第5話 もう二度と会うこともないやろうけど
沼津港で海鮮丼を食べている間、一家は和やかに語り合って過ごした。主な話題は向日葵と椿の学生時代の話で、二人が一緒に過ごしていた頃の些細な幸せのことだった。たとえば、上七軒といえばケーキ屋の思い出で向日葵はずっと後になってから舞妓のいる地域であることを知った話、赤いきつねには関東風と関西風がある話、河原町通で徹夜でカラオケをした後みんなで四条通のマクドナルドの朝六時の開店を待ったこと――なんだか食べ物の話ばかりのようだが――ほんの昨日のことのように思えたし、十年も二十年も昔のことのようにも思えた。椿も素直な笑みを浮かべていて、向日葵の目には彼も池谷家になじんできたように感じられた。
だが時の流れは無情なもので、椿が夕方六時までには京都に着きたいというので、二時頃に沼津駅まで送ることになった。
父の運転する黒いミニバンを椿とともに下りる。助手席の窓を開けて母が必死に手を振る。
「また遊びに来なさいね。沼津まで旅行に来なさい。また顔を見せてちょうだい」
「ありがとうございます」
「いつでも待ってるからね。あんたももううちの子みたいなもんなんだから気軽においでね」
「そちらもいつか京都に遊びに来てください、観光案内ならいくらでもしますし、うちに泊まってもいいですし」
父が「俺らはここで待ってるからお前改札まで送ってきな」と言った。向日葵は「もちろん」と答えて歩き出した。
「ほな、ありがとうございました! お体にお気をつけて」
そう言いながら椿がロータリーを歩き出す。向日葵はその後に続いた。
椿がみどりの窓口で新幹線の切符を買っている間に、向日葵は改札の前の売店で適当に静岡銘菓を買った。こっこという黄色いパッケージの蒸しケーキだ。
「何もいらへんよ」
「新幹線の中で食べな。重いから椿くんなら一個でお腹いっぱいだよ」
「あんなに海鮮丼食べさせておいてまだ食えと言わはる」
改札の前で二人向き合う。がらがらなので周りに迷惑がかかるわけではない。しかし通りすがる人がまったくいないわけでもなく、田舎者の地元民は椿を見つけると無遠慮に彼を眺めてくる。こんなところで着流しの美青年を見かけることはそうそうない。
先ほど海鮮の店では穏やかに笑っていた椿が、今は凍てついた無表情をしている。どことなく蒼ざめて見える。硬い。きっと悲壮な覚悟を決めて自宅に帰る気なのだろう。
身を切るようにつらい。
「うちにいてもいいんだよ」
家族総出で何十回と繰り返した言葉を、向日葵はまた口にした。椿が自嘲的な笑みを浮かべて「あかんて言うてるやろ」と答えた。
「ほなね。もう二度と会うこともないやろうけど」
ずきりと、胸に刺さる。
「……さっき、お母さんには観光案内するって言ってたじゃん」
「他人にはもう会いたくないなんてよう言わんわ」
他人か、そうか、とうつむく。
視界の隅に椿の手が動いたのが見えた。これは最後のハグかと思って待ったが、彼は向日葵の手からこっこを取っただけでそれ以上何もしなかった。向日葵は苦笑した。それでも菓子だけは持っていってくれるらしい。それすらも拒絶されるかもしれないと思っていたので少し嬉しかった。
「元気でね」
「そちらこそ」
それが最後だ。
椿が踵を返した。
「さようなら」
見えていないだろうが、向日葵は大きく手を振った。
「また連絡ちょうだいね!」
椿は振り向かずにホームのほうへ歩いていった。あっという間に姿が見えなくなってしまった。
とてつもない喪失感だ。
もう会うこともない。キスすることも抱き合うことも二度とない。向こうは結婚して京都の伝統文化を受け継ぐ身で、自分も沼津で茶畑と製茶工場を相続する身だ。二人の道は完全に分かたれた。たまたまとたまたまの合流地点で出会った二人の未来は交わらない。
とぼとぼと駅を出てロータリーに向かう。父の大きなミニバンに近づく。中から操作してくれたらしく後部座席のドアが自動で開いた。
後部座席に腰を下ろした。また、ドアが自動で閉まっていった。
「……どうだった?」
母に優しく尋ねられた瞬間、どっと涙が溢れた。
「行っちゃった」
止まらない。
「寂しい」
そこからはしゃくり上げて肩を震わせながら泣いた。誰もとがめないでくれた。三人とも無言で前を向いていて、そっとしておいてくれた。
「寂しいよお……椿くんのバカあ……」
向日葵は家に着くまで泣き続けた。
まっすぐ自宅に戻った。母は「コンビニ寄ってアイスでも買う?」と言ってくれたが――おそらく向日葵の好物のハーゲンダッツを買ってやれば笑うと思ったのだろうが、とてもそんな気になれなくて――どこも寄らずに帰ってきた。
玄関前の駐車スペース、向日葵の黄色い軽自動車と共用の軽トラの間に自分のミニバンを止めると、父が言った。
「よーし、今度の連休京都旅行行くかー!」
突然だったので向日葵はびっくりした。だが母は能天気にも「おっ、いいねえ」と応じる。祖母も「それ私も行ってもいい?」と尋ねている。
「家族みんなで行こうぜ! 大樹も誘って五人で」
「えっ、来週っしょ? お兄ちゃんそんな急に大丈夫――かもね、この前カノジョと別れたって言ってたもんね……」
「問題は宿取れるかかな。足の予約はしなくてもいいと思うけど、五人で行くなら新幹線より車で行くガソリン代のほうが安いから」
「母さんとひまと大樹と俺で交代して運転してったらおもしろそう」
「えーっ、ひまの運転で高速乗るのちょっと怖いんですけどっ」
「椿に写真送ってびっくりさせたれ」
「なんなら呼び出せ、あの子私には観光案内するって言ったもん」
向日葵はからっと笑った。両親の気持ちが温かくて心地よかった。そして思う――沼津に帰ってきてよかった。
椿の家族はこういう心の交流がないのだろうと思うとつらい。だが椿とはもう他人だ。彼の言うとおり、お互いのためにこれ以上立ち入らないほうがいい。
自分は沼津に骨をうずめるのだ。ここで幸せに暮らす。祖母と両親との生活をいつくしみ、気が向いたら適当に地元の男と結婚して子供を作り育てる。幸福な人生だと思う。
「楽しみ!」
そう言って向日葵が笑顔を浮かべると、みんなほっとしたのか表情を緩めてくれた。
「ていうかマジ休日に実家帰ってきたらいきなり京都まで運転させられるお兄ちゃんウケるっしょ」
「いいのよ大樹はそういう雑な扱いで」
その日の夕方、向日葵は宿の予約をするべくパソコンを立ち上げた。当然ながら洛中の旅館やホテルは満室だったが、山科のホテルに空きがあって予約することに成功した。山科はJR京都線なら隣駅だからそんなに不便ではないだろう。
椿にはもう二度と会えないと思う。けれど大学時代の思い出が完全に悲しいものになる前に家族旅行の楽しい思い出を付け足すことができたなら、呼吸が少しは楽になるに違いない。
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