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 ピッという電子音と共に扉のロックがかかる。


 資料室から出てきたセレンの手には、もはや自分の体の一部と言っても過言ではないほど手に馴染んだフルートと、この施設のドアを全て開錠し、そして施錠できるICカードが握られていた。


「……」


 白銀のフルートが非常灯の光を怪しく反射させている。 


 薄暗く、無音の施設内で佇むセレンの姿は、まるで月明かりだけの湖に現れ、妖艶な雰囲気で道行く人を誘う様な雰囲気を醸し出していた。


 そして、その足を次なる場所へと進めようとしたセレンだった……が、徐々にではあるが自分の居る所へと近づいてくる足音が聞こえ、その方角へと視線を向ける。


 階段を駆け上がってくる音。 それがやむと同時に、廊下へと飛び出した人影が、セレンを前にして足を止めた。


「はぁ、はぁ……よう。 まだ開演前だろ? 俺の席は残ってる?」


「貴方は……」


 息も切れ切れ、腰を曲げて壁に手を突きながらセレンの前に登場する季人。


 その顔を、セレンははっきりと覚えていた。


「この前は途中退場しちまったからな。 聞き逃したアンコールには間に合ったか」


「何をしに来たの? ここには貴方が連れ戻す友人はいないわ」


 警戒の色が強まる。 それもそのはず。 彼女にしてみれば、季人がこの場にいる事は青天の霹靂以外の何ものでもない。


 まったくのイレギュラーの登場がその場の空気の温度を下げる。 軋みをあげて凍結しそうなまでに下がり、緊張感が張りつめるそれを緩和させる為に、季人は話を続けた。


「そう邪険にするなよ。 もう顔見知りだろ俺たち。 夜のコンサート会場でデートした中じゃないか」


 だが、季人の意に反してセレンの感情は一気に昂りを見せた。


「ふざけないで! 邪魔をするなら貴方も容赦しない!」


 セレンは右手に持っていたフルートを口元に誘導する。 それは銃口を向けることと同義の威嚇行為。


 当然の反応だろう。 薄暗い工場内。 照明の落ちている廊下で無駄話をわざわざ始める様な人間……警戒しない方がおかしい。


 それに、部外者であろう人間がこうしてこの工場にいるという事は、何か目的があっての事だというのは間違いない。


 無力化した工場内に現れた闖入者。 それが自分に全く無関係だなどという短絡的思考はセレンに無い。 ほぼ間違いなく、自分に関わる何かだと察した。


 そして、季人の方もこれ以上問題を先送りにしたところで、状況は改善しないと一つため息をつき、口調は柔らかいまま、目つきだけを真面目なものへと変えた。


「……別に、復讐を否定する気なんてさらさらない。 当人同士の問題に俺みたいな第三者がつべこべ言っても仕方がないからな。 ていうかそういうの面倒くさいし」


「……っ!?」


 目の前の男は知っている。 自分が何を考え、何をしようとしているかも。


「だったら、どうして……」


 隠し通そうなどとは考えていない。 もとより、後の事なんて考えていない。


 だから、セレンの口をついて出たのは、そんな単純な疑問だった。


「まぁ、そうは言うけどさ。 常識的に考えて、女の子が危険な橋を渡りそうになってたら、普通止めようとするだろ? いや、俺が常識を語るのもおかしな話なんだけど」


 警戒の色がまったく解けないセレンに多少はおどけて見せる季人だが、結局蛇足に終わった。


「ていうのは正直な話、建前みたいなもんだ。 俺にとってはな」


 だったらと、季人は本音をぶちまける事にした。 面倒な言い回しを考えるよりも、よほど相手の心を動かすことだ出来るだろうと半ばヤケクソ気味ではあったが。


 一旦言葉を区切り、一呼吸おいて季人は頭の中を整理する。 ロードバイクでサウンドメディカルの工場を目指して走っている最中、延々と考えていた事を……。


 この少女を無理やり連れ帰るのなら早い話だ。 音楽ホールでは不発に終わったが、このまま目を瞑って前方に向けて猛然とタックルを決め込めばいい。 この距離なら能力の影響を受けるまでに時間がかかり、ヘッドフォンで聴覚を保護して視覚を封じたままなら、能力に支配されることはないだろう。 あとはタッチダウン後に担ぎ上げてそのままスタジアムを後にすれば任務完了だ。


