第3話 薩摩藩邸焼き討ちから庄内藩の松ヶ丘開墾事業まで

一八六七年十二月二十三日夕方、江戸城二の丸が炎上したのと同日に、三田の新徴組屯所に薩摩藩邸から銃弾が浴びせられた。


 この新徴組の屯所は三田の町屋、大きな構えで営む蕎麦屋の二階を召し上げて臨時に屯所にしていたもので、薩摩藩邸を眼下に一望できる立地にあった。薩摩浪士には確かに目障りな位置であったが、新徴組を対象としたあからさまな攻撃はこれが初めてだった。この日の銃撃で新徴組士には被害はなかったが、近くの民家にいた老婆が流れ弾に当たり死亡した。


 翌日十二月二十四日、徳川慶喜不在の江戸の地を守っていた旧幕府勢は、これまでの薩摩浪士のふるまいを考慮して庄内藩に薩摩藩邸の攻撃を許可した。庄内藩は自らが単独で攻撃すれば私怨と区別がつかないとして、他の藩からの助力も願って聞き入れられた。


 十二月二十五日未明、庄内藩の他、三つの藩がおよそ千人の兵力を集めて三田の薩摩藩邸を包囲した。この時、逃げ場を完全に塞ぐと薩摩藩邸内の火薬を全て爆発させるなどの自爆行為が懸念されたため、藩邸に面した海に近い道が逃走用としてあえて解放されていた。

 旧幕府側が新徴組屯所に発砲した者の引き渡しの要求をしたが薩摩は当然これを拒否、日の出とともに旧幕府軍の猛攻が始まった。


 容赦なく打ち込まれる砲撃に薩摩藩邸にはすぐに火の手が上がり、建物は全て焼け落ちた。薩摩藩邸内の死者は五十人を数え、百人以上が捕縛された。生き残って逃げ出した薩摩浪士数十人は、敢えて解放されていた道をひたすら南に遁走し、追っ手を撒くために品川宿に火をつけた後、海に飛び込んで海上の薩摩藩が所有する蒸気船翔鳳丸に引き揚げられた。

 同じく海上に待機していた旧幕府の軍艦回天が砲撃を加えたが、翔鳳丸を捕らえることはできず、翔鳳丸はそのまま大阪に向かった。薩摩藩邸襲撃において新徴組を含む旧幕府側の死者は九人だった。


 薩摩藩邸攻撃を終えると、旧幕府江戸留守居役は、直ちに江戸に入る五街道の関所の新設に着手し、江戸を本拠地とする総力戦に備えた戦闘態勢に入った。


 十二月二十八日、江戸城二の丸の炎上ならびに新徴組屯所への発砲と薩摩藩邸襲撃の情報が大阪にいた徳川慶喜に届いた。その時、徳川慶喜と朝廷は、武力討幕を主張する薩摩や長州を朝廷から一旦排除して、公議政体という政治形態をもって同意に達しようとしていた。


 公議政体とは公武合体の思想を発展させたもので、諸藩の長で構成される公議の場を、徳川氏が取り仕切るという政体の構想だった。従来の徳川幕府と変わらない支配形態を、薩摩藩を始めとする討幕派はもちろん認めておらず、朝廷に翻意を促す機会を必死に手繰り寄せようとしていた。


 薩摩浪士による江戸城放火ならびに薩摩藩三田邸壊滅の知らせを聞いた徳川慶喜ら旧幕府の重鎮は、朝廷との協議を中止して薩摩討伐へと方針を変えた。

 この成り行きは、薩摩藩の思い通りのものだった。

 薩摩の西郷隆盛が、江戸や関東近郊で浪士を煽動して旧幕府軍を挑発し、全面的な武力衝突へ誘導していたのは、自らの戦力が旧幕府軍に勝ると確信していたからである。


 ここに、鳥羽伏見の戦いが開戦した。


 近代兵器を充分に備えた新政府軍の圧倒的な武力の前に、徳川慶喜を総大将とする旧幕府軍は負けた。正確には勝敗が決定する直前に総大将である徳川慶喜が海路を使い江戸へ逃走した。

