第9話 日進月歩
「それでは……始め!」
これまで幾度となく発せられた開始の合図。その瞬間、不知火は相対した九十九の懐に飛び込もうと疾風のように走った。
これまで散々辛苦を舐めさせられた経験から、決して焦ってはならないと学んだ。勝つには短謳を成功させる事が絶対条件だが、九十九はそれを絶対に許さない。ならば初手の短謳は諦め、まずは距離を詰めるべきと判断した。
しかし案の定、前方から猛烈な風が吹いた。体が押し戻され僅かに体勢が崩れるが、不知火は全く動じなかった。この程度であればまだ予想の範囲内。
目の端で確認した九十九の姿はすでにもう一〇m近く距離を取られていた。翠月の有効射程は長くても三mほど。逃げて距離を取る九十九にどうにかして近づかなくてはならない。
「くっ!」
間髪入れず黒い棒状のものが五本、不知火に向かって飛んできた。即座に反応した不知火は翠月で全て叩き落とす。甲高い音を立ててそれらは地面を転がった。音からして鉄のようだ。
続いて同じものが上前方から迫ってくるのは不知火は察した。後方へ飛び退りたいところをぐっと堪え、かい潜るように不知火は前方へ走る。僅かな時間の後、後方からガンガンとけたたましい音が響く。
これで少しは距離を詰められる、と思ったのも束の間。
「あ!」
今度は地面が揺れた。見れば不知火の足元がまるで沼地のようになり、ズブズブと両足が地面に埋まっていく。引き抜こうにも、埋まった足元はまるでコンクリートのように固まってしまった。両足を封じられては完全に万事休す。すぐに九十九は王手をかけに来るだろう。
しかしこの状況こそ、不知火が事前に想定していたものだった。すぐに思考を冷静に切り替え、それでも無理やり足を引き抜こうと、表面上は落ち着きを取り戻せないように装う。そして、下を向き自らの口元を隠し唱えた。
「
これまでの九十九との試合の中で、不知火は初めて短謳を唱えることができた。この事実こそ、九十九の油断に付け込めた証拠である。
翠月は蒼く光り、不知火の周囲に無数の刃を作り出す。蓮華の花びらのように広がった刃は、足を封じていた床を粉々に切り裂いた。
これで動きは自由になった。そして不知火の予測が正しければ、九十九はすぐそばにいるはずだ。
不知火は全神経を集中させて周囲の気配を探る。そして左側から僅かに何かの気配を感じ取った。不知火はすぐさま左手に飛び視線を巡らせると、目の前に九十九の姿を捉えた。後は翠月を九十九の喉元へ斬り込ませる。
「そこまで!」
如月の声で不知火はぴたりと動きを止めた。翠月は確かに、九十九の喉元わずか一cmまで届いていた。しかし九十九の悪食の切っ先もまた、不知火の額一cmに迫っていたのだ。引き分け。勝つ事こそできなかったが、ついに九十九に対して一矢報いることができた。
「……ありがとう、ございました」
緊張感が解け、不知火はその場にぺたんと座り込んだ。僅か数分の応酬だったが、自分の考えられる全てを出し切ったのだ。足に力が入らなくなっている。
それを九十九は嬉しいのか悔しいのか良く分からない表情で見下ろしている。
「ふう、参ったな。一年ぐらいは負けてやるつもりはなかったんだが、こんな早々と追い付かれちまうとはな」
「いえ、正直これはだまし討ちのようなものですから。二度目があるとは思いません」
「いらん謙遜だな。本番は常に一回こっきり。二度目なんざねぇんだ」
「そうですよ不知火。そもそもこの試合のルールが九十九にとって圧倒的に有利すぎるのです。それで引き分けに持ち込めたのですから大したものです」
「だな。搦め手に対する特訓は一区切りついたと言っていいだろう。次は鈴森でも連れてくるか」
「え、あの鈴森先輩ですか?」
鈴森も末課の一員という事は理解しているが、見た目から戦えそうなイメージが全く沸かなかったため、不知火は思わず聞き返した。
「あんな成りはしてるがな、あいつはあれで高校剣道全国大会個人優勝の経歴を持ってる。末期の一振り同士の一対一の戦いなら、日本中でもあいつに勝てるやつはそうはいない。それに、散々俺に何もできず虐められたんだ。正謳を使って思う存分戦ってみたいだろ?」
「それは、そうですね」
その申し出は確かに願ってもないものだ。翠月の潜在能力を確かめる意味でも、全力で戦う経験はぜひとも積んでおきたい。
「OK。それじゃ鈴森には連絡を取っておこう。さて不知火、ちょっといいか?」
くいっと九十九が右手を上げて親指で上を指す。上に着いてこい、という事だろうか?
「別に良いですけど……ここじゃ駄目なんですか?」
「もっと空気のいいとこで話そうぜ。風も気持ちいいし、今ならちょうど夕日もいい具合だろ」
そういえば、九十九との試合で不知火は汗だくだった。確かにちょうど風に当たりたい状態でもあったため、不知火ははい、と返事を返す。
そうして三人は屋上へと移動するのだった。
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