 サウンドメディカルからセレンの身を隠すことなんて、自分とウィルで知恵を絞ればどうとでもなる。 というより、これまでに集めた悪行の情報を広めればそこれ終わりだ。 社会的に那須は死ぬことになる。


 だがその方法を取った場合、セレンが自分の中に渦巻く負の感情を清算できるのか分らない。 那須への憎しみに囚われ続けることになるかもしれない。


 結局のところ、そこをなんとかしない事には、セレンを救うって事にはならないのではないか……そう思えてならなかった。


 かと言って、自分には説得だの諭すだの、高尚な術は持ち合わせていない。 そもそも初めからそんな事出来るなんて思っちゃいなかった。


 だから結局、自分の言葉というより、彼の思いを利用するしか着地点が見つからなかった。


「セレン、人を殺した後でも、誰かを感動させることが出来るのか?」


 そして、それは季人にとってのセレンへのこだわりにも合致することでもある。


「心のままに歌うのが上手な子だと言っていた。 それを聞くことが好きだって、お前の親父がな」


「……父さんが?」


 セレンは父の名が出たことで、意識が否応無しに季人へと向けられる。 というより、季人が引きつける事に成功したと言える。


「お前、那須をどうするつもりだ?」


 少女の表情は変わらない。 しかし、フルートの手がわずかに震えたように見えた。


「……」


 返答を期待していた季人だったが、セレンは口を閉ざしたままだ。


 素性もわからない男に言う義理はないということか、それとも、口にする事で出来ないようなことなのか。


 考えたくはなかったが、その様子を見るに後者なのだろう。


 即ち、セレンは那須の殺害を考えていると言う事だ。


「俺は人を殺したことが無いから、その後に人間としてのあり様だとか心の状態なんてのはよく分からない。 人によっちゃあ相当堪える場合もあれば、何食わぬ顔で済ましちまう奴もいるらしいけどな。 だけど、問題なのは今まで通り、その後で人を感動させ続けられるのか……その力が失われてしまうのか。 それが、俺にとっては一番重要だ。 俺はその力を守る為に来たんだ」