 鳥羽伏見の戦いの間に、武力を背景にした薩摩藩の強い勧告により、朝廷は徳川氏との公議政体構想を覆し、徳川慶喜追討の勅令を発した。

 江戸へ戻った徳川慶喜は、朝敵となった。


 一八六八年一月七日、庄内藩主酒井忠篤に、旧幕府の征討軍に加わって徳川慶喜を討伐するようにという勅書が下った。


 庄内藩主酒井氏は、徳川慶喜追討の勅書は拝受しても実行に移さないまま、慶喜への寛大な処置を朝廷に嘆願し続けていた。


 一方旧幕府側は、徳川慶喜追討令を受けて、徳川氏の直轄領が朝廷に接収される前にそれらの大部分を譜代大名へ譲渡とした。庄内藩も、自国領地に近い出羽村山郡の直轄領を譲渡された。当該地は庄内藩と新政府の二重支配を受けることになり、一触即発の火種を国許に抱えることになった庄内藩は、徳川慶喜追討令に従わないまま領地への帰国を決めた。


 一八六八年二月、江戸市中取締の任を解かれた庄内藩主酒井氏が帰国のため江戸を発ったその六日後、新徴組も江戸からの引き上げを開始した。


 一八六八年四月、新政府は酒井氏を朝敵とし、庄内藩追討令を発令した。


 一八六八年五月、戊辰戦争が始まった。侵攻する新政府軍への徹底抗戦に備え、東北の地で仙台藩伊達氏を盟主とした奥羽越列藩同盟が発足し、庄内藩もこれに加盟した。戊辰戦争は列藩側の白河城奪還から始まったが、新政府軍の主戦力が本格的に東北地方に展開され始めると、列藩同盟の足並みは途端に崩れ始めた。

 新政府軍の主力である薩摩藩がもつ多量の近代兵器と、その扱いに熟練した兵士達による攻撃は、近代化に乗り遅れた東北列藩の戦力を大幅に上回っていた。


 一八六八年九月、仙台藩は一千二百人余の死者、会津藩は悲惨な籠城戦の末に二千五百人余の死者を出して新政府軍に降伏した。


 庄内藩酒井氏は、この列藩同盟の主軸ともいえる二藩の降伏を見て庄内藩の降伏の時期を見定めていた。


 実のところ庄内藩は戊辰戦争において一度も新政府軍に敗退していない。むしろ優勢に戦いを進め、新政府軍が自国領地内に足を踏み入れることを許さなかった。

 他の東北諸藩の軍が新政府軍との戦闘に耐えることができなかったのは、所有する兵器の性能の差が大きな理由ではあったが、自国の領民に背かれたことも理由の一つだった。徴兵しようにも領民は逃げ出し、兵糧を要求しても武力で抵抗されるということが東北の各地で生じた。

 

 だが庄内藩は自国領民の背反とは無縁だった。領地内各地の藩領境界線上で連戦を重ねたが、その土地毎に領民自らが兵力となる事を志願し、豪商が軍資金を、農民は兵糧を差し出した。

 そして庄内軍を率いる酒井玄蕃は、並外れて優秀な智将だった。引くべきところは退き、攻めるべきところは大いに攻めて必ず勝利を挙げる。五月から九月に至る長期間、酒井玄蕃の名は鬼玄蕃として新政府軍内に伝わり、玄蕃の率いる隊列の旗、七星旗を見ただけで新政府軍が敗走したこともあった。


 列藩同盟が次々に陥落する様子を知る庄内藩主酒井氏と酒井玄蕃の間には、共通認識があった。それは余力を残した降伏をし、できるだけ有利な和睦を新政府軍と結ぶことである。玄蕃は戊辰戦争の最後まで戦い抜き、刈和野の戦いで秋田藩ら新政府軍を徹底的に打ち破って鶴ヶ岡城に凱旋した。

 

 この戦果を以って、庄内藩主酒井忠篤は、新政府軍に降伏することを決めた。


 庄内藩の降伏にあたり、新政府軍には西郷隆盛から内密に指示が出された。降伏後の城の明け渡しに際して城内の庄内藩士には帯刀を許したまま、新政府軍には武器の携帯を許さずに入城させたのもその指示の一つである。これは新政府軍に一敗もしないまま降伏することになった庄内藩に対する西郷隆盛の精一杯の敬意の表明であった。


 庄内藩への厚遇はこれだけではなかった。


 酒井氏は奥羽列藩に序しながら領地転封もなく庄内藩に留まり続け、石高も二十一万石のうち三万石を減じたのみだった。仙台藩伊達氏や会津藩松平氏が転封され、石高も藩の経営が成り立たないほど大幅に減らされたのとは対照的である。

 酒井氏に厳罰を科せば、忠誠篤い庄内藩領民が反乱を起こすことは必至であって、酒井氏への寛大な処遇は、全国各地で民衆の反乱が生じていた同時期に、新政府が選ばなければならない選択肢でもあった。


