Ⅲ「佐幕開国」と「尊王攘夷」の捻じれ構造
自虐的歴史観を内包した戦後民主主義の思想の流れは、東西冷戦の局面を迎えた1960年代以降、強烈な激しさを持って社会に現れることになる。
第二次世界大戦後すぐ、日本とアメリカの間で締結された日米安全保障条約は、10年毎に行われる改正の度に中国ソ連からの干渉を受け、日本国内に大きな議論を巻き起こした。
明治維新を主導したのは下級武士の思想であるという一義的な視点は、1960年以降の日米安全保障条約に関わる激烈な社会活動、即ち安保闘争とよばれる活動が隆盛した時期に、自らの自由意志が虐げられていると感じた青年活動家達のプロパガンダに用いられた言説であると私は考察している。
共産主義、社会主義を是とする活動家たちは、資本主義における富の三角形構造を、封建主義の身分制度に投影した。
1960年代の社会思想は「尊王攘夷」と「佐幕開国」に対する解釋にも多大な影響を与えた。ペリーの浦賀来航以降、世界情勢の情報収集を急ピッチで行った徳川幕府は開国已む無しの判断を下していた。しかし、開国にあたっては各藩に自由貿易を認めるのではなく、その権利を全て幕府が一括掌握することを明言していた。
ここで幕末期以前より貿易を行ってきた薩摩藩が、真っ向から反対の意を示した。島津氏は、薩摩藩の幕政参加をこの時から強く望むようになった。幕府が海外との貿易に好意的であったのは、薩摩藩の対外貿易の成功を把握していたからだと考えられている。
江戸時代、日本国内の商業はその時代の海外諸国に比しても充分に発達していたため、国内に限った商売には限界が見えていた。商人に富が集中するようになり、封建社会の長である武家にその富が循環しなくなっていたことがそれを端的に証明する現象である。日本に芽生えていた資本主義の萌芽は、資本の血流の網を海外へ広げる時機に来ていた。
したがって、攘夷という考え方は、少なくとも家茂の代においては既に、時宜にそぐわない時代遅れの思想であると捉えられていた。
ここで、歴史解釈に対する捻れが生じる。
第二次世界大戦を引き起こした日本帝国政府は封建主義の象徴的存在であり、天皇を信奉し諸外国との戦争を行った。これが幕末の「尊王攘夷」運動と同等の物であると、戦後、どこかの時点で、誰かが提唱した。
それは、明治維新と第二次世界大戦敗戦を重ね合わせる歴史観の流れの中に生まれた解釈であると考えられる。
現在、私はその時点で誰がその考え方を提唱したのか、探索を行っている。このうち時代については、それが1960年代ではないかと予測している。
明治維新と第二次世界大戦敗戦を重ね合わせる歴史観の、これがもっとも重大かつ致命的な誤謬である。
1960年代の歴史解釈の捻れの影響を受けた代表的人物が、坂本龍馬である。今日までしばらく、坂本龍馬は明治維新の中心的な立役者であると評価されてきた。だがその評価は白紙に戻されようとしている。それは1960年代以降の社会思想によって方向付けが決められ、歴史の事実からはかけ離れた人物像が独り歩きをしていると研究者たちが判断の保留を始めたからである。
自虐的歴史観は、自らを被害者であると位置づけ、加害者から自分たちを救ってくれる英雄という偶像を要求する。言い換えるならば、"英雄"は自らが被害者である、という視点を持たなければ生じない思想の流れに末に顕在する存在であると言えるのではないだろうか。
もう一つ、重要なこととして、江戸幕府と帝国政府を重ねあわせ、明治維新に殉じた人々と大戦の戦死者とを同一のものと捉えるこの考え方は、日本軍が戦地で行ったことへの視点を構造的に欠いていることも、ここで指摘しておきたい。
明治維新の混乱は国内で起きた事だが、第二次世界大戦はそれに参加した各国が他国で戦闘行為を行った対外戦争であったことは忘れてはならない事実である。
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