 嘘は言っていない。 季人の本心から出た言葉。


 考えようによっては、那須となんら変わらない。 セレンの力に興味があるという一点では、まさに同類と言っていいだろう。


 ただ、季人は本気で勿体ないと思った。 嫉妬していると言っても言い過ぎじゃない。 セレンの持つ特別な力を心の底から羨ましいと思ったのだ。


 そんな力が、那須を殺すことで消失するかもしれないというのは見過ごせない。 と言うより、季人には我慢できなかった。


 その思いは結果的に、能力の消失を恐れたフランクの思いにも直結する。


「私は、それでも……こんな力、無くなったって構わない」


 俯いて、若干震えた声で言うセレンの目元は前髪に隠れて、表情を読み取る事は出来ない。


「私達を苦しめた男を殺せるのなら、二度と吹けなくても、歌えなくても構わない!」


 そう口にした瞬間、セレンは季人に背を向けてさらに光が届かない廊下の先へ走り出す。


「おい、セレン!!」


 その動きを全く予想していなかった季人はセレンを追う為、既に乳酸が限界値を迎えそうな足に再び力を入れる。


 セレンに成人男性を振り切るだけの脚力があるようには到底見えない。 いくら季人が疲労困憊の状態と言えど、追いつけないという道理はない。


 しかし、追いかけている季人の耳に電子音が届き、嫌な予感に走りながら顔をしかめる。


 そして、その予感が目の前で確信に変わり、季人は足を止める。


「セレン……」


「もう、追ってこないで」


 手を目の前にかざすと、何もないはずの空間に硬質な何かがある感触が手のひらに伝わる。


 薄暗闇に目を凝らせば、透明な強化アクリル製のドアがセレンと季人を隔てる壁として道を塞いでいた。


「本当に、那須を殺すのか?」


「……」


 無言は肯定と受け取っていいだろう。


「……セレン、お前の音楽、俺も聞いたぜ。 能力云々関係無く、すげぇって思ったよ。 あれだけ一端のものを身に着けるってのは、本当にこれまで努力してきたんだって、マジで尊敬する。 ファンだって大勢いるんだろ? 写真を公表した今じゃ、ネット中大騒ぎだぜ」


 セレンは何も言わない。だが、ここで言葉を途切れさせるのは、彼女の手を放してしまう事と同じだ。 今はセレンをこちらに振り向かせなければならない。 壁を隔てた道の先に進ませてしまえば、言葉通り、一線を越えてしまう。


 季人の声には焦りが含まれていた。 平静を装い、自分は落ち着いていると思っていても、どうやら体は嘘をつけないようだ。


 それでも、今は語りかけ続けるしかない。


「セレン達の音楽はメディアに印象操作なんてされてない、音楽の本質ってやつで色んな人の心を震わせてきたんだ。 いや、お前は知らないかもしれないけど、事実そうなんだ。 きっとその音楽で救われた人だって大勢いたはずだ」


 医療業界で使われているシステム・セイレーンの事ではない。


 今回季人たちが関わる事の切っ掛けにもなった、御伽の聴いていたアンテモエッサ・ラウンジで配信していたセレンの楽曲。


 ヒーリングミュージックという銘に偽りのない癒しの旋律は、聞いた人の心を数えきれぬほど安寧へと導いたはずだ。


「それをいいのか? ここでそれを終わりにしちまって。 那須の命っていうのは、それに見合うものなのか?」


「……もう、遅いわ」


 ようやく口を開いたのは、決別を告げる為。


 セレンは季人を視線から外し、さらに奥へと歩き始める。


 季人はドアをこじ開けようとするが、殴っても蹴っても、びくともしない。


「っくそ、どれだけ頑丈なんだよ!! おいセレン!! まだ遅いってことはないだろ!! 復讐の方法なんて一つじゃねぇだろ!! もっとねちっこくいやらしくってやり方も……っ」


 声を張り上げて訴えかけるが、その姿は既に暗闇の奥へと進み、姿は見えなくなってしまっていた。


「待てって!! おいウィル!! この扉どうにかならないのか!?」


 横にスライドするタイプの物だが、手動用の取っ掛かりに手をかけて力を入れてもビクともしない。


『待ってくれ……』


 はやる気持ちを抑え、ウィルの言葉を待つ事数秒。


『だめだ、その建物のセキュリティーは徹底してる。 管理項目から電気錠系の操作ユニットが確認できないって事は、ICカードの認証以外は受け付けない。 時間を掛ければ開錠できるけど、今すぐは無理だ』