 戊辰戦争終結後に、西郷隆盛は黒田清隆を介して庄内藩との結びつきを深めた。これは幕末期にあって薩英戦争終結後にイギリスと強固な友好関係を築いたこと、また激しく対立した後に長州と同盟を結んだことにも共通した薩摩藩、西郷独特の柔軟さであるといえよう。

 西郷隆盛は酒井忠篤に鹿児島視察を奨め、酒井忠篤もこれに応じた。

 鹿児島の視察を終えた酒井氏は、その後、庄内藩士を多数鹿児島に留学させ、かの地で薩摩藩士と共に新たな軍事や政治を学ばせた。酒井忠篤自身も西郷の勧めでドイツに留学して最新の軍制を学び、帰国してから明治政府の陸軍中尉となっている。


 明治帝国陸軍を嚆矢とする日本の近代軍隊は、この後、ドイツ式の軍制を模倣して発達していくことになる。


 一八七七年(明治十年)二月、西郷隆盛が明治政府に不満を持つ士族と共に反政府の兵を挙げ西南戦争が始まった。当時、鹿児島には留学中の庄内藩士が多く残っていたが、開戦を前に西郷は故郷へ戻るよう彼らを説得した。ほとんどはそれに応じたが、そのまま西南戦争に従軍して敗将となった西郷に最後まで従い、ともに自決した庄内藩の若者がいたことが記録に残されている。


 一方、新徴組士は戊辰戦争後に庄内領地の松ヶ岡荒地に開墾士として送られていた。


 この時、江戸に残っていた新徴組も新政府軍に捕縛されて松ヶ岡に送致された。彰義隊と共に上野の戦闘に加わった者もあったがその後の消息は不明だった。


 新徴組の他、庄内藩の下級藩士が送り込まれた松ヶ岡の地は、人の身体も潜り込めないほどに雑木が密生していた。地形としてはなだらかな丘であっても松の巨木があちこちに群生して根を蔓延らせていて、開墾は難事業だった。


 当初、城下から通いで開墾作業に当たっていた新徴組士は、空き屋敷を松ヶ岡開墾地に移築して新徴組小屋とし、開墾士の会合場所や共同住宅として利用するようになった。新徴組のその結束力の強さが官軍の目の敵となり、会合が禁止されるなど監視が厳しくされたこともあったという。開墾場に武器弾薬を集積して反乱を起こすのではないかという疑いも向けられた。


 庄内藩の元中老であった菅実秀は、「国辱を濯がんと欲して荒城を出ず」、すなわち賊軍として敗北した汚名を耐えて報国の志を新たに持つことこそ酒井氏への忠義である、と説いて、新政府から常に猜疑の目を向けられる新徴組や庄内藩士を鼓舞した。


 そうして文字通り血のにじむ労力の末に切り拓かれた耕作地には、明治政府の指導により茶の木と桑の木が植えられた。雪深い庄内の地では、他の土地で根付いた茶の木は育たなかったが、桑の木の栽培は成功した。

 繭のまま運ばれてきた蚕はこの地の桑の葉をよく食べて、上質な絹糸を紡ぎ出すようになった。松ヶ岡の養蚕事業は次第に軌道に乗り、絹糸の生産量は増加した。


 養蚕は松ヶ岡の他、全国各地の職を失った多くの武士たちに士族授産事業として奨励された。日本国内の絹糸の増産は進み、明治新政府を支える海外貿易の主要な輸出品となった。富国強兵という明治政府が国内の安定を求めて国民一律に指示した標語は、江戸時代から引き継いだ人的資産に多くを依存して駆動を始めた。


 そして、明治初期の士族授産事業のうち、全国のどこよりも先んじて成功したのが庄内藩の松ヶ岡開墾事業である。だがその功績は世に広く伝えられることなく、ただ祖先の名誉を誇りに思う人々によって、脈々と彼の地に語り継がれている。


 維新の動乱が収まった後の東京では、過日に威容を誇った多くの藩邸は朽ちるに任され、あるいは藩邸を去る際に家中の者の手によって打ち壊され、そこにも茶の木、桑の木が植えられたが、それらはやがて枯れ果てた。


 明治の新しい世の始まりは、多くの者に過去との決別を促した。

 振り切れなかった過去、捨てたくなかった過去、おおよそそれまでの全ての過去から目を逸らし、先の世を見据えなければ生の道から振り落とされる。それはまさしく時代の変革期であった。

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