだな。氏神さま⋯⋯のこと」
そう言うと、春依は苦笑を滲ませた。なんだか、とても、意味ありげに。
「で、お参りするあやかしや人外が、その道中、ついでに此処へ寄ってくれるんだ。ある意味俺達も恩恵受けてる、って感じ」
「⋯⋯ついでってお前⋯⋯。うち一応常連いるだろ。昔から
顔をしかめて、暁生が口を挟んだ。聞き捨てならなかった模様。
「でもほら、うちのいちばんの稼ぎ時じゃん。そこが」
「言っとくけどその大半はお前らが無償でやっちまう
ほそーい目を向けられた春依は、へらりと笑って
「まあまあ、今ちょうど誰も来ないしさ──」
春依が入り口へと歩む。(透雨はいつの間にか暁生の後ろだ)
店の戸が閉められて。
「──この時間にアレ、やっちゃおうか」
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