第14話 恋海月


 恋海月。


 約百年前、この辺り近海に発生した魔物の呼称だ。余りに危険過ぎたため討伐され、絶滅したと資料で読んだ。


 それが今、俺をベッドでもてあそんでいる。


「スミスさんも人が悪いですわ。とっくに気づいていたんでしょう?」


 獣王の証はずっと反応していた。俺はそれを認めようとしなかった。


 人間のように親に愛されて暮らす魔物。このまま何事もなく街を去れれば良かったのに。


「どうして、俺を狙う……」


「苦しいから」


 令嬢が体重をかけてくる。胸同士がこすれあい、山なりの乳房の形が流体のように変化する。


「あなたが悪いんです、スミスさん。あなたを想うと私、苦しくて堪らない。ある人に教えてもらいました。あなたを殺せば収まると」


「後悔するぞ。親父さんにも顔向けできないだろう」


「ではどうしたらよろしいんですの? 押さえきれない力で海は荒れ、いずれお父様たちも私の正体に気づく。そうなったら私は……」


 令嬢は人間として育てられ、凶暴性とは無縁の気性を得ていた。だからこそ急な力の発現に戸惑っている。


「君の親父さんなら大丈夫だ」


「そうでしょうか。自信が持てなくて。スミスさんは私を受け入れてくれますか?」


「善処する」


「ではこうしましょう。ドラちゃんと別れて私と結婚してください。これで全て丸く収まります」


 令嬢の提案は矛盾している。俺を殺そうとしたり、懐柔したり、信用できるはずがない。


「それは駄目だ。俺には責任がある」


 フェイリスをあんな姿にした責任があるから、放り投げておしまいというわけにいかない。少なくともあいつの目的が果たされるまでは。


「お気持ち、よーくわかりました」


 漂っていた海月が泡のようにはじけて消えた。令嬢が体を起こす。目には狂気の色が浮かんでいた。


「スミスさんを食べることにします。恋海月のお食事は慈愛に溢れていますの。痛くないように気持ちよくなる成分を体に注入します。快楽に耐えられる生物はいません。皆、喜んで私に身を捧げてくれますわ」


 快楽目当てに自殺者まで出たらしいからな。相当気持ちよくなって逝けるんだろう。


 おい、ドラ猫。見ての通りかなりのピンチだ。呼ばれない時は来る癖に、頼みの時は不通か。俺は責任を果たすと決めたんだ。お前も役目を果たせ。


「朝まで時間はあります。たっぷり愛し合いましょうね……」


 その瞬間、令嬢の背後のドアが勢いよく吹っ飛んだ。何が起きたかわかる前に令嬢が壁に叩きつけられ、首を締められていた。


「が、あ、ああっ……!?」


「お二人でずいぶん盛り上がってるじゃないですか。わたしも混ぜてくださいよ。ねえ!」


 フェイリスが怒りにまかせて令嬢を揺さぶる。宙に浮いた足が苦しげにばたついた。


「おい、殺すなよ」


「スミス!」


 俺に気づいたドラ猫が令嬢を床に放り投げる。どさっという音の後に、せき込む気配がしばらく続いた。


 フェイリスは殺気を収め、頬を緩める。


「お花以外も教えようとしたバチが当たりましたね」


「俺から誘ったわけじゃない。来るのが遅せえよ」


 起き上がった令嬢が、フェイリスを恨みがましくにらむ。


「どうしてここに……、海は荒れて来れるはずが」


「泳いできました」


 フェイリスは頭にはりついていた海草を捨てる。


「スミスに呼ばれたら、どこからでもわたしは駆けつけます。見くびらないでください」


 令嬢の怒りに油を注いだ。でも正直助かった。今回は一人でなんとかできると思ったが、そう簡単な相手ではないというのが骨身に沁みた。


「どうしてドラちゃんなんですの? 会う順序が違えば私だって……」


「それはどうでしょうね」


 フェイリスにやにやしながら俺の顔に鼻を近づけ、唇を奪った。じゅるじゅると下品な音を立て、唇を蹂躙する。舌を引っこ抜くような激しい勢い。むせかえるような唾液量に気が遠くなる。窒息する寸前で口が離れた。


「ふぅ……、これはグリフィンタイガー伝統の毒出しです。令嬢の可愛いキスなんてスミスはもう忘れてますよ」


「私のはじめてを汚すなんて許せない! ドラちゃん、あなたを殺します」


 なんの張り合いしてるんだよお前ら。止めたかったが、毒出しの余韻で頭が痺れ、言葉が浮かばない。

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