 返ってきたのは嬉しくない現実。


「ICカードって、そんなもの探してる暇ないぞ」


 ここに来るまで、誰ともすれ違う事はなかった。 職員の人間からう奪うのではなく、どこにあるのかもわからないICカードを探し出すのは選びたくない選択肢だ。


『……なら、一か八か。 こういう時は物理的に突破を試みよう』


「物理的って……このドア、鈍器を振り回したところでぶち破れるとは思えないぞ」


 手の甲でノックしてみても、相当な強度であることが伺える。 水族館の水槽にも使われていそうな強化アクリルだ。 削岩機レベルの代物でもない限り突破は難しいだろう。


『季人、君に渡したグローブがあるだろ。 それを直ぐ手にはめてくれ』


「ああ? そんな物が何の役に……まぁいい」


 問答する暇すら惜しい季人は、部屋を出る間際にウィルに渡されたグローブを右手に装着する。 


「よし、はめたぞ」


『グローブから出ているコードを、バッテリーにつないでくれ』


 腰にまわしてあるポーチにある、電気製品なら大抵利用可能なタバコの箱サイズの非常用充電バッテリーに、コード先のジャックを差し込む。


 バッテリー側のランプがグリーンに点灯し、グローブを認証する。


「……OKだ。 それで?」


『ICカードを読み取らせるパネルがあるだろ?』


「ああ」


 季人にとっては、コンビニや改札ぐらいでしかなじみが無い、カードを溝に沿ってスライドさせるタイプではなく、翳して認証するタイプだ。


『思いっきり殴りつけてくれ』


 その言葉に、季人は一瞬だが返答に詰まった。


「……は? これで、か?」


『そうだよ。 そのグローブは元々サイドチャネル攻撃式のハッキングツールで、パソコンの電位変化を利用した暗号解析アイテムなんだよ』


「おう、日本語で頼む」


 パソコンの知識は人並み程度にあるが、専門用語となるとそれはもう別の星の言語だ。


『簡単に言えば、パソコンモニターに触るだけで情報を読み取れるっていうものさ。 先週ネットで話題になってたまとめサイトを見て、自分なりにツールを作ってみたんだ』


「……相変わらず予想だにしないものを気付けば作っているよな。 それで?」


『これはなんと言うか、電圧設定時のバグが元だったんだけど、手の甲に仕込まれた伝導体に圧力が加わる時、人差し指と中指の付け根辺りにある電圧変換機がショートして高圧電流が流れるようになってるんだ。 まぁ、意図しないものだったけど、何かの役に立つと思ってそのままにした。 当然人体にも有効だ。 あ、もちろんはめてる本人は感電しないように絶縁処理はしてあるよ』


 季人はウィルの話を聞いている最中にも、手の平と甲をヒラヒラと目の前で交互に見やる。


『それで、その高圧電流だけど、機械を対象にしても、回路をふっとばす位の威力はある。 運が良ければ、それでロックが外れるよ』


「おいおい、何時の間にそんな物騒なもの作ってたんだよ」


『僕は君のサポート要員だ。 今回の様な荒事が予想される事態には万全の準備が必要だろ。 だから、暇を見つけては少しづつ内職してたんだよ。 って、だからそれは本当はハッキングツールなんだって』


「どこの世界に高圧電流叩き込めるハッキングツールがあるんだよ」


 通りで指の付け根がごわごわすると思った。 おそらくそれが絶縁体なのだろう。 外側からなぞりたくなるが、迂闊な行動はやめておこうと思う季人。


『季人、僕は何処までいっても所詮裏方に過ぎない。 現場に出ている君のサポートをこうして遠隔からするとは言っても、体を張る事なんて出来ない。 いや、その場にいたところで盾にすらならないだろう。 だからと言って、季人が障害にぶつかった時、何も出来なくて悔しい思いをするのは歯がゆい。 少なくとも、今回の事態は最悪の場合、命に関わる場面があるかもしれない。 それを打破するための可能性を少しでも上げるためのツールがそれさ。 僕が現場に出張れない分を、そのグローブが少なからずカバーしてくれればいいと思う』


 中々ぐッとくる事を言ってくれる相棒。


 そして、まさに今ウィルの思いやりは、道を切り開くための力として拳に宿っている。


 装着感を確かめるように数回握っては開いてを繰り返し、最後に力の限り握りこむ。


「そうか。 サンキュー、ウィル」


『あぁ、ちなみにそのグローブは他にも機能があって、年末のかくし芸用に万国旗を忍ばせられたり、微弱電流を流して指を動かし折り紙を折れたり――」


「っしゃぁ!! いくぜぇ!!」


 ウィルの言葉尻に被せるようにして、振りかぶった拳を掛け声とともにカードリーダーへと打ち込んだ